history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 東北の歴史

1 若松 賤子ってどんな人?
 若松 賤子(わかまつしずこ)は、会津あいづの生まれで、日本にキリスト教文学を次々と紹介しました。

代表作は『小公女』(の翻訳ほんやく)。また、『セイラ・クルーのお話』(『小公女』)を雑誌『少年園』において連載れんさいが行なわれましたが、連載中に若松が亡くなったため、こちらは未完みかんのままになっております。

『小公子』や『小公女』を日本で初めて紹介したのも若松だったのですね。

僕は『小公子』のほうはまだ読んだことがないのですが、『小公女』の方は読んだ事があります。

あらすじは大金持ちのおじょうさまだったが、父の死で孤児こじになりメイドになったセーラが、ミンチン先生やラビニアのイジメに苦しみながらも、ベッキーや父の友人などに助けられ、幸せになっていくというお話です。


2 セーラ・クルーに似た境遇きょうぐうの若松 賤子


 『小公女』や『小公子』の翻訳をした若松 賤子は、会津藩士のむすめとして生まれましたが、戊辰戦争ぼしんせんそうで会津は敗北はいぼく

たちまち会津の人々は賊軍ぞくぐんのレッテルをはられ、若松 賤子は生まれ育った会津から追われてしまいます。

さらに6才で母親を失い、父とも生き別れてしまいます。

それで若松 賤子は、大川甚兵衛(おおかわじんべえ)という人物の養女となります。大川は横浜よこはまの貿易商・山城屋の番頭(※1)をやっておりました。

それから、プロテスタントの宣教師メアリー・キダーが開いたじゅくに入ってアメリカ式の教育を受けました。

しかし山城屋が倒産し、大川家も債務さいむを負いお金が無くなったので、若松 賤子は東京へ引っこしました。


おさない時に親と別れるところとか(※2)、養女になる所とか、親が破産するところとか(※3)とか、『小公女』と少し似ているなと思いました。若松賤子も『小公女』のセーラの生き様に自分を見たのかもしれません?

※1 商家などの使用人のかしら。営業・経理など、店のすべてを預かる者。 
※2 もっとも若松は父親とは再会するのだが
※3 若松賤子の場合は養父



3 クリスチャンとなった若松 賤子
 明治8年、キダー女史の塾がフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)として寄宿舎きしゅくしゃ(※4)をそなえて開校し、11才の賤子は再びキダーの下で学びはじめたのです。

そして、賤子は13才でキリスト教の洗礼せんれい(※5)を受けて、寄宿制きしゅくせいのフェリス・セミナリーを卒業し、賤子は教師となります。

教師をやりながら文学活動もしたのです。 文学活動で知り合った巖本善治(いわもと よしはる)と結婚けっこん後、『小公子』の翻訳などをしたのです。

また、若松 賤子は女性の地位向上も考えていました。明治17年4月、フェリスの増改築落成式においては、女子教育と女性の社会的地位向上の必要性を演説し、演説をいていた人たちを驚かせたとか。

明治といえば男尊女卑だんそんじょひ(平成の日本は女尊男卑w?)の時代。進歩的な若松賤子が明治の日本をにがにがしく思ったのも、ある意味当然なのかもしれません。

※4 学校,会社,商店などが,学生や生徒,社員,店員などのために設ける共同宿舎。
※5 キリスト教の信者となる儀式ぎしきのこと。全身を水にひたすか、または頭部に水を注ぐことによってつみを洗い清め、神の子として新しい生命を与えられるあかしとする。

※ オマケ
 『小公女セーラ』は、アニメ化されました。


(『小公女セーラ』の動画。日本アニメーションの公式動画のようです)


とくと我を見たまえ―若松賤子の生涯 (1980年)




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1 子供を敵方に預けた幸村
2016年の大河ドラマ「真田丸」が好評だったようですね。あいにく僕は一回も「真田丸」をみたことがないので、機会があれば見てみたいです。さて、真田幸村さなだゆきむら伊達政宗だてまさむねと戦ったといいます。大阪夏の陣でも両者は激しいバトルをしたといいます。大阪夏の陣とは徳川家VS豊臣家のバトルで、両家の存亡をかけた戦いでした。政宗は徳川方に、幸村は豊臣方についておりました。

しかし、男同士の争いで泣く思いをするのはいつの時代も女と子供。大阪夏の陣の決戦前夜、真田幸村も自分の娘の阿梅おうめを伊達政宗の家臣である片倉小十郎かたくらこじゅうろうの陣所に送っていました。かわいい愛娘の保護を片倉にお願いしたのですね。実はこのとき、幸村は阿梅のほかに、阿菖蒲おしょうぶ、おかね、そして当時4歳だった大八らも保護されました。子供たちの保護を頼むとはいっても戦の真っ最中、これは事実上の投降にちかく幸村の子供たちを生かすか殺すかは相手側の片倉小十郎というか伊達家にかかっておりました。保護をお願いしても、なにせ相手は敵。下手すりゃ子供たちは殺されるリスクがある、いやそのリスクが高いのです。

そんなリスクをおかしてまでなぜ幸村は敵将である片倉に自分の子供たちを預けたのでしょう?

