history日誌

カテゴリ: その他諸国の歴史・伝説

イット (字幕版)
ハリー・アンダーソン
2013-11-26

番町皿屋敷 お菊と播磨 [DVD]
長谷川一夫
KADOKAWA / 角川書店
2016-07-29



1 座間の事件
 座間の9人殺人事件は衝撃を受けましたね。事件のことを知るたびに身の毛がよだちます。座間の犯人の青年は一見すると殺人犯に見えません。それどころか好青年風に見える。実際、青年の近所に住む人たちはハキハキとしてさわやか感じがしたそうです。また、コミュ力も意外と高かったようです。

ネットでは、座間の犯人をかばう意見もあるんですよね。もしかしたら、彼ははめられたのではないかって。でも、顔が少しいいから、あるいはコミュ力が高いから、よい人間とは限りません。

アメリカにジョン・ゲイシーという有名な殺人鬼がいます。ジョン・ゲイシーは映画「IT」のモデルとなりました。彼はおぞましい殺人鬼でありましたが、地元では慈善活動に熱心な名士として名高く、議員ともつながりが深い人物で、彼を慕う人も少なくなかったといいます。

週刊誌やツイッターなのでは、青年が殺人鬼になったいきさつをいろいろと語られておりますが、どれが本当でどれがウソなのかさっぱりわかりません。


でも、人類の歴史を振り返っても、殺人事件なんて大昔からありました。むしろ、昔は人間の命が今よりもはるかに軽く、人殺しが正当化されることも多々ありました。


戦争もそうですが、江戸時代のような平和な時代でさえ、武士が町人を平気で殺したなんて話も珍しくなかったのです。刀の切れ味を試したいという理由で武士に斬られたなんて話も聞いたことがあります。もちろん、武士はおとがめなし。武士を怒らせた町人のほうが悪いみたいなかんじ。たまったもんじゃないですよね。

「番町皿屋敷」のお菊さんなんて皿を割ったくらいで惨殺されたのですから、理不尽ですね。今だったら、お菊さんを殺した武士は殺人犯として、連日ワイドショーでも大騒ぎでしょう。


また、江戸時代までは年貢を納めないという理由で、「領民たちをなで斬り(皆殺し)にしてしまえ」と平気でいうお殿様がいました。昔は現人の命が本当に粗末に扱われていましたからね。もっと人間を含め生きとし生けるものを大切にしましょうというのが、かの「生類憐みの令」なのですよね。悪法のイメージがありますが、あれはイヌだけでなく、人が平気で人を殺したり、粗末にすることを戒めるものでもあったのですね。

ほかにも、昔は神様にいけにえを捧げるために若い女性の命を奪ったり、日本でも人柱だとか、間引きなんて残酷な風習もありました。

人権や生存権が認められるようになってから、殺人はいけないことだと認識されれるようになったのです。それと昔はいまほどマスコミがセンセーショナルに騒ぐから、悲惨な殺人事件が増えたように思えるのでしょう。別に殺人事件が昔に比べて増えたわけではないのですね。

これから、僕が古代インドのアングリマーラという殺人鬼のお話をします。口をアングリして聞かないでくださいねw

2 アングリマーラが殺人鬼になるまで
 アングリマーラが殺人鬼といいましたが、彼がもともと殺人鬼だったわけではありません。もともと彼はアヒンサという名前でバラモンの子供でしたが、500人の弟子をもつバラモンのもとで修業をしました。アヒンサはその500人の弟子をもつ師匠に大変気に入られておりました。

しかし師匠の奥さんがアヒンサに恋をしてしまったのです。師匠が出かけているとき、奥さんはアヒンサを誘惑しました。しかし、アヒンサは「修行の邪魔をしないでください!私はよこしまなことをしたくないのです」と。そりゃそうですね。不倫ですもの。しかし、それで収まらないのが師匠のおくさん。師匠の奥さんは自分の衣装をやぶり、あたかもアヒンサに犯されたように見せかけました。この奥さん性悪ですな。帰ってきた師匠はその姿をみてびっくり。師匠はアヒンサを激しく罵り、そしてアヒンサに無理難題を押し付けます。

