history日誌

カテゴリ:欧米の歴史 > ヨーロッパの歴史

1 イノシシ年なのに豚のお話
あけましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い年になりますように。ことしは亥年です。つまりイノシシ年ですね。しかし、十二支の本場中国では亥年の亥はイノシシのことではないそうです。亥年の亥はブタだそうです。つまり、本場中国では亥年はブタ年なんですね。中華料理にはブタ肉を使う料理がたくさんありますね。餃子もそうですし、春巻、麻婆豆腐もそう。あと回鍋肉とか。



ブタはイノシシが家畜化された動物ですが、その歴史は意外に古く、紀元前6000年くらいからブタは存在しておりました。日本でも弥生時代にブタが飼われていたという文献があるようですが、ブタが飼育される風習は日本では長らくなくて、日本人はイノシシをとって食べていました。今でこそ肉屋やスーパーに行けば豚肉が買えますが、大昔はブタなんて非常に珍しく、日本人にとってブタよりもイノシシのほうが身近な動物だったんですね。

さて、今日はブタの話を続けたいところですが、去年の終わりからフランス革命のことを書き続け、まだフランス革命のお話は終わっていないので、そのまま話を続けます。かといってブタの話にまつわるお話ももうちょっとしたいのでw、フランス革命とブタを結び付けるような話、たとえばルイ16世が豚肉がすきだったとか、そんな秘話はないかとぐぐってみました。

そしたら、ありました。ブタにまつわる話が二つありました。一つは、ルイ16世が革命から逃れ逃亡をしているときに、豚足料理を食べたというエピソード。もう一つは、フランス革命期にルイ16世がブタに描かれている風刺画がはやったこと。ちなみにアントワネットは蛇でした。つまり、国民の血税をむさぼり、うまいものばかり食っているヒドイ王様だといいたいのでしょう。


2 本当に嫌われていたか?

 それではルイ16世は本当に国民から嫌われていたのでしょうか?ルイ16世を嫌っていた国民は「ざまあ」と思ったかもしれません。しかし、ルイ16世とアントワネット夫妻を日本の天皇皇后両陛下のように慕う国民もすくなくなかったのです。ルイ16世ファンの女性は王が処刑されたと聞き、セーヌ川に身を投げ、ある本屋は発狂し、昔役人をしていた男はショックのあまり死亡したといいます。

ルイ16世は「無能な王」だとか「でくのぼう」といわれていますが、実際はそうでもなかったのです。むしろ英明で、時代がもっと平和な時代だったら、名君とよばれていたかもしれないのです。

彼は1754年、ブルボン朝にルイ15世の孫として誕生します。幼少のころから自分の容姿に自信がもてず、 口下手で引っ込み思案な性格でした。一方彼の兄であるブルゴーニュ公は、活発で両親からも愛され、将来は王家を継ぐはずでした。しかし、ブルゴーニュ公は結核で死去。それで王位はルイ16世にまわってくるのです。 ルイ16世も「自分に王位はつとまるだろうか」と不安がるのです。しかしルイ16世は幼いころから勤勉で、帝王学も学んでいました。 そして何よりも優しい性格で、国民のことも第一に考えていました。歴代の王様は国民のことを考えないで身勝手な人が多かったのですが、ルイ16世は違ったのです。

3 錠前づくりは家訓のひとつ
 ルイ16世の趣味は狩猟と錠前づくりした。狩猟は当時の貴族や王様にとっては当然たしなむものでした。貴族と付き合うためにも王は狩猟を覚えておく必要があったのです。接待ゴルフならぬ接待狩猟ですね。

ルイ16世が扉の錠前づくりをするようになったのか、彼の趣味というより、ブルボン朝の伝統にのっとっただけでした。実はブルボン朝の人間がなんでもいから手作業を何か一つ覚えて、それを趣味にしなさいという家訓があるのです。面白い家訓ですね。伺った見方をすれば、手に職をつけておけば、王家が滅ぼされたとしても、王家の人間が食うに困らないだろうということかもしれません。

