history日誌

カテゴリ:日本の歴史 鎌倉〜安土桃山時代 > 信長、秀吉、家康について

昔、大河ドラマ「江」(ごう)で織田信長がめいの江に東大寺と呼ばれる香木をプレゼントする話が出てきました。この香木は蘭奢侍らんじゃたいと呼ばれた天下一の香木であります。それを神も恐れぬ信長が切り取ったそうです。

蘭奢侍らんじゅたいは東大寺の正倉院に保管されています。これは信長だけでなく、足利義政や明治天皇など時の権力者たちが非常に関心を持った宝物です。蘭奢侍らんじゅたいをよく見ると一部を切り取られたような傷が50くらいあるそうです。

ある日、信長が東大寺の宝物をすべて見せよと命じると、僧侶が持ってきたのが、この蘭奢侍らんじゅたいなのです。一部を切り取り、信長があげたのです。信長はたいそう喜んだといいます。蘭奢侍らんじゅたいのような有名な香木を手に入れることは、著名な茶器を持つのと同じくらいの名誉だったのです。

この香木からはなんともいえない香りがするそうです。ふつう香木の香りは甘いとか辛いとか、せいぜ香りが一つ、おおくても二つの香りがまじったような感じなのですが、この蘭奢侍らんじゅたいだけは、ドルチェ&ガッバーナじゃなかったw甘い、辛い、酸っぱい、苦い、塩っ辛い、と5つの香りを持っているような、この世に一つとないような不思議な香木だといいます。だからこそ、時の権力者を魅了したのでしょう。

ただし、蘭奢侍らんじゃたいは正倉院宝物目録での名は黄熟香おうじゅくこうと言われています。

もちろん蘭奢侍らんじゃたいは大変な宝物だから、なかなか見ることはできません。

東大寺の正倉院といえば、去年の12月の初めに僕もおとずれました。秋の終わりの雰囲気ふんいきが感じられる京都・奈良なら一泊二日いっぱくふつかの旅行をしました。20数年前のw修学旅行では東大寺の大仏殿はおとずれましたが、正倉院にはおとずれなかったので、今回はおとずれたいと思っていたのです。

正倉院は東大寺の敷地しきちの中にあるのですが、宮内庁くないちょうが管理しているので拝観料は取りません。奈良・京都の寺って拝観料取られるからイヤなんだよねw

実物の正倉院を見たのですが、思っていたよりも大きいと思いました。教科書にのっている写真だとどうしても小さく見えるから。

警備員とさくがジャマしているのでw、正倉院の建物に中に入るどころか、近づく事すら出来ません。しょうがないから外から正倉院の建物をながめておりました。国の大切な宝物が眠っているのですから、当然といえば当然でしょう。

ただ、年に一回、奈良国立博物館にて、正倉院の宝物の特別 展示が行われるようです。さらに、信長も愛したという蘭奢侍らんじゃたいもそのとき一般公開いっぱんこうかいされるそうですね。僕も機会があれば、特別展示会が行われたときに奈良に訪れ、この目で蘭奢侍を見てみたいですね。




(蘭奢侍の動画。)

きょうは、前回の記事にもちょろっと出てきた『往生要集おうじょうようしゅう』の内容についてお話します。これは源信とうお坊さんが、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなるそうです。


この本には死んでから極楽に行くためには一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説かれております。また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうどの精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えたといいます。

ところで、厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうどなんて難しい言葉がでてきましたが、どういう意味でしょうか。僕もさっきウィキペディアで『往生要集』のことを調べて初めて知ったキーワードなのですがwww

厭離穢土おんりえどとは、「ONLYエド(はるみ)」とはイヤなことやつらいことが多いこのけが れたこの娑婆世界しゃばせかいを離れたいと願うことです。

欣求浄土ごんぐじょうどとは、このけがれた現実世界を離れて極楽浄土,すなわち仏の世界を,心から喜んで願い求めるという意味だそうです。

この二つのキーワードは対句でつかわれることが多いそうです。つまり、この世は嫌な世の中だから、さっさとこの世から離れ極楽浄土へ向かいましょうということで、この言葉をスローガンに集団自殺を奨励する人間が出てくるのではないか、そんなことを僕は心配しちゃうのですが、それはともかくとして。