それは百人の人間を殺し、その死体から指を百本集めなさいというもの。この師匠、すげえ悪い奴ですね。もちろん、アヒンサははじめは考えたのですが、ほかならぬ師匠の言葉だからと、この師匠の愚かな主張をそのまま受けいれてしまうのです。素直というか、バカというかなんというか。素直で人の言うことをよく聞くとのは良いことなのかもしれないけれど、時と場合によりますね。素直すぎて悪人の手足になるようでは元も子もありません。

そして、アヒンサは本当に次々と人を殺してしまうのです。いつしかアヒンサはアングリマーラという有り難くないあだ名がつくほど人々から恐れられたのです。アングリマーラとは「指の首飾り」という意味だそうです。

そして99人もの人を殺した後、アングリマーラはお釈迦様(ブッダ)に出会いました。アングリマーラはブッダを殺そうとしましたが、ブッダはアングリマーラをとがめず、さとしました。無益な殺害をやめさせました。そしてアングリマーラは罪を悔い改めブッダの弟子となりました。

3 償い
 アングリマーラがブッダの弟子になって10日ほどたち、アングリマーラが町へ托鉢たくはつにいきました。托鉢とは、お坊さんが修行のため、はちを持って、家の前に立ち、経文を唱えて米や金銭の施しを受けて回ることです。しかし、アングリマーラが托鉢にいくたびに彼は血まみれになるのです。なぜでしょう?

それは、アングリマーラに殺された遺族たちが、石や棒でアングリマーラをボコボコにしたのです。殺されたものの遺族の悲しみは大変深いものです。今回の座間の事件でもそうでしょう。事件現場のアパートの近くにメッセージ付きの花束がおかれており、そのメッセージには「うちの子に生まれてきてくれてありがとう」とありました・・・そして、殺害者に対して恨みさえ思うのです。

アングリマーラの額から血を流し、着ていた衣は破け、身体はあざだらけになり、帰ってくるのです。それも毎日。いくらアングリマーラが極悪師匠の命令でやったとしても殺されたほうは許さないのです。

アングリマーラの姿を見てブッダは言いました。「アングリマーラよつらいだろうけれど耐えなさいよ。お前は本当は地獄へ行き何万年も苦しむのですよ。これに耐えてこそ、お前は本当に生まれ変われるのです」と。

そして、アングリマーラは殴られても、罵られても耐えに耐えました。そして、石を投げられることも次第になくなりました。アングリマーラが心から自分の罪を償い精進をしたからです。その姿に、かつて石を投げたり、ぶったり、罵った人たちも思わず手を合わせたのです。


※ 参考サイト


http://buddha-tree.com/2013/07/17/352/

1 大統領選をひかえ
 前回まで15回にわたってイスラエルとパレスチナの歴史を振り返ってみましたが、今日はアメリカとイスラエルの関係にふれます。今年はアメリカの大統領選がひかえているので、わりとタイムリーな話題かと思います。

ちなみに、今回の大統領選挙の共和党候補こうほ者のハナフダ氏じゃなかったwトランプ氏はイスラエルを「アメリカの最も信頼できる友」としており、「我々は100%、イスラエルのために戦う。1000%戦う。」と大変おそろしいことをいっております。こんな人が大統領になったら中東はますますゴタゴタしますわ。

じゃあ民主党候補こうほのクリントン氏(ヒラリー)なら安心かと思うとそうとは言えません。クリントン氏は「私が政権を得てまず最初にすることは、イスラエルの首相をホワイトハウスに招くことです。」と言っていることからイスラエルに肩を持っているのです。結局どっちが勝っても中東に住むアラブ人にとってはありがたくないことなのですね・・・