趣味の錠前づくりばかりしているアホな王様というイメージが世間にはあるのですが、実際はちがうのです。むしろ国民思いで改革にも熱心だったのです。国王が熱心に改革を行おうとしたからからこそ、三部会開催など物事がポンポン進み、それが皮肉にも革命の糸口を開いてしまったという専門家もいるほど。

フランス革命がおこったとき、ルイ16世は事の成り行きを楽観視していました。軍隊をだせば何とかなると思っていたのです。もし、ルイ16世が革命の芽を早めにつぶしていれば、フランス革命は怒っていなかったかもしれません。しかし、これはルイ16世が無能というより、当時の人たちが革命が起こるなんて想定外のことなのです。たとえは悪いけれど革命は「シンゴジラ」みたいなものです。いきなり東京湾からゴジラがあらわれ、東京の街を襲撃したようなものです。それくらいショッキングで想像もできないようなことが起こったので、当時の王家や貴族たちは右往左往したことでしょう。

また、ルイ16世は気が弱い面もあって、周りの人の意見に振り回されやすいところもありました。良くも悪くもルイ16世は調整役みたいな人で、トランプ大統領みたいに強力なリーダーシップなどありません。そういう彼の性格もまた災いしたのかなって思いました。

※ 参考文献







1 買った覚えのない首飾り
 今年も残すところ、あと1日となりましたね。月日が経つのも早いものです。僕のブログも来年で10周年を迎えます。飽きっぽい僕がよくも10年ちかく続けたと我ながら感心してしまいますww

今年最後のエントリーは、「マリーアントワネットの首飾り事件」です。前回はルイ16世が処刑(1793年1月)されるお話をしましたが、きょうのお話はそれよりも前にさかのぼります。この事件が起きたのは1785年です。この事件によってアントワネットの評判を下がり、国民の反感も買ってしまったのです。

事件の発端は、ルイ16世の先帝ルイ15世の時代です。ルイ15世が生前デュ・バリー夫人に贈るために注文したという、ダイヤモンドの首飾りでした。しかし、ルイ15世が亡くなったために、この首飾りの買い手がいなくなったのです。それで、宝石商ベメールは、マリーアントワネットのところにセールスにやってきます。

アントワネットは首飾りの輝きに目を奪われますが、その値段が160万リーブルだときくと思わず仰天。それもそのはず、160万リーブルは日本円にして約192億円にも上る金額。さすがのアントワネットも、その場で購入を拒みました。

しかし、後日アントワネットの元へベメールから首飾りの代金の支払い催促状が届きます。おかしいですね、買った覚えのないのに、代金を払えなんて。アントワネットはそのベメールからの催促状を燃やしてしまったといいます。そりゃそうですよね。しかし、のちにアントワネットに恐ろしい災難が降りかかるとは、そのときのアントワネットは思わなかったでしょう。

2 大司教ローアン
 1785年8月15日、事件は明るみに出ます。宝石商ベメールがアントワネットに首飾りの代金支払いを求め、直接訪ねてきたのです。不審に思うアントワネット。しかし、アントワットが知らぬ間に、アントワネットの名をかたった別の人物が契約をし、首飾りを購入していたのが判明したのです。

そして、逮捕者もでました。初めの逮捕者はローアン大司教。かれは大司教でありながら女好きで、アントワネットも嫌っていました。しかし、ローアンはアントワネットをものにしようと狙っていて、しつこくすり寄っていたのです。

ローアンが逮捕されたのは、首飾り購入の契約書に保証人のサインをしていたからです。当初はローアンがアントワネットの署名を偽装し、ベメールに契約書を渡したものと思われていました。が、実際には、ローアンは保証人としてサインするように即され、彼もまた騙されていただけだったのです。

3 事件の黒幕
 この事件には黒幕がいました。それがジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人です。ジャンヌは貴族バロア家における最後の当主と女中の間にうまれた不義の子でした。彼女こそが、アントワネットが首飾りを欲しがっているとローアンに吹き込み、彼を保証人にたて、まんまと首飾りを手に入れた犯人だったのです。