いろいろな理由が考えられますが、幸村と片倉が同郷だったことも無視できないと思います。実は片倉家はもともと信州諏訪すわの出身で、幸村と同じ信州人なのですね。また伊達政宗も真田幸村ももともとは豊臣秀吉につかえていたので、伊達と真田がお互いに旧知の間柄であったことも理由として考えられます。


2 幕府の目をあざむき幸村の子供を守った

 大阪の陣後、伊達家は真田の子供たちを片倉の居城・白石城にて保護し、養育をしたといいます。その後、阿海は片倉小十郎の後室に、阿菖蒲は伊達家の家臣・田村定広たむらさだひろの妻になっております。おかねはその後どうなったかはわかりませんが、男の子である大八ともに大切に育てられました。

伊達政宗の後を継いだ伊達忠宗だてただむねの時代。大八は真田守信と名をかえ、伊達家(仙台藩)に300石で召し出されるようになりました。守信の出自を怪しみ、幕府は守信の家系調査を仙台藩に命じましたが、仙台藩は幕府の詮議せんぎに対してニセの家系図を渡したといいます。真田政信という架空の人物をつくり、守信がその子供であるとしたうえ、真田姓を片倉姓にして幕府の面目を立てたといいます。

その後、守重は1657年(明暦3年)に江戸留守居役(※1)に任じられるも、当時の幕閣・松平信綱まつだらいらのぶつなたちが守重の出自を怪しんでいたため、仙台藩の人たちは守重の役を辞めさせます。守重は1670年(寛文かんぶん10年)に59歳で死去。守重の亡骸なきがら白石市しろいしし当信寺とうしんじほうむられ、墓碑ぼひには六文銭ろくもんせんではなく、一文銭いちもんせんが刻まれておりました。六文銭といえば、歌のグループ名ではありませんw真田家の家紋かもんです。それくらい伊達家は、守重の出自が怪しまれないように気をつかったのですね。ちなみに、この当信寺には幸村の娘である阿梅も葬られております。

3 真田家のその後
 守重の死後、守重の子孫たちは片倉と名乗りながら伊達家を幕末まで支え続けまし。そして、守信より8代後、幕末期の子孫真田幸歓ゆきよしにおいて真田姓に戻ることができたのです。仙台真田家として現在も続いています。

それにしても伊達家はよく真田家の人を守ったと思います。先にも述べましたが、徳川家にとって真田家は不倶戴天ふぐたいてんの敵。当然生かしておくわけにはいかない存在です。その子孫が伊達家に仕えているとなれば、当然幕府は許さないだろうし、家康の時代であれば伊達政宗を討つために東北に軍隊を派遣することだって十分考えられるわけです。そんなリスクをおかしてまで、政宗は幸村との男の約束を守り、子孫の代になってもそれを守り続け、幕末まで真田家が存続できたのだからすごいと思います。





※1 諸大名が、その江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩の留守居役との交際・連絡を担当。


※ 参考文献


七夕とは彦星と織姫の恋物語で、一年に一回、7月7日だけ、二人が会うのですね。もともとは中国の星まつりだったのが、日本にも伝わったのですね。それと日本古来の「眠り流し」(※1)という行事と結びついて、いまの七夕になりました。七夕は、商売繁盛、健康長寿、技量上達、五穀豊穣ごこくほうじょう、そして先祖の供養といった民衆の願いが込められた行事なのですね。

七夕祭りといえば宮城県の仙台が有名ですが、仙台の七夕祭りは7月7日には行われません。8月の上旬に3日間にわたって七夕まつりが行われます。それは七夕まつりが旧暦の7月7日に合わせて行われるからです。旧暦の7月7日を、現在使われている太陽暦に直すと8月の上旬ごろになります。仙台だけでなく全国でも七夕まつりは行われます。東京では、杉並区にある阿佐ヶ谷で毎年8月上旬に行われます。僕も阿佐ヶ谷の七夕まつりに何度か行ったことがあるのですが、ぜひ仙台の七夕祭りもいってみたいですね。