それにしても両大統領候補がなぜここまでイスラエルに対して肩入れするのでしょう?それはアメリカに住んでいるユダヤ人たちの圧力団体が、イスラエルに不利なことに対しては公共・民間をとわず猛烈もうれつなロビー活動や糾弾きゅうだん運動を展開するからです。実際イスラエルを批判して政治生命を絶たれた政治家もいたといいます。また、大統領選挙においてユダヤ系団体のまとめる組織票も無視できないのですよね。

2 アメリカにわたったユダヤ人
 ユダヤ人がアメリカに初めて渡ったのは16世紀後半だといわれております。そのアメリカに初めてわたったユダヤ人はオランダからきたといいます。オランダからユダヤ人がはじめて渡ったところがニューアムステルダム、いまの入浴じゃなかったwニューヨークです。

その後、東ヨーロッパやドイツ出身のユダヤ人の大陸移住がすすみ、1880年以降はロシアなどからユダヤ人がアメリカにやってきます。ロシアでポグラムというユダヤ人弾圧がひどくなって、それを逃れてアメリカにやってきたのでしょう。

そうして現在アメリカに住むユダヤ人は500万人とも600万人ともいわれておりますが、アメリカの人口3億1905万人ということを考えると、そんなに多いわけじゃないのですね。けれど、アメリカに住んでいるユダヤ人の3分の1がニューヨーク州に住み、さらにニューヨーク市民の4人に一人がユダヤ人だといわれております。ニューヨーク市といえば、アメリカいや世界の経済の中心です。ユダヤ人は金融きんゆうに強い人が多いですから、当然ニューヨーク(特にウォール街)でも大きな力を持てるのでしょう。

3 ネオコンについて
 ここでネオコンの話に切り替えます。ネオコンとイスラエルは大きな関係があるのです。ネオコンとは寝言・オナニー・コンプレックスの略ネオ・コンサーバティブ(新保守主義)の略です。彼らの多くはユダヤ系アメリカ人で、第二次世界大戦から戦後にかけては過激左派だったのですが、1967年、第三次中東戦争でイスラエルが全パレスチナを占領していたのを、国連安保理こくれんあんぽりが「占領地からでていきなさい」と勧告かんこくしてからネオコンは変わったのです。

そのことにブチ切れたネオコンたちは反国連主義になり、イスラエルが全パレスチナを支配するためなら、戦争をおそれず、全世界を「アメリカ型民主主義」に変えなければいけないと主張しはじめたのです。イスラエルの近隣諸国きんりんしょこくに、「少しでもイスラエルとアメリカにさからう国家を許しては世界の平和はない」というのです。

ネオコンとイスラエルの関係をもっともはっきり表している文書が『完全な断絶・イスラエルの領土保全のための新戦略』(1996年に発表)というレポートです。その内容は、オスロ合意を完全に破棄はきし、パレスチナ人を徹底的に屈服させる「力による平和」以外にイスラエル国家の選ぶ道はないとうものです。このレポートは在米シオニストのリチャード・パールなどのネオコンが起草し、イスラエルの首相だったシャロンもパールの方針に従って、ネオコン路線をつきすすんだのです。

4 利権
 『完全な断絶』が発表された翌年の1997年、このレポートの起草者であるリチャード・パールなどのネオコンが中心になって共和党保守派とともに「アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)」というシンクタンクを結成し、「軍事力を増強し、先制攻撃をさずにアメリカの国益と価値観を世界に広げるべし」と主張しております。

PNACのメンバーにはチェイニー元副大統領やラムズフェルド元国防長官、ジェブ・ブッシュ(ブッシュ元大統領の弟で今回の大統領選挙の候補に名乗りを上げたが撤退)やアフガニスタン戦争で石油利権をめぐって暗躍あんやくした人物などが名を連ねています。