実はこの「厭離穢土、欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられていたんですってね。僕もウィキペディアで知りましたwww


松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げのびたんですね。

「ああ、オレの人生真っ暗だ」と元康は嘆いて松平家の墓前で自害を試みるのですね。すると、13代住職の登誉とうよが「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。

つまり、戦国の世は、誰もが自己の欲望のためにつまらない戦ばかりしているから、国土が汚れまくっている。その穢土えんどを離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すと登誉とうよが家康にいったのですね。つまり、家康に己の欲望をギラギラさせて無益な殺りくがはびこるような世の中を終わらせ、平和な世の中をつくりなさいと登誉とうよは語ったのですね。

戦国時代というと「かっこいい」イメージがどうしてもあるのですが、その戦国時代をリアルに生きていた人間にとってはまさに生き地獄、本当にいやな時代だったのですね。だからこそ徳川家康は平和な世の中をつくろうと思ったのでしょう。「え、徳川家康だって戦争しまくったじゃん」という意見も出てきましたが、確かに家康もひどいことをしました。たとえば、1569年の遠江堀川城攻めで、家康は気賀一揆を老若男女撫で斬りにしたといいます。後で捕らえられ首をはねられた農民も合わせて千七百名が殺されています。

一方で家康は戦争で亡くなった人たち(自分が殺した人間)の供養も欠かさなかったともいいます。

おっと、『往生要集』の話からずれてしまいましたね、失礼。『往生要集』は,念仏の要旨と功徳を示しており、この本に書かれた地獄の描写は庶民の間にも影響を与えました。ちょっと『往生要集』に書かれた地獄については次回に語ります。


※ 参考文献



明智光秀(あけちみつひで)は山崎の合戦で生きのびて、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)となって家康のブレーンになったという説は昔から言われていました。

では、明智光秀=天海なのでしょうか?

そのように信じていらっしゃる方も少なくないかと思われますが、なんとも言えないというのが僕の意見です。

なぜなら明智光秀が天海と同一人物だという決定的な証拠がないと思うからです。

もちろん、歴史は荒唐無稽なことでも否定をせずに、とことん真実を調べないと真理がつかめないと思われます。実際、トロイはギリシャ神話にでてくる伝説で実際の話ではないと信じられておりましたが、シュリーマンの発掘でトロイが実在していたことが証明されましたからね。

とはいえ、天海が光秀だとはっきり書かれた資料が今後見つかれば、僕も天海=光秀だと認めますが、今の時点では保留ですね。


たしかに光秀が天海である根拠こんきょの一つとして、日光には明智平あけちだいらという場所があるとか、東照宮(とうしょうぐう)にも明智家の家紋かもんである桔梗紋ききょうもんがあるというのがあります。

ある歴史番組では光秀の家臣だった斉藤利三(さいとうとしみつ)のむすめのお福(のちの春日局かずがのつぼね)が天海にあった時「お久しぶりでございます。」と言ったことも根拠のひとつだと言っていました。

また、あるテレビの歴史番組で「光秀の筆跡ひっせきと天海の筆跡をくらべていて両方ともよく似ている」なんて番組のレポーターは言っていました。

光秀が天海である根拠があるように、逆に「光秀が天海であるわけがない」という根拠もあります。そのひとつは天海と光秀が年齢がちがいすぎるということです。天海=光秀だとすると、天海の死亡時の年齢が百歳ひゃくさいを越えてしまうのです。明智光秀が生まれたのが1528年。で、天海が亡くなったのは1643年。1643−1528=115。115歳なんてすごすぎです。これは安土桃山時代の平均寿命が50歳くらいだとすると、かなりすごいです。というか、現代でも115歳まで生きるのは大変ですね。

明智の家紋である桔梗紋ですが、この桔梗紋を家紋として使っていた武将は明智光秀だけじゃないみたいです。もともと桔梗紋は、清和源氏せいわげんじ系の土岐どき氏が使っていたものです。僕が大好きな加藤清正もじゃの目紋のほかに桔梗紋も併用へいようしていたようです。