さて、七夕まつりというのは平安の昔、宮中の清涼殿せいりょうでんで行われていた貴族の遊びの一つでした。それが江戸時代になって民衆に普及ふきゅうしました。

仙台で七夕祭りが始まったのは伊達政宗の時代です。政宗が七夕について歌をんでいるのです。それがこちらの二首。


「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」

「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」


政宗は、合理主義的なイメージが僕にはなんとなくあったのですが、実はロマンティストだったのですね。

政宗亡き後も仙台では七夕まつりは続けられました。しかし、明治維新後、全国的に七夕行事が衰退すいたいしていき、仙台も大正末期ごろには往時の華やかさはなくなったといいます。1927年(昭和二年)には、商家の有志たちが華やかな七夕祭りを復活させたものの、戦争がはじまり戦況が悪化すると、七夕飾りは町から消えていきました・・・・

そして終戦の翌年、1946年(昭和21年)。仙台空襲で焼けた一番町通りに、52本の七夕飾りが飾られました。仙台の人々は涙がでるほど喜んだといいます。まさに仙台の七夕まつりは終戦後の復興のシンボルだったのですね。


そして2011年の震災で仙台七夕まつりは中止にしようかという意見もあったようですが、「震災の年に七夕まつりをやらなかったら、復興は今より遅れていたんじゃないかな」という声に仙台の人たちも同調し、この年も例年通りに七夕まつりが行われました。 

避難所暮らしを余儀なくされたある女性は「犠牲者の中には毎年楽しみにしていた人もいる。供養のためにも祭りができてよかった」と語られたそうです。

※1 秋の収穫前に労働の妨げとなる睡魔すいまを追い払うため、人形などの形代に睡魔をゆだねてはらえ流す




※ 参考文献および参考サイト




http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0601C_W1A800C1CR0000/

今日も伊達政宗に関連するお話をします。伊達政宗は1613年(慶長18年)に藩士・支倉常長はせくらつねながらをメキシコ、スペイン、ローマに派遣しております。一行は支倉たち仙台藩士だけでなく、江戸幕府関係者、各地の商人、フランシスコ会の宣教師など計180名で参加しました。その目的はスペインとの通商交渉(※1)でした。

支倉の使節団は1613年から、1620年(元和げんな6年)まで7年間続きました。これがいわゆる慶長遣欧使節団です。

一行は1613年10月月浦(現石巻市)を出帆しゅっぱんし、約90日後にメキシコに上陸。その後、陸路で大西洋側まで進み船を乗り換えスペインへ向かいました。1615年、スペインはマドリードの王宮で国王フェリペ3世に謁見えっけんを果たしました。しかし、通商に関してはフェリペ3世から「すぐには返事ができない」という感じでした。それから常長は翌年ローマに向かい、ローマ教皇パウロ5世に謁見します。ローマ法王にあった後常長はふたたびフェリペ3世に会いますが、交渉は進まず。

しかも悪いことに、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかったのです。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国しました。こうしてはるばるローマまで往復した常長でしたが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていました。そして、1621年に失意のうちに死去したのです。

海外に行くというと今の感覚でも大変かもしれませんが、昔は交通手段も船くらいしかなかったので、今よりももっと大変だったと思います。そんな命がけの旅をしたのに関わらず、交渉も成功しなかったのですから、常長は気の毒だなと思います。しかし、彼が命がけではるばるヨーロッパまで行ったことは大変大きなことだと思います。

世の中は結果がすべてで、そこに至る努力だとか情熱といったプロセスは見てもらえないことが多々ありますが、少なくとも常長の行ったことは評価どころか日本人として誇りに思ってよいと思います。支倉はそれだけの偉業を成し遂げたのですから。

さて、支倉達一行が乗った船はサン・ファン・バウティスタ号。この船は日本初の西洋型木造帆船だそうです。この船をつくるのに仙台藩の人だけでなく、なんと幕府の人までかかわっておりました。造船にあたっての総監督は徳川幕府初代スペイン使節のセバスチャン・ビスカイノ。幕府からも船大工さんが派遣されました。ビスカイノの指導のもと、造船工約800人、鍛冶工約700人、大工役3000人という大がかりな造船作業でした。それに伴い女、子供たちも働いたので、経済効果もあったようです。

船をつくるのに用いられた木材は、気仙けせん磐井いわい江刺えさしなど各郡から調達されました。

当時のスペインでは同じような船をつくるのい二年ほどかかったようですが、サンファン号は、45日で作られました。大人数で作ったとはいえ、日本の技術に驚かされます。


※1  外国と商取引をすること。交易。貿易。「条約を結んで外国と―する

※ おまけ

サン・ファン・バウティスタ号の復元船は、震災による津波で被害を受けましたが、2013年にサン・ファン・バウティスタ号は復活しました。



※ 参考文献
宮城県の歴史散歩
山川出版社
2007-07-01




(この記事は2021年8月11日に加筆修正しました)
1 慶長三陸地震
 2011年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災。東北地方(特に宮城県)で震災が起きたのは今回が初めてではありません。以前の記事でも取り上げました貞観地震じょうがんじしんもそうですが、慶長けいちょう年間(1596年〜1615年)にも東北に震災が起こったのです。