アメリカがイラクに攻め込んだのも、フセインを倒し、アメリカに忠実な傀儡政府かいらいせいふ(※1)をつくれば、石油資源支配のためにも、中東の中心部に米軍基地がおいてアメリカ・イスラエルに批判的ひはんてきな国や勢力ににらみを利かせることもできるという点でも、イスラエルとアメリカにとってこれほどうまい話はありません。もっともその思惑おもわくは今日の中東のゴタゴタを見ている限り裏目うらめに出ているとしか思えません。

※1 表面上は独立した政権であるが、影で他国など他の勢力に操られ、それらの強い支配や統制に置かれている政権のこと。


※参考文献





1 「友達になれたら、きっと。」
 今日は一冊の本をご紹介します。パレスチナ人の少女とユダヤ人の少女が文通をしたというお話です。この本の内容は作り話ではありません。本当にあったお話です。文通といいましても、パレスチナ人の少女の住む家と、ユダヤ人の少女の住む家の距離は15キロほどです。しかし、紛争やら外出禁止令やらで、会うこともままならないのです。平和な日本では考えられないことです。

二人の文通がはじまったのは1988年です。当時の二人の年齢が12さいですから、いま二人は40歳前後かな。

この本には二人の少女が実際に書いた手紙の内容がつづられております。僕がびっくりしたのは、二人がお互いに本音をぶつけあい、時には相手の心象しんしょうを悪くするようなこともはっきりと手紙につづっているのです。

たとえば、パレスチナ人の少女は「ユダヤ人はきらいです。だってわたしたちがずっと住んでいた土地をとりあげて、アラブ人にひどいことばかりするんだもの。」とか「いまのパレスチナ人にあるのは、ただひとつ、わたしたちの土地からイスラエルをおいだすことなんです」とか「あなたのことばに、きずつきました」という具合に。

一方でユダヤ人の少女は「どうしてイスラエル人がきらい、なんていうの?」とか「ほんとうのことを言うね。怒ってたの。アラブ人全員のことを。だからあなたのことも。」とか「あなたはやさしい人だと思う。でも、やっぱりアラブなの。だから、もうこの先も友達になれないと思う」という具合に。

2 子どもの心までゆがめるにくしみの連鎖れんさ

もちろん、両者がお互いにこんなことを言うのは伏線ふくせんがあるのですね。イスラエルではユダヤ人とパレスチナ人がいがみ合っているのですが、ヒサンな事件が何度も起こっているのですね。たとえば1989年7月7日に10歳のパレスチナ人の子どもがイスラエルの兵士に殺されたという事件が起こり、やはり同じ日の1989年7月7日に25歳のパレスチナ人青年がバスをジャックして、バスを故意こい峡谷きょうこくき落としイスラエル人乗客16人を死亡させた事件が起こりました。お互いににくしみ合い、殺しあうような出来事が何度も起こっているのです。

そうした事件が起こるたびに二人はお互いに「嫌い」だとか時にきびしい言葉を相手にぶつけるのですね。

みんながみんなそうじゃないけれど日本人は、あまりはっきり物事を言わない人が多いだけに、びっくりしてしまいます。けれどお互いに本音を語れるから、相手の心のなかがわかるのだと思うし、なんだかんだで二人の距離が縮まっているのだと思いました。

実際に二人は、1991年の4月に一度会っているのですね。会うなり二人はにっこり笑って、あいさつをしながら握手あくしゅをしたといいます。そしてお互いにプレゼントを交換したといいます。

あいにく二人が会ったのはその一回きりで、それから二人は結婚けっこんして家庭を持ち、それぞれが生活に追われたり、テロや紛争におびえる日々で二人は疎遠そえんになってしまうのですが。

争いがいかに子どもの心までゆがめてしまうかを、この本を読んで感じられました。そして、民間レベルでもパレスチナとユダヤ人が仲良くなり、平和がくることを強く望んでいる人も決して少なくないということも感じられました。


