history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 東北の歴史

  


  
  東日本震災直後台湾から200億円を超える義援金が届いたといいます。すごいですね!謝謝ですね。

このように台湾の人たちは隣人が困ったら助けてあげるという倫理観があるようですね。それと、台湾の人たちが日本人の勤勉さ、まじめさに敬意を称もっていること、哈日族(ハーリージュー)とよばれる人たちが多いこともあげられます。哈日族とは、日本の文化、たとえばアニメだとかゲームだとかファッションだとか、歌舞伎だとか能だとか伝統文化に興味をもったりするような人のことです。また、テレサ・テンさんをはじめ、ジュディ・オングさんやオーヤン・フィーフィーさん、僕の世代には懐かしいブラック・ビスケッツのビビアン・スーさんたちの日本でのご活躍も台湾の人たちには励みでもあり、誇りでもあるのではないでしょうか。



また、テレサ・テンさんのお兄さまのフランク・テンさんも280万円も震災後寄付をされたそうです。
フランク・テンさんは「被災者の方々が早く困難を克服し、災害に打ち勝ち、住まいを建て直されるようお祈りしています」とコメントされたそうです。フランクさんは妹が日本でお世話になったから、その日本に何か恩返しをしようと思われたのかもしれません。すばらしいことです。

震災といえば、2018年に台湾で大きな地震がありました。2月6日の出来事です。


  

この地震で17人が亡くなられたそうです・・・・花蓮市内では、7階建てのマーシャルホテル(統帥大飯店)や、12階建てのビル、そのほかに民家41棟が倒壊する被害が発生したといいます。ライフラインでは停電1,336戸、断水100戸の被害となっているとのことです・・・

日本からは、安倍前総理が動画で手書きで応援メッセージを寄せ、激励する動画を公開した他、外国で唯一、国際緊急援助隊専門家チームを派遣したそうです。2月12日に行われた世論調査では、台湾に最も思いを寄せた国はどこだと思うかという設問で、日本との回答が75.8%に達し、2位の中国(同1.8%)を大きく引き離したといいます。また、阿部寛さんをはじめ多くの芸能人や著名人の方々も台湾の支援をされたそうです。



また、東北でも台湾の人たちを支援しようという動きがありました。以下、新聞の記事から引用します。

6日に発生した台湾東部の地震を受け、東日本大震災で被災し台湾から多額の支援を受けた宮城県南三陸町と、町内の復興商店街は8日、地震被災地の支援に役立ててもらおうと募金活動を始めた。

町は震災で被災し2015年12月に再建された町立南三陸病院の建設費として、台湾紅十字組織から約22億円を寄付を受けた。復興支援をきっかけに台湾から400人以上の高校生が町へ教育旅行に訪れたり、大学生が町内の観光施設でインターンシップを行ったりして交流を深めている。(略)

町内では16年2月に起きた台湾南部の地震の際にも学校や企業が募金活動を行い、約614万円の義援金を送った。
『河北新報』

また、ある方は「自宅が津波で被災した経験があり、今回の地震(2018年2月6日の台湾地震)の被害を知ってとても心配している。寄付金を現地で必要なものに使ってほしい」とコメントされております。


今回の台湾震災で亡くなられた人たちのご冥福をお祈りするとともに、東北や台湾の復興をお祈りいたします。そして、日本と台湾の友好に多大な貢献をされたテレサ・テンさんに敬意を表します。


※ おまけ
テレサ・テンさんの歌を聴きながらお別れしましょう。曲は「月亮代表我的心」。すべて中国語(北京語)で歌われております。

https://www.youtube.com/watch?v=hj4bnnek9MU
(↑クリックすると動画がでてきます)

1 若松 賤子ってどんな人?
 若松 賤子(わかまつしずこ)は、会津あいづの生まれで、日本にキリスト教文学を次々と紹介しました。

代表作は『小公女』(の翻訳ほんやく)。また、『セイラ・クルーのお話』(『小公女』)を雑誌『少年園』において連載れんさいが行なわれましたが、連載中に若松が亡くなったため、こちらは未完みかんのままになっております。

『小公子』や『小公女』を日本で初めて紹介したのも若松だったのですね。

僕は『小公子』のほうはまだ読んだことがないのですが、『小公女』の方は読んだ事があります。

あらすじは大金持ちのおじょうさまだったが、父の死で孤児こじになりメイドになったセーラが、ミンチン先生やラビニアのイジメに苦しみながらも、ベッキーや父の友人などに助けられ、幸せになっていくというお話です。