宝石商ベメールがアントワネットに首飾りを売りたがっているのを知ったジャンヌは、ローアンに契約のことを持ち掛けます。ローアンはアントワネットに近づきたかったから。ジャンヌはローアンを利用し、より高い地位と財産を手に入れようと、かねてよりアントワネットを騙ったニセのラブレターをローアンに渡したり、アントワネットのそっくりさんの女性をローアンに会わせたり、いろいろやっていました。ローアンはアントワネットが自分に気があると思い込むようになりました。

しかし、首飾り購入の件は、すべてジャンヌの仕組んだ詐欺事件であることが発覚。アントワネットは事の真相をしり、大激怒。ローアンそしてジャンヌを裁判にかけたのです。そして翌年の1786年に判決がくだります。なんとローアンは無罪。

一方のジャンヌは、「証拠がない」と反論し続けました。でも、ジャンヌはすでに首飾りの540粒のダイヤをばらばらにし、ヨーロッパ各地に売りさばいていたのです。たちが悪いですね。ジャンヌの判決は終身禁固が命じられた上に、ジャンヌの両肩にドロボウの頭文字であるVの烙印を押されることになりました。フランス語でドロボウを「voleur」(ヴォルール)というそうです。その後、ジャンヌは何者かの助けで脱獄し、亡命先で回想録を何冊も書きました。そこには事件のすべての犯人は王妃であるという事実無根の事柄が書き連ねてあったのです。その回想録こそ「アントワネット醜聞伝」です。まさに逆恨みもいいところですね。


しかし、一般国民たちはジャンヌのことを信じてしまうのです。ジャンヌよりむしろアントワネットのほうが悪者になってしまったのです。「俺たちだって食うに困っているのに、アントワネットは高い首飾りを買って贅沢をしている」と反感を買っていたのです。なんだかアントワネットがかわいそうです。この事件が、アントワネット処刑になった理由の一つだと思うと、やるせません・・・

4 今年もお世話になりました
 僕は10月くらいからフランス革命のことを書かせていただきましたが、今年ほどフランスが話題になった年はないですね、悪い意味で・・・僕が安全な日本でフランス革命のことを書いているときに、フランスで大きな動きが起こっている。なんか複雑な気分です。

フランス全国で繰り広げられているマクロン政権に抗議するデモの動画を見せていただきましたが、かなり大規模で、僕もショックを受けました。日本の原発反対デモなんてかわいいものですね。

また、日産のゴーン会長の逮捕も衝撃を受けましたね。彼が日産の改革をしたときは、みんな天まで持ち上げたのですが、逮捕になったとたんに大悪人になってしまった。僕もゴーンはがめつい奴だとは思いますが、この手のひら返しは何?っておもいましたね。

ともあれ、今年もお世話になりました。最後に今年の干支のワンちゃんのかわいらしい動画をみてお別れしましょう。来年もよいお年を。




※ これらの本を参考にしました







1 サン・ジュストの演説
 ジロンド派とジャコバン派は、ことあることに対立してきましたが、そんな状況の中、11月のルイ16世の裁判がはじまったのです。ジロンド派は共和制には賛成だが、国王の処刑には反対。一方のジャコバン派はルイ16世処刑を訴えます。ジロンド派もジャコバン派もどちらも共和制には賛成でしたが、国王をどうするかについては意見が激しく対立したのです。

ジャコバン派のサン・ジュストは演説の国王処刑を訴えました。サン・ジュストはそのとき25歳、最年少議員で、議会で演説するのははじめてだったそうです。しかし、議会の演説が初めてとは思えないくらい、その演説は歴史に残るものだといわれております。サン・ジュストいわく、

「いかなる幻想、いかなる習慣を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり・・・一国民全体の無知蒙昧むちもうまいさによっても正当化され得ない不法行為のひとつである。・・・秘湯は罪亡くして国王たり得ない・・・国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者さんだつしゃである。]


この演説に議員たちはぐうの声も出なかったといいます。サン・ジュストは日本でいえば田中角栄さんや小泉純一郎さん、ガンダムでいえばギレン・ザビのように演説がうまかったのでしょうね。