3 平和を望む人々

 実際、イスラエルの人々のなかには争いをやめようという人たちもいるのです。たとえば、イスラエルにピース・ナウという民間団体があるのですが、この団体はイスラエルの武力政策に反対しております。たとえば、

入植地で作られたブドウで製造されたワインなどの不買運動、入植地で活動する企業への不投資の呼びかけなどを行い、イスラエル政府がし進める入植政策に抗議こうぎしたりしています。

ただ、この団体は経済問題を扱わないため、最近は活動も停滞しているといいます。イスラエルも物価の高騰もしているし、格差も激しいとききますからね。それでも、右派がピース・ナウなどのユダヤ人左派に対して「国家への反逆者」「反ユダヤ主義者」などと非難しているくらいですから、右派にとってはこの団体の存在を無視できないのだと思われます。

ほかにもパレスチナ人との交流を深めることによって偏見をなくし、平和を実現しようとするグッシュ・シャーロムなどの団体もありますし、武術をとおしてパレスチナ人とユダヤ人との交流を深めようとする動きもあるようです。

1 ネタニヤフ〜バラク
 ラビンが1995年11月に暗殺されてると、外相のぺレスが首相となりました。ペレスは和平路線を継承けいしょうしようとしましたが、右派(たとえば野党のリクードとか)から批判をされてしまいます。1996年5月の選挙では、和平推進派である労働党(つまり故ラビンやペレスの政党)の議席のほうが、強硬派のリクードをわずかながら上回ったのに、イスラエルで初の首相公選制の結果、リクードのネタニヤフが首相になり、最右派のシャロンが閣僚かくりょうに加わります。

日本では首相を国民が直接選挙で選ぶことができないのですが、イスラエルではできないのですね。日本の選挙で選べるのは議員さんとAKB48などでしょうかw?

和平反対派のリクードが政権を握ったことで中東和平は停滞ていたいしてしまいます。ネタニヤフ政権はユダヤ人の入植地を広げてしまいました。しかし、ネタニヤフのワンマンぶりに国民の支持を失い、1999年の繰り上げ首相公選でバラク率いる労働党に敗北してしまいます。

新しく首相になったバラクですが、和平を推進するといいながら、ユダヤ人の入植地を前ネタニヤフ時代よりも広げてしまいます。

そして、イスラエルとPLOの間で和平交渉が行われました。それは2000年の出来事で、キャンプデービットで行われたのですが、PLOの理解も得られず、難民問題の解決の糸口も見いだせずに終わってしまったといいます。


2 シャロンの台頭

 和平交渉挫折のわずか2か月後、シャロンがエルサレムの神殿しんでんの丘にあるイスラム教の聖地アル・アクサモスクに立ち入ったため、パレスチナ人たちは激オコしてしまいます。

それが第二次インティファーダへと発展してしまいます。これはパレスチナ人たちの民衆蜂起みんしゅうほうきです。(※1)

そして2001年3月、この第二次インティファーダの原因をつくったシャロンが首相になってしまいました。パレスチナ人にとってこれは最悪なことだと思います。

シャロンはオスロ合意破壊に乗り出し、パレスチナ自治区の再占領に動き出します。当然、イスラムの過激派はいっそう自爆攻撃を激化させます。当然イスラエルは報復を行います。それからが血みどろの戦いが続きました。こうして2000年以来、2004年半ばまでパレスチナ人3500人あまり、イスラエル人は1000人近くが犠牲になっております。報復ほうふく連鎖れんさはとどまることを知りません。

それからシャロン政権は2002年からパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)との間に、長大な分離壁ぶんりかべの建設を開始しました。これはテロリストの侵入を防ぐためにつくられたものです。が、パレスチナ人とユダヤ人の分断をしているようで、かつてのベルリンの壁を思い出させます。