それどころか、日光東照宮には桔梗紋なんてないなんて意見もあります。確かに似てはいるけれど、よくみるとデザインが違うとか。今度東照宮に行く機会があれば、確かめたいところですね。

天海が残したという筆跡にしても、明智光秀と天海の二つの筆跡を見た感じでは、同一人物には思えなかったなあ〜(あくまでシロウト判断だけれども)。それに、お福が天海をみて「お久しぶりでございます」といったのも、天海とお福が単なる知人だった可能性もありますし。

光秀が徳川の時代まで生き延びて天海となった可能性も否定はしませんが、逆に豊臣秀吉や徳川家康に殺される可能性も否めません。

なぜなら、光秀の存在は豊臣秀吉にとって非常に都合が悪いからです。秀吉が天下をとった大義名分たいぎめいぶんは、「主君を裏切った明智光秀をやっつけた」です。それで明智光秀が生きていたとなると、これは秀吉政権をゆるがすような大問題になるでしょう。光秀が生きていたとしても、たちまち密告者にチクられ、秀吉によって光秀は殺されたことでしょう

実際、光秀の首と遺体いたいは、山崎やまざきの合戦の後すぐに京都に護送ごそうされ粟田口(あわたくち)ではりつけにされたと当時の公家くげやおぼうさんの日記に書かれているようです。

徳川家康が権力を握る正当性も、織田信長と豊臣秀吉の後継者であることが前提となっておりますから、主君を裏切った光秀ことを家康は生かしておくにはいかないと思われます。というか、そんな主君を裏切るような危険人物を自分の手元に置くなんて僕だったらできませんね。いつ自分が信長のように寝首をかかれるか心配ですもの。

もちろん、家康がこっそり光秀をかくまった可能性も否定できません。家康はかつての敵だった武田の家臣を自分の部下にしたくらいです。優秀な光秀を召し抱えたという可能性もあります。ただ、何しろ資料もありませんので、これも憶測でしかありません。



※ オマケ





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(いづれも賤ヶ岳合戦場の写真)

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(余呉湖)



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(賤ヶ岳山頂から眺めた琵琶湖)


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(賤ヶ岳の合戦で亡くなった人たちをまつる、ほこら)




1 賤ヶ岳の合戦とは?
賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)とは織田信長亡きあとの、後継ぎ問題をめぐって、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家が、琵琶湖びわこのほとりの賤ヶ岳周辺で争った戦いです。

この戦いが起きたのは1583年のことです。

この戦では、加藤清正や福嶋正則といった賤ヶ岳の七本槍ななほんやりが活躍した戦でもあります。秀吉軍がおよそ5万、勝家の軍が3万。数だけみると秀吉軍の圧倒的い多いのですが、さすがの秀吉、単純に数で押すような戦いはしません。

勝家についていた前田利家に味方になるように工作したりと工夫をしました。

この戦では羽柴秀吉が勝利します。

2 事件が起こった発端 
 本能寺の変(1582年)では信長だけでなく、長男の信忠も一緒に亡くなりました。信長には信忠のほかにも子供がいました。そうなると問題になるのが、織田信長のあとつぎは誰かという話になります。

柴田勝家は、信長の三男でである信孝を推薦すいせんしました。

一方の羽柴秀吉は、信忠の長男の三法師を推しました。三法師は信長にとっては孫であります。しかし、三法師はまだ3歳です。そうなると政治の実権をにぎるのは秀吉ということになります。

そのことで不満を持っていた人も少なくありません。柴田勝家もそんな一人でした。

勝家は反対しますが、結局、後継ぎは三法師に決まります。

それで勝家は秀吉に戦いを挑むことを決心するのです。

3 事件のあらまし
 柴田軍は、佐久間盛政らが先鋒(せんぽう ※1)をつとめて出陣し、行位山ぎょういちやまに到着しました。柴田勝家も柳ヶ瀬やながせに到着し、そこに陣を構えたといいます。ちなみに柳ヶ瀬といいましても、美川憲一さんの唄の舞台とは違いますw あちらの舞台は岐阜県ぎふけん繁華街はんかがいですね。勝家が陣を構えた柳ヶ瀬は滋賀県しがけんにあります。