ときは1611年(慶長16年)12月2日。東北三陸地方に震災が起きました。いわゆる、慶長三陸地震。ウィキペディアでこの地震の震度を調べてみたら、震度5とおもっていたよりもひどくは無いのですね。(マグニチュードは8.1)

しかし、この地震の影響で津波が起きて、東北地方のあちこちで被害があったといいます。なんでも、朝からたびたび地震があり、大きな地震がドカンときた直後に山のように大きい津波がおしよせ、川をさかのぼり、匹そいで木や家々を連れ去ったといいます。死者、被害家屋かおく多数。家だけでなく、田畑も津波に飲まれたそうです。かなり広い範囲で津波が浸水したのです。なんでも、当時の海岸より一里(約4km)内陸にある宮城県岩沼市いわぬまし阿武隈川あぶくまがわ沿いにある千貫山せんがんやま,/ruby>のふもとまで船が流された記録があるとか。そうとう内陸まで津波が押し寄せたのですね。記録によると南部藩領土は約3000人、伊達藩領では1783人の被害者があったそうです。

この地震が起こる前にイスパニアの探検家のセバスチャン・ビスカイノが日本に訪れ、1611年(慶長16年)の11月10日に伊達政宗だてまさむね謁見えっけんしているのですね。政宗はイスパニア国王とも親交を結びたいと話、刀や衣服、銀20枚などを贈り、旅行に必要な食糧や馬や船なども用意したといいます。ビスカイノは15日に仙台を立ち、船に乗って仙台藩の北部沿岸の測量を始めました。船で石巻や気仙沼、それから越前高田を経て、12月2日に大船渡に上陸しようとしたら、陸に近づくと、住民たちは村を捨てて山に逃げたのですね。ビスカイノは住民たちはなんで逃げるのだろうと不審に思っていたのですが、やがてその意味がわかったのですね。この日の震災による津波が押し寄せたのですね。幸い、ビスカイノの乗っていた船は助かったのですが。そして、ビスカイノは慶長遣欧使節団けいちょうけんおうしせつだんの船に同乗し、無事帰国できました。慶長遣欧使節団の話は次回します。

2 会津でも起こった地震
ちなみに、この慶長三陸沖地震の前震とみられるのが、やはり1611年8月21日に発生した慶長会津地震です。推定マグニチュード6・9ながら、内陸部の比較的浅い場所が震源だったため、こちらのほうが被害が大きかったそうです。そのため震源の会津一帯で山くずれが多発。現在の喜多方きたかた市周辺でも土砂災害によって川がせき止められ、山崎新湖ができたというほど。会津の鶴ヶ城つるがじょうの石垣もくずれ、天守も傾いたそうです。死者も3700人もでて、会津藩の領内の家屋が二万戸以上壊れたといいます。この震災があったころの会津藩の藩主だった蒲生秀行がもうひでゆきはこの地震を「酒におぼれたり、神仏をバカにするなど私の愚行ぐこうが原因だった」と責任を感じたそうです。秀行はもともと病弱なうえに、いろいろ心労がたたり、地震の翌年、31歳で他界しました。

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(鶴ヶ城)


3 震災の教訓
 この慶長地震の教訓から、人々は街道と宿場町の整備をおこなったといいます。街道も慶長地震の時の津波が来なかったところにつくられたそうです。それで、今回の東日本大震災で仙台平野は津波で大きな被害を受けましたが、津波の浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まったのですね。歴史に学ぶって大事だなって。

仙台藩を治めていた伊達政宗はどうしたのでしょう?

津波のために田畑がダメになりましたが、それでも政宗がめげないのはすごいところ。なんと彼は、津波で浸水した田畑を塩田にしました。長州より川村孫兵衛カワムラマゴベエという技術者を連れてきて、塩田造りにあたったのです。塩で苦しめられる土地であれば逆に塩を生産してしまえば良いと。そうやって造られた、この塩は仙台藩の主要な産業の一つとなりました。仙台周辺には、「塩」や「釜」がつく地名が沿岸部に沢山ありますが、塩田がそれだけ多かったのでしょうね。

津波で被害にあった地域の新田開発を行い、復興を進めていったそうです。伊達政宗が積極的に新田開発を行った結果、政宗の領地から米が沢山取れるようになり、江戸のお米の3分の1を供給下ともいわれています。津波の被害が大きくても、はやい復興ができたのも伊達政宗のリーダーシップによるものも大きいとおもわれます。また、東北地域の人々の粘り強さもすごいなあって。


※ 参考文献

いま、「東北」の歴史を考える
高山宗東
総和社
2011-06-28



歴史から探る21世紀の巨大地震 (朝日新書)
寒川 旭
朝日新聞出版
2013-04-29



また、NHKの「歴史探偵」や「英雄たちの選択」も参考にしました。

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