この壁には電流が走り、人間感知センサーのついた監視塔かんしとうが付いております。また、侵入者をふせぐみぞなどがあります。

2003年に国連総会で「壁の建設を中止しなさい」といわれてしまうのですが、シャロンは聞く耳を持たなかったといいます。

BarrierMay2005

(2005年5月現在の分離壁のルート)

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(分離壁の写真。ウィキペディアより)




3 ロードマップ
 イスラエルではゴタゴタが続いておりましたが、それをアメリカが指をくわえて見守っていたわけではありませんでした。ブッシュ大統領(息子のほう)は、はじめは中東和平に冷ややかな態度でしたが、9・11事件がおこり、テロ問題がパレスチナ紛争とイラク問題にリンクしているとみるようになったのです。

そして2003年イラク戦争が一段落したところで、ブッシュ大統領は、ロシアやEU、国連の合意を得て「中東和平計画工程表」いわゆる「ロードマップ」をアラファト議長とシャロン首相に示し、ヨルダンのアカバで二人を握手あくしゅさせました。

内容は2005年までに占領地からイスラエル軍を撤退てったいさせ、パレスチナ国家を建設するというものです。しかし、難民問題も棚上げするなど、課題も多いものでした。

そしてシャロン首相の指揮で全ユダヤ人入植地の撤去てっきょとイスラエル軍の撤退が行われました。 ガザからの撤退という決断は、イスラエルの世論を2つに分けてしまいました。 撤退に賛成する側と、撤退に反対する側のふたつに。それから2006年にはレバノン戦争、2008年ころにはガザ戦争が起こるなど、イスラエルおよびパレスチナの平和は今日においても訪れそうにもありません。

日本にいると戦争なんて昔話のように思えますが、パレスチナ・イスラエルではそれが今現在においても現実にあるのだなとエントリーを書いてみて改めて感じました。そして何気ない平和な日常が本当にありがたいことなんだなということも改めて思いました。


※1 ちなみに第一次インティファーダは1987年ごろから1993年ごろまで続き、パレスチナ人たちが石を投げたりしました。その辺のお話は僕のブログの「オスロ合意」のお話のときにふれました。

*参考文献




1 インティファーダ
 イスラエルとアラブの戦いは繰り返されました。テロ活動も激しく、イスラエルとアラブの争いの連鎖れんさはとまりません。そして、1987年に自然発生的にパレスチナ人による大規模だいきぼな抵抗運動がイスラエルの占領地の全域で広がりました。これをインティファーダ(大衆蜂起ほうき)というそうです。

人々はイスラエル軍に石を投げ、タイヤを燃やして交通を妨害ぼうがいしたといいます。イスラエル当局は、次々にパレスチナ人を逮捕たいほしたり弾圧をしましたが、パレスチナ人たちによる投石は続きました。武装ぶそうをしていないパレスチナ人に対して、イスラエル軍の兵隊たちは実弾で攻撃をしました。こうしたイスラエルに対するやり方に疑問を持つ人たちも増えてきたのです。それはアメリカ国内でも同じことでした。それがオスロ会議へとつながっていくのです。

2 湾岸戦争
 1990年8月、イラクはいきなりとなりの国のクウェートを侵攻しんこうし、全土を制圧しました。イラクがクウェートを進行したのは、イラン・イラク戦争でついやした戦費をクウェートの石油利権獲得によって回収したいという思惑おもわくがあったからだと考えられます。国連安全保障理事会はイラクにクウェートから出ていきなさいと言い、それと同時に対イラク経済制裁措置けいざいせいさいそちを発表しました。また、パパブッシュ大統領は、多国籍料理たこくせきりょうりじゃなかったw多国籍軍たこくせきぐんを結成しました。この多国籍軍には欧米諸国だけでなく、エジプトやシリアも参加していました。そして1991年1月に多国籍軍の攻撃がはじまりました。