2 セーラ・クルーに似た境遇きょうぐうの若松 賤子


 『小公女』や『小公子』の翻訳をした若松 賤子は、会津藩士のむすめとして生まれましたが、戊辰戦争ぼしんせんそうで会津は敗北はいぼく

たちまち会津の人々は賊軍ぞくぐんのレッテルをはられ、若松 賤子は生まれ育った会津から追われてしまいます。

さらに6才で母親を失い、父とも生き別れてしまいます。

それで若松 賤子は、大川甚兵衛(おおかわじんべえ)という人物の養女となります。大川は横浜よこはまの貿易商・山城屋の番頭(※1)をやっておりました。

それから、プロテスタントの宣教師メアリー・キダーが開いたじゅくに入ってアメリカ式の教育を受けました。

しかし山城屋が倒産し、大川家も債務さいむを負いお金が無くなったので、若松 賤子は東京へ引っこしました。


おさない時に親と別れるところとか(※2)、養女になる所とか、親が破産するところとか(※3)とか、『小公女』と少し似ているなと思いました。若松賤子も『小公女』のセーラの生き様に自分を見たのかもしれません?

※1 商家などの使用人のかしら。営業・経理など、店のすべてを預かる者。 
※2 もっとも若松は父親とは再会するのだが
※3 若松賤子の場合は養父



3 クリスチャンとなった若松 賤子
 明治8年、キダー女史の塾がフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)として寄宿舎きしゅくしゃ(※4)をそなえて開校し、11才の賤子は再びキダーの下で学びはじめたのです。

そして、賤子は13才でキリスト教の洗礼せんれい(※5)を受けて、寄宿制きしゅくせいのフェリス・セミナリーを卒業し、賤子は教師となります。

教師をやりながら文学活動もしたのです。 文学活動で知り合った巖本善治(いわもと よしはる)と結婚けっこん後、『小公子』の翻訳などをしたのです。

また、若松 賤子は女性の地位向上も考えていました。明治17年4月、フェリスの増改築落成式においては、女子教育と女性の社会的地位向上の必要性を演説し、演説をいていた人たちを驚かせたとか。

明治といえば男尊女卑だんそんじょひ(平成の日本は女尊男卑w?)の時代。進歩的な若松賤子が明治の日本をにがにがしく思ったのも、ある意味当然なのかもしれません。

※4 学校,会社,商店などが,学生や生徒,社員,店員などのために設ける共同宿舎。
※5 キリスト教の信者となる儀式ぎしきのこと。全身を水にひたすか、または頭部に水を注ぐことによってつみを洗い清め、神の子として新しい生命を与えられるあかしとする。

※ オマケ
 『小公女セーラ』は、アニメ化されました。


(『小公女セーラ』の動画。日本アニメーションの公式動画のようです)


とくと我を見たまえ―若松賤子の生涯 (1980年)




小公子 (岩波少年文庫)


小公女 (岩波少年文庫)



世界名作劇場・完結版 小公女セーラ [DVD]

本題に入るまえに、こちらの動画をどうぞ。



これは戸ノ口堰洞穴の動画。もともとこの洞穴は猪苗代湖の水を会津へ引くために作られたものだそうですが、この洞穴をとおって白虎隊は猪苗代湖から会津の飯盛山までやってきたのです。

1 奮戦する白虎隊士中二番隊びゃっこたいしちゅうにばんたい
 8月23日の早朝。次第に雨も上がっていきました。しかし、雨が降り注ぐ中、一晩中じっと持ち場をはなれなかった白虎隊士中二番隊のつかれはピークに達していたと思います。あと、寝不足ねぶそくだったと思われます。(ている最中に敵におそわれたら大変だから、寝なかったと思われます。)

しかも、指揮官もいない、戦況せんきょうもわからない。そんなピンチの時に少年達は次はどうしたらよいのかまよいました。

指揮官が帰ってくるまでととまるべきか?

それとも、戦場(戸の口原)に打って出るか?