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(サン・ジュスト)

2 ガマンの告白
 サン・ジュストの演説によって議員たちの心は動かされましたが、それだけでは国王処刑になりません。議会が国王処刑に傾いたのは、国王の機密文書が見つかったからです。その秘密文書には、国王が反革命派と連絡を取り合っていたことが書かれておりました。その秘密文書は宮廷の隠し戸棚に入っていたのですが、フランソワ・ガマンという人物の告白により、その文書が見つかってしまうのです。ガマンとは、錠前づくりが趣味のルイ16世の師匠でした。ガマンの家は祖父の代から宮廷御用達の錠前屋をしていたのです。1792年の8月10日の政変以降、ガマンはもんもんとしていたのです。

もし隠し戸棚がみつかったら、自分はいったいどうなるのだろう?重要機密文書を隠すのに手を貸した自分は逮捕され、最悪の場合は処刑されるだろうと。しかし、国王を裏切りたくない。そんなことを考えていたガマンは夜も眠れなかったといいます。ガマンは機密文書のことを議会に言うか、ずいぶん迷ったといいます。そして、我慢wができなくなったガマンは11月20日に内務大臣ロランに面会し、すべてを告白しました。

そして、ガマンの言う通り、戸棚から機密文書がみつかったのです。書類が見つかったのはサン・ジュストの演説から一週間後のことです。この秘密文書は国王がフランスを裏切った重要な証拠となりました。


3 国王の死刑決まる

 1792年12月11日に国王の裁判がはじまりました。被告人のルイ16世も二度議会にきて発言しました。ルイ16世は「自分の良心は一点のくもりもない」と言い切り、終始一貫して落ち着きを払っていたといいます。年をこした1793年1月15日、審理が終わり採決に移りました。

全会一致でルイ16世は有罪となりましたが、どんな刑にするかはまだ決まりません。

その刑をめぐり、16日夜から17日夜までまるまる一昼夜をかけて行われ、結果は死刑387票(ただ執行猶予つきが26票含まれる)、追放・幽閉が334票でした。そのため国王の死刑が決まりました。意外にも大差で国王の処刑が決まったわけではなかったのです。

そして1793年1月21日、処刑場の革命広場(現在のコンコルド広場)にルイ16世は連行され、ギロチンの前に立たされます。その様子を多くの人々が見ております。そして、ルイ16世はみんなに語り掛けました。


「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように、私は罪なくして死ぬ」


そして、ルイ16世がギロチンにかけられ無残になくなったといいます・・・

ルイ16世は最後まで平静な態度だったといいます。それはルイ16世が信仰心があつかったからだといわれております。自分はあの世では正しい裁きを受けられるからだと思ったといいます。ルイ16世は来世の存在を固く信じて死んでいったのかもしれません・・・


これらの本を参考にしました。







1 フランス国憲法について
 前回の記事でオーストリア・プロイセン戦争のお話をしましたが、きょうのお話は戦争より少し前のお話です。1791年9月3日、憲法制定議会はフランス国憲法である「91年憲法」を可決しました。前文に人権宣言17か条と、本文全207条からなるもので、これがフランス最初の憲法となりました。

この憲法では基本的に「国民主権」が原則で、国王の権威は法のみに由来すると明記されました。フランスは革命前までは絶対王政で、「王様の言うことをきけ」みたいなかんじでした。それが革命でガラリと変わったのですね。「法の前の平等」も保障され、各人の能力に応じた社会的チャンスが与えられるという原則も確認されました。

また、「宗教の自由」や「言論の自由」も認められたし、拷問も禁止と明記されました。あれ?のちにルイ16世やアントワネットが死刑になったり、ルイ17世が監禁されひどい目にあわされるんですよね?「おかしい、拷問は禁止じゃないの?」って思うのですが。その辺のお話はまた後程お話しします。