この戦争のことは今も覚えています。僕は当時中学生でしたが、当時の担任の先生が残念そうに「イラクで戦争がはじまったよ・・・」と語りました。すると僕のクラスメートたちは「やった」となぜか喜んでおりました。すると先生がブルーになっていて「バカだねアメリカは、ベトナム戦争の二の舞になるよ」とおっしゃっていたのを覚えています。僕もテレビで戦争を見たのですが、まるでテレビゲームをみているかのような感覚でした。実際には戦場では悲惨ひさんなことがおきていたのですが、当時の僕にはそんなことなどわかるはずもありません。

この戦争では軍事施設だけをピンポインに攻撃していると報道されましたが、実際には軍事施設以外の場所で女性や子供をふくむ一般市民が犠牲ぎせいになりました。

PLOのアラファト議長は、イラクを支持したのですが、なぜかアラブ諸国から反感を買い、アラファトは困ったことになったのです。PLOが目指してきたパレスチナ国家樹立も遠のいてしまいました。


3 ラビンの登場

 1991年、スペインのマドリッドで中東和平会議が開催されましたが、この和平交渉も思うように進展しません。PLOも会議に参加できず、当時のイスラエルのシャミル首相が強硬きょうこうな姿勢をくずさなかったからです。ところが事態はかわります。1992年の7月、イスラエルの選挙でラビンが首相になりました。かれはパレスチナとの和平を公約しておりました。それまでイスラエルの首相といえばパレスチナに対して厳しい姿勢の人が多かったので、和平へ一歩前進したといえましょう。

1992年末からノルウェーが仲介者になって、オスロでPLOとイスラエルとの秘密交渉ひみつきょうしょうが開始され、和平への動きが加速しました。

そしてイスラエルとPLOとの間で合意がまとまって、1993年8月にオスロで仮調印されました。1993年9月13日、歴史的な出来事が起こります。さあ、みなさん、今日のその時がやってまいりますw


4 オスロ合意

 1993年9月13日、ワシントンでアラファト、ラビン両者出席のもとで、パレスチナ暫定自治宣言ざんていじちせんげんの調印式が行われました。これは合意達成のもとをつくったオスロでの会談を敬して「オスロ合意」とよばれおります。

オスロ合意の内容は次の3点です。

  • イスラエルとPLOの相互承認そうごしょうにん。とくにイスラエルが、それまでテロ組織とみなしてきたPLOをパレスチナ人の代表として認めたことは大きい。


  • イスラエルが1967年に占領した地域の一部でのパレスチナ人による自治の開始(パレスチナ人が政府をもつことを認める。ただし国家ではない)


  • 様々なむずかしい問題の先送り(イスラエルと将来のパレスチナ国家との最終的な境界、パレスチナ難民の故郷への帰還きかんなど)


むずかしい問題は先送りされたものの、それでもこれまでのパレスチナとイスラエルの関係を考えれば進歩といえます。ああ、よかったと思っていたのですが、イスラエル国内でも猛反発がおこります。「あくまでもパレスチナは神の与えた土地」だとするユダヤ教徒の過激派も、パレスチナの旗を焼くなど、はげしい抗議活動をします。そして大変なことが起こります。

なんと、1995年にラビン首相が暗殺されたのです。犯人はユダヤ人です。ラビン首相がパレスチナ側に歩み寄ったことへの不満からです。パレスチナ人ではなく、ユダヤ人が気に入らないからといって同胞どうほうを殺してしまったのです。ラビン首相が集会で「私は27年間戦ってきたが和平はなかった、いまこそ和平を」と演説し、会場から出ようとしたところで拳銃けんじゅうで暗殺されてしまったのです。これにてパレスチナとイスラエル和平はますます遠のいたのです。


* おまけ

オスロ合意の動画をご紹介します。いまアメリカ大統領選で選挙活動をしているヒラリーのご主人であるクリントンも映ってます。



* 参考文献





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