白虎隊たちの意見はわかれました。やがて年長だった篠田儀三郎(しのだぎざぶろう)たちが中心になり、「戸の口原にもどり、会津軍に合流して一緒いっしょに戦おう」と決心しました。

孫子そんしの兵法書には「戦争に勝つためにはげることも大事だ」と書かれているのですが、篠田は敵から逃げるのははじだと思ったのでしょう。

戸の口原にて、白虎隊士中二番隊は敵軍と戦いました。白虎隊士中二番隊にとって初の実戦となりましたが、その戦況は無残むざんなものでした・・・


2 白虎隊士中二番隊 退陣

 8月23日午後9時ごろ、初めての戦闘せんとうきずついた白虎隊たちは、いよいよ追いめられます。腹ペコのうえに、つかれもたまり、とても戦うことは出来ませんでした。

ムダ死にするくらいならばと、白虎隊士たちはけわしい山道を通って鶴ヶ城つるがじょうへと向かいました。 白虎隊たちは必死で山道を進んでいきましたが、体力と精神力の限界から、途中とちゅうではぐれてしまったり、おくれるものも出てきたり、敵の一斉射撃いっせいしゃげきを食らったりと、仲間同士がバラバラになったそうです。

飯沼のまわりには20名しか残っていなかったそうです。そして飯沼たち20人は暗い戸ノ口堰洞穴とのぐちせきどうけつをとおって、城下を見下ろすことが出来る飯盛山にたどり着きました。

会津の街を見た20人の白虎隊たちはおどろきました。お城や城下町のところからもうもうと煙が立ち込めていたのです。20人は一同に落胆らくたんし、言葉もなく呆然ぼうぜんと立ちすくんだそうです。泣いた者もいました。

3 自刃をしようとした飯沼貞吉 
 白虎隊の20人はそれぞれ「城にもどって戦おう」とか「いや、敵の側面をついて反撃しよう」とか色々と議論をしたのですが、最終的には「武士らしく、ここで自刃じじんをしよう」ということで一致いっちしたそうです。

よく、白虎隊はお城が燃えているのとカン違いして、勢いあまって自刃したといわれておりますが実際はちがうようですね。

飯沼も出陣の時に母からもらった短冊たんざくを取り出し、そこに書いてあったを大きな声で三回読みました。


「梓弓(あずさゆみ) 向こふ矢先しげくとも 引きな 返しそ 武士(もののふ)の道」

「たとえ武器がオシャカになっても、武士だったら、最後まで戦え」という意味だと思われます。 飯沼はノドに刀をついて意識を失いました。飯沼はどうなったか?



4 晩年の飯沼

 飯沼貞吉(いいぬまさだきち)が刀をノドにつけて気を失っていたところ、飯盛山いいもりやまの近くに住んでいた足軽の奥さんに助けられました。まさに飯沼貞吉は助かったのです。 飯沼貞吉は会津戦争後あいづせんそうご謹慎きんしんを受けました。そして、明治の世の中になって工部省こうぶしょうにはいり、電信技士となりました。


そして技師として日清戦争に従軍じゅうぐんしたそうです。日清戦争に従軍中、「キケンだからとピストルを持ったほうがいいよ」と言った者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったといわれています。すごいですね。さすがは元白虎隊びゃっこたいです。

やがて飯沼は逓信省ていしんしょうのオエライさんになります。逓信省とは、郵便ゆうびんと通信をあつかう省庁しょうちょうで、今で言えば総務省そうむしょうにあたります。飯沼は郵便事業の発展はってんと、電信電話でんしんでんわ普及ふきゅう貢献こうけんしたといわれています。

私生活では、広島藩士ひろしまはんしむすめ結婚けっこんし、3人の子をさずかりました。しかし、日露戦争にちろせんそうで、飯沼の長男が日露戦争で兵士となり、戦争から帰った直後に亡くなっております・・・

飯沼は、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長せんだいていしんかんりきょくこうむぶちょう就任しゅうにんし、仙台に住みました。退職後も仙台に住み続け、亡くなる(( 昭和6年(1931年)2月12日))までいたようです。

それから、白虎隊士の生き残りの一人飯沼貞吉は、仲間たちの事を生涯しょうがいわすれる事がなかったそうです。

一方で飯沼は自分が飯盛山で死にぞこなったことをずかしくおもっていたようでうす。飯沼の墓は飯盛や尼にはあるのですが、飯盛山で自刃じじんした19人の墓と少しはなれた所に飯沼貞吉の墓があります。



最後に飯沼貞吉の晩年ばんねんの詩をご紹介しょうかいします。

すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべる心地こそすれ


Iinuma_Sadakichi


(飯沼貞吉の晩年の写真。ウィキペディアより)

今日から2回にわたって飯沼貞吉(いいぬまさだきち)について取り上げます。飯沼貞吉は白虎隊びゃっこたいの生き残りで、昭和のはじめまで存命ぞんめいでした。彼は飯盛山いいもりやま自刃じじんしたのですが、運よく助かったのです。