秀吉も賤ヶ岳周辺の山々に陣を構えました。両軍はしばらくにらみあっていましたが、あるとき、岐阜城にいる織田信孝が兵を挙げたという知らせを受けて、秀吉は中川清秀や高山右近たかやまうこんらを残し、大軍を率いて岐阜に向かいました。

これをみた柴田勝家のおいである佐久間盛政がシメシメと言わんばかりに、取り残された秀吉の部隊に襲撃しゅうげきをしたのです。勝家は盛政の勇み足に困っていたのです。勝家は秀吉のこわさをわかっていたから。


その盛政の襲撃で犠牲になったのが中川清秀です。彼は琵琶湖のとなりにある余呉湖よごこのあたりに陣をかまえていたのですが、盛政の軍におそわれ、命を落としたのです。


盛政は「やるじゃん、俺」みたいに得意になっていたのです。勝家が引き返すように命じたのですが、盛政はシカトしてそこにとどまったのです。おそらく盛政は「秀吉は岐阜にいるから、すぐには戻ってこないだろう」と油断をしていたのでしょう。そんなところへ秀吉軍の大軍が岐阜から戻ってきたのです。秀吉軍は速攻で猛反撃にあい、盛政もボコボコにされてしまったのです。そして、勝家の軍は総くずれになったのです。

ちなみに秀吉軍の加藤清正は賤ヶ岳に向かう途中で馬が転んだそうです。その時清正は馬から降りて、なんと走って戦場まで駆け抜けたといいます。すごいですね。普通のマラソンだって大変なのに、重い甲冑をきながら走ったのですから。清正が現代に生きていたらオリンピックのメダリストになれたかもw?


4 利家をゆるした勝家

  また、前田利家も勝家に味方をしていたのですが、突然戦場から離脱をしたのです。、利家は勝家の与力(※2)であることから親交があり、また利家は秀吉とも大変仲が良かったのです。ですから、利家はとても苦しかったと思われます。けれど前田利家は結果的に柴田勝家を裏切ったようなものです。

合戦ののち、利家は勝家のいる越前府中城を訪れました。利家は勇気がありますね。よくて勝家によって「この裏切者!」と罵られるか、最悪の場合、打ち首にされてもおかしくありませんから。ところが、勝家の反応は意外にも利家を許したそうです。勝家は利家に湯漬けをゴッチしたといいます。もちろん湯漬けには毒なんて入っておりませんww

さらに勝家は利家に対して、恨み言をいうどころか、これまでの労をねぎらったといいます。勝家はなんて大人なんでしょう。勝家は利家の苦しい立場を理解していたのでしょうね。些細なことでキレる今どきのオジサマも見習ってほしいものですw?





※1 先頭に立って戦う部隊
※2 武将のアシスタント。利家にとって勝家は上司みたいな存在。


※ おまけ

賤ヶ岳の合戦をわかりやすく紹介した動画をみつけました。動画にでてくる武将がなんともかわいらしい。私のつたない文章よりもわかりやすいですw



※ 参考文献







先週の歴史秘話ヒストリアを見ておどろいたのが、信長が意外とやさしいところがあった所です。信長といえばおこりっぽくて冷酷れいこくな人物なイメージが強いだけに、マジでおどろきでした。

ときたま、部下や女中にねぎらいの言葉をかけていたそうです。

また、こんな話もありました。

信長がある村へいった時、家も財産もなく、おまけに体が不自由な男性に出会いました。信長は自ら20反の木綿を用意し、他の村人達にこのようにいいました。「この木綿を売って彼に小屋を作ってやれ。えないように食べ物を分けあたえてくれれば自分はとてもうれしい」と。

エライねえ。今時の政治家も見習って欲しいですねw

信長の悪い面ではなく良い面を見習ってw

それと、「世紀のワイドショー」とう歴史番組で知ったのですが、信長は、気さくな面もあったそうです。女装をして領民といっしょにおどり、お返しの踊りをした領民には自ら茶をごちそうし「お前の踊りは良かったぞ」とねぎらいの言葉をかけたそう。信長のそんな応対に領民はカンゲキしてなみだを流したとか。

信長って、海援隊(武田鉄矢さん)の「あんたが大将」を地でいくような人かと思っていたけれど、違ったみたいですね。

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