そして、「商品生産と流通の自由」も認められました。おそらく、これがブルジョワ層たちにとって一番重要なことではないかと僕は思います。ブルジョワたち(第三身分といえども、商人だとか弁護士だとか裕福な人たち)は、自由な経済を望んでおりました。が、それまでのフランスは第一身分(聖職者)や第二身分(貴族)に高い税金を払わなくてはならないので、商売も自由にできなかったのです。それが革命によってできるようになったのです。フランス革命の担い手はブルジョワ層たちが中心でした。革命の間はブルジョワ層も一般市民も協力しましたが、革命が一息ついて、憲法を制定という話になると、ブルジョワ層の都合が優先されるのです。

2 下層市民には参政権が認められず。
 フランス憲法は国民主権といいながら、現実はブルジョワ層つまり勝ち組にとってはありがたくても、一般市民にとっては、それほどでもなかったのです。フランス国憲法は1789年の「人権宣言」に比べると後退していたのです。「人権宣言」は国民はみな平等で参政権も当然与えらえるものという内容でした。ところが、憲法はちがいます。国民を納税額によって「能動的市民」と「受動的市民」の二つのランクにわけ後者には参政権が認められなかったのです。つまり貧乏人は参政権が認められなかったのです。

「人権宣言」でも女性の参政権参は認められませんでしたが、新憲法においても参政権が認められなかったのです。フランス革命では女性も結構活躍したのに;・・・革命の中心人物たちは男尊女卑の考え方が強く、「女は家庭にこもるべき」という考え方が非常に強かったのです。参政権だけでなく女性が政治にかかわることさえ禁じられてしまいます。革命が成功するかわからないときは、女性の力まで借りたくせに、成功が確実になったとたんに、手のひらを返したのだから、ブルジョワ層は身勝手もいいところです。

3 国王は君臨すれども統治せず
 国王には、この憲法を拒否できる「拒否権」が認められておりました。が、ルイ16世は拒否権を行使しませんでした。ルイ16世が政治に興味がなかったともとれますが、仮に王が拒否をしたとしても、どうせそれは言っても無駄で、処刑される時間が早まるだけだと諦めたのかもしれません。

ルイ16世は処刑されてしまうのですが、この憲法が作られた当初は国王の存在が認められていたのですね。つまり立憲君主制をこの憲法は理想としていたのですね。それにも関わらず処刑されてしまうのですから恐ろしいことです。

この憲法作成はフイヤン派とよばれる議員のグループが主導してつくられました。日本でいえば自民党とか立憲民主党とか政党のようなものですね。フイヤン派は、自由主義の貴族とブルジョワ層が中心で、立憲君主制を理想としておりました。国王をマンセーしつつ「国王は君臨すれど統治せず」、つまり国王には政治の実権を与えないで法の支配のもとで政治を行うことを理想としたのです。

フイヤン派は、共和制をとなえる左派の勢いに危機感をおぼえ、一刻もはやくフランス国憲法をつくる必要があったのです。その左派の代表格がジャコバン派。フランス革命の三大指導者といわれるロベスピエール、ダントン、マラーもすべてジャコバン派(※1)です。ジャコバン派は弁護士や医師、ジャーナリスト出身者が多く、貧しいものたちの味方でもあると同時に中産階級の利権も守るというグループでした。とても急進的なグループで、「革命も新憲法も生ぬるい、国王を殺してでも共和制を早急につくるべきだ」という考え方です。左翼の過激派と小泉進次郎さんのグループ(急進的な新自由主義)を足して二で割ったようなグループです。

4 ジロンド派とジャコバン派の対立
 フランスの議会にはフイヤン派とジャコバン派のほかにジロンド派というグループもありました。ジロンド派(※2)は、中産市民や豊かな農民が支持しており、共和制をとなえていました。が、ジャコバン派に比べると穏健でした。ジロンド派は人々は総じて教養レベルが高く、演説もうまいし、筆もたったが、優柔不断なところがありました。一昔前の自民党の宏池会みたいなお公家集団だったようです。