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1 子供を敵方に預けた幸村
2016年の大河ドラマ「真田丸」が好評だったようですね。あいにく僕は一回も「真田丸」をみたことがないので、機会があれば見てみたいです。さて、真田幸村さなだゆきむら伊達政宗だてまさむねと戦ったといいます。大阪夏の陣でも両者は激しいバトルをしたといいます。大阪夏の陣とは徳川家VS豊臣家のバトルで、両家の存亡をかけた戦いでした。政宗は徳川方に、幸村は豊臣方についておりました。

しかし、男同士の争いで泣く思いをするのはいつの時代も女と子供。大阪夏の陣の決戦前夜、真田幸村も自分の娘の阿梅おうめを伊達政宗の家臣である片倉小十郎かたくらこじゅうろうの陣所に送っていました。かわいい愛娘の保護を片倉にお願いしたのですね。実はこのとき、幸村は阿梅のほかに、阿菖蒲おしょうぶ、おかね、そして当時4歳だった大八らも保護されました。子供たちの保護を頼むとはいっても戦の真っ最中、これは事実上の投降にちかく幸村の子供たちを生かすか殺すかは相手側の片倉小十郎というか伊達家にかかっておりました。保護をお願いしても、なにせ相手は敵。下手すりゃ子供たちは殺されるリスクがある、いやそのリスクが高いのです。

そんなリスクをおかしてまでなぜ幸村は敵将である片倉に自分の子供たちを預けたのでしょう?

いろいろな理由が考えられますが、幸村と片倉が同郷だったことも無視できないと思います。実は片倉家はもともと信州諏訪すわの出身で、幸村と同じ信州人なのですね。また伊達政宗も真田幸村ももともとは豊臣秀吉につかえていたので、伊達と真田がお互いに旧知の間柄であったことも理由として考えられます。


2 幕府の目をあざむき幸村の子供を守った

 大阪の陣後、伊達家は真田の子供たちを片倉の居城・白石城にて保護し、養育をしたといいます。その後、阿海は片倉小十郎の後室に、阿菖蒲は伊達家の家臣・田村定広たむらさだひろの妻になっております。おかねはその後どうなったかはわかりませんが、男の子である大八ともに大切に育てられました。

伊達政宗の後を継いだ伊達忠宗だてただむねの時代。大八は真田守信と名をかえ、伊達家(仙台藩)に300石で召し出されるようになりました。守信の出自を怪しみ、幕府は守信の家系調査を仙台藩に命じましたが、仙台藩は幕府の詮議せんぎに対してニセの家系図を渡したといいます。真田広之さんじゃなかったw真田政信という架空の人物をつくり、守信がその子供であるとしたうえ、真田姓を片倉姓にして幕府の面目を立てたといいます。

その後、守重は1657年(明暦3年)に江戸留守居役(※1)に任じられるも、当時の幕閣・松平信綱まつだらいらのぶつなたちが守重の出自を怪しんでいたため、仙台藩の人たちは守重の役を辞めさせます。守重は1670年(寛文かんぶん10年)に59歳で死去。守重の亡骸なきがら白石市しろいしし当信寺とうしんじほうむられ、墓碑ぼひには六文銭ろくもんせんではなく、一文銭いちもんせんが刻まれておりました。六文銭といえば、歌のグループ名ではありませんw真田家の家紋かもんです。それくらい伊達家は、守重の出自が怪しまれないように気をつかったのですね。ちなみに、この当信寺には幸村の娘である阿梅も葬られております。

3 真田家のその後
 守重の死後、守重の子孫たちは片倉と名乗りながら伊達家を幕末まで支え続けまし。そして、守信より8代後、幕末期の子孫真田幸歓ゆきよしにおいて真田姓に戻ることができたのです。仙台真田家として現在も続いています。

それにしても伊達家はよく真田家の人を守ったと思います。先にも述べましたが、徳川家にとって真田家は不倶戴天ふぐたいてんの敵。当然生かしておくわけにはいかない存在です。その子孫が伊達家に仕えているとなれば、当然幕府は許さないだろうし、家康の時代であれば伊達政宗を討つために東北に軍隊を派遣することだって十分考えられるわけです。そんなリスクをおかしてまで、政宗は幸村との男の約束を守り、子孫の代になってもそれを守り続け、幕末まで真田家が存続できたのだからすごいと思います。





※1 諸大名が、その江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩の留守居役との交際・連絡を担当。


※ 参考文献


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