1792年3月、ルイ16世はジロンド派に政権をゆだね、ジロンド派内閣が組閣されました。彼らは共和主義でしたから、ルイ16世にとっては口もききたくないような人たちだったと思います。王制にこだわるルイ16世は、三か月後の6月にジロンド派と衝突します。そして、1792年の8月10日に前回の記事でも取り上げた「8月10日の革命」(※3)がおこり王権は停止し、そしてジロンド派は1792年秋までは革命の主導権を握り続けます。が、しだいにジャコバン派に主導権を脅かされるようになります。そしてジロンド派とジャコバン派の対立は深まり、1793年春になるとそれは抜き差しならないものになります。

革命がはじまって数年はジロンド派もジャコバン派も仲が良かったのです。それが対立するのは1792年8月10日以降です。まず第一に、革命の展開が急すぎて、ジロンド派はついていけなくなりました。そして「8月10日の革命」によって民衆が大挙し、革命の表舞台にたつとジロンド派の態度はかわります。ジロンド派の人たちは、革命はしかるべき教養と財産を持った人々によって推進すべきで、無知な民衆は政治にかかわるべきではないという、今のネトウヨのようなある意味保守的な考え方でした。

しかし、国内では革命のごたごたが続いている、国外では対ヨーロッパ戦争をしている最中だ。こんな時こそ民衆の力が必要だと、ジャコバン派は考えておりました。

それでジャコバン派は民衆の要求を取り入れた政策を打ち出しました。たおてば、食糧問題に苦しむ民衆を救済しようとか。これをジロンド派は「経済活動の自由」に反すると批判。ジロンド派とジャコバン派の対立は深まるばかりで、なかなか国の方針は定まりません。



※1 ジャコバン修道院という修道院があって、そこを拠点にして政治活動を行ったからそう呼ばれるようになった。

※2 ジロンド県出身の人が多かったから、こう呼ばれた。
※3 前回の記事でも取り上げましたが、民衆が大挙してルイ16世のいるテュイルリー宮殿に押しかけた事件で、これによって王家の権利は停止されてしまった。http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2433196.html

1 ピルニッツ宣言
 ヴァレンヌ逃亡事件の失敗により王制廃止の声が高まる中、オーストリアではアントワネットの兄レオポルト2世が芋生たちの身を案じておりました。「大変なことになった。妹がころされてしまうかもしれない・・・」って感じで。アントワネットらフランス王室を守るために、レオポルト2世はヨーロッパ各国の王様たちに協力を求めますが、色よい返事はかえってきません。そんななか、プロイセン王フリードリヒ・ヴェルヘルム2世がおうじてくれたため、1791年7月25日にオーストリアとプロセンは軍事同盟を結びます。

そして同年8月27日、「フランス国王を守るために、軍事行動を起こすこともできる」という旨のピルニッツ宣言をしました。この宣言が出たのはアントワネットを守るためともとれますが、これは革命の波が自国に及ぶことを恐れ、「革命をつぶさなければ、この先大変なことになる」とプロイセンとオーストリアの王様が思ったからでしょう。

革命をつぶそうとするオーストリアとプロイセン。これに怒ったのがフランスの人たち。国中が開戦へと傾きました。議会でも開戦すべき!という意見が多数を占めました。反対したのはわずか7人(750人中)だけ。ちなみにロベスピエールははじめは戦争に反対していました。「戦争よりも国内の革命闘争のほうが大事だ」という考えから。しかし、開戦が国会で決定されたあとは戦争に協力するようになったのです。1792年4月20日にオーストリア・プロイセン連合軍に、フランスは宣戦布告をします。


2 革命戦争勃発と8月10日事件

 勇ましくフランスは戦争に挑んだものの、連戦連敗でした。プロイセンだけでなく、翌年にはイギリス、オランダ、スペインも参戦したのです。フランス軍が負け続けたのは、アントワネットが祖国オーストリアに情報を流したことも理由の一つですが、それだけではありません。やはり、ヨーロッパ全土を敵に回してしまったことが大きい。太平洋戦争の日本と同じです。また、フランスも旧来の貴族を主体とした指揮官に率いられた軍隊は戦意に乏しく、また準備も十分ではありませんでした。軍服や軍靴さえそろっていないありさまでしたし。

そして、アントワネットの要請でプロイセン軍が「国王(ルイ16世)に少しでも危害を加えれば、パリを全面的に破壊する」旨の宣言をすると、平民たちはますます怒り、そして外部との連絡が一切取れないように、国王一家をさらに厳しい監視下に置くことになりました。敵国に情報を流したことといい、こうしたアントワネットの行動は平民たちにとって許し難いことでした。いままで国王一家に敬愛していた平民たちも、可愛さあまって憎さ百倍、裏切り者の国王一家を殺せみたいな意見もチラホラ出てきます。

さらに悪いことにルイ16世の行動がまずかった。国会が戦時体制強化のため法案をふたつ採択していました。一つは革命に敵対的な聖職者を国外に追放する法案。もう一つは地方から2万人の国民衛兵隊を呼び寄せパリに駐屯させる法令。この二つの法令をルイ16世は拒否権を発動したのです。プロイセンとオーストリアが革命をつぶしてくれることをルイ16世は期待していました。そのため、拒否権をだしたのです。しかし、これが民衆たちの怒りを買ってしまったのです。

そして1792年8月10日、民衆たちは国王一家のいるテュイルリー宮へ進撃。宮殿を守る兵隊たちと民衆は激しい戦いが繰り広げられ、死傷者は1000人以上に及びました。国王一家はいっさいの権利が奪われ、ティイルリー宮からタンプル塔へと幽閉されました。これを8月10日事件といいます。それだけでなく国王の家来たちも次々と牢屋へ入れられた挙句に民衆たちに虐殺されたといいます・・・

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        (テュイルリー宮殿)

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        ( タンプル塔)


3 ヴァルミーの戦い

 負け続きのフランス軍。しかし、フランスの人たちは強かった。負けてしょんぼりするどころか、「祖国を守れ!」と意気込むのです。そして続々と義勇軍に参加するのです。革命政府も身分、学歴、年齢を問わず、能力のあるものを将軍として登用しました。士気の高い兵を優秀な将軍が指揮すれば、装備が不利でも十分に補えます。しかも働き次第ではいくらでも出世できますから、そりゃ兵士たちも張り切ります。いくら兵士の士気が高くても将軍が無能だと負けてしまいます。旧日本軍は物資の足りなさもそうですが、将の無能さが致命傷でした。

初めはプロイセン軍に負け続きだったフランス軍でしたが、9月20日、フランスの国境から90キロのところにあるヴァルミーでフランス軍がプロイセン軍をやっつけるのです。野球でいえば9回裏の逆転サヨナラホームランが出たようなものです。

ヴァルミーの戦場で、フランス軍は帽子をサーベルや銃剣の先につけて振り回しながら「国民バンザイ!」と叫びました。フランス軍は3万人でしたが、その3万個の帽子が大きく揺れ動きました。プロイセン軍の兵士たちには、それが敵の軍勢が急に増えたかのように見えたのです。この異様な光景にプロイセン軍の隊列に動揺が走ったのです。プロイセン軍の総司令官は「これは狂信者か殉教者の軍隊だ」と思ったそうです。

そして、フランス軍のすさまじい戦意。その迫力にプロイセン軍も押されたのです。プロイセン軍は貴族中心の軍隊。かたやフランス軍は、貴族もいただろうけれど、ある意味野武士の軍隊。プロイセン軍総司令官は退却を命じます。フランス軍は辛うじて勝つことができたのです。この戦いをヴァルミーの戦いといいます。プロイセン軍は、フランス軍をはじめは弱いとバカにしていたのでしょう。しかし、その油断が仇となったのですね。幕末の日本も同じですね。圧倒的な軍事力を誇った幕府軍が、薩長土肥を甘くみていたのですね。それも、戊辰戦争における幕府軍の敗北の原因の一つでした。

文豪ゲーテはプロイセン軍に同行し、この戦いの一部始終をみてました。おっとゲーテとは雑誌の名前ではありませんよwそして、ゲーテはこう言いました。


「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」



ゲーテとの対話(完全版)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
古典教養文庫
2017-12-31




※ 参考文献








 

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