history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 東北の歴史

今日は平泉の史跡について、いろいろお話します。平泉の中尊寺のことは前回の記事で取り上げましたので割愛します。

1 庭園が見事な毛越寺
岩手県平泉いわてけんひらいずみにある毛越寺もうつうじについて。毛越寺といえば、みごとなのが庭園です。僕も生でこの庭園が見れて、感激しました。

奥州藤原家おうしゅうふじわらけが理想とした極楽浄土ごくらくじょうどの風景を見た思いでした。毛越寺にはいくつもの伽藍がらん(※1)があったようですが、ほとんどの伽藍は火災などで無くなってしまったようです・・・・


毛越寺には、シカの伝説があるようです。


嘉祥かしょう3年(850)慈覚大師じかくだいしが東北に巡遊をしていたようです。慈覚が歩いているときに、あたりが白いきりおおわれたようです。あたりが真っ白で何も見えません。当然、慈覚大師はこまってしまいます。

それで、慈覚大師がなにげに足元を見てみると、地面に白い毛が落ちていたようです。しかも、その白い毛があちこちに落ちていたのです。その白い毛を大師がたどってみると、大師の前方に白いシカがうずくまっていたのです。大師がシカに近くづくと、シカはとつぜん消えてしまい、かわりに、おじいさんが現れたようです。

おじいさんは「この地にお寺を建てなさい」と大師に言い残しました。

大師は「あの人は薬師如来様やくしにょらいさま化身けしんにちがいない」と思い、お寺を建てました。そのお寺を嘉祥寺かしょうじと名づけました。この嘉祥寺かしょうじこそ、毛越寺の前身です。

嘉祥寺というお寺は毛越寺の境内けいだいにあったのですが、今はもう無くなっております。ちなみに、毛越寺の名前の由来は、大師がシカの毛をたどって山をこえた話が元になっているようですね。



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嘉祥寺跡かしょうじあとの説明板)
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嘉祥寺跡かしょうじあと
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講堂跡こうどうあと
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法華堂ほっけどうと旧・常行堂跡じょうぎょうどうあと
※ 他にも伽藍跡がいくつもあったのですが、写真をりそこなったためブログでご紹介しょうかいすることができませんでした。

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(毛越寺の本堂)


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(開山堂。毛越寺を開いた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)をまつる堂だそうです。藤原3代の画像も安置あんちしています。 )




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(いづれも常行堂の写真。江戸時代に仙台藩主せんだいはんしゅ・伊達吉村(だてよしむら)の武運長久ぶうんちょうきゅう(※2)を願って再建されたものだそうです。




2 無量光院跡むりょうこういんあとについて。

 調べによりますと、無量光院とは、藤原秀衡ふじわらのひでひらが京都にある宇治うじの平等院をまねして建立した寺院だったそうです。それが、たびたびの火災によって、無量光院も焼失しょうしつしてしまったそうです・・・

そのため今は、無量光院は残っておりません。いまは礎石そせき(※3)と池のあとが残っております。かつての無量光院は、無量光院は本物の平等院よりも大きい建物だったというからオドロキです。


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3 柳之御所
 柳之御所やなぎのごしょとは、奥州平泉おうしゅうひらいずみの政治の中心だったところです。

なんでも 藤原清衡ふじわらのきよひら豊田館とよだのたち(奥州市)から平泉に移ってきて居館きょかん(※4)をかまえた所であり、3代秀衡が再整備を行ったとか。

しかし、源頼朝みなもとのよりともが平泉にめてきたとき、藤原泰衡ふじわらのやすひらがみずから火を放ち、御所は燃えてしまったようです。

いま柳之御所跡は広い公園なっております。僕もおとずれたのですが、柳之御所は本当に広い敷地しきちだったんだなって感心しました。

柳之御所では発掘調査はっくつちょうさが行われ、おびただしい量の土器、木製の生活用具、金属製品、金塊きんかい陶磁器とうじきなど、貴重な遺物いぶつが見つかっておりますが、特に陶磁器は国産および中国産のものが多数、柳之御所跡から出土している点に僕は注目しております。これは奥州藤原氏が中国産の陶磁器を中国から輸入していること、さらに日本海海運と太平洋海運を介して、国産の陶磁器、たとえば、愛知県知多半島の常滑焼とこなめやき、熱海半島の渥美焼あつみやきなどを輸入していたのですね。

奥州藤原氏が東北を支配できたのはその経済力にありました。金や馬だけでなく、こうした海外も含めた交易もしていたのですね。

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※1 寺院または寺院の主要建物ぐん
※2 武人としての命運が長く続くこと。 また、出征した兵がいつまでも無事なこと
※3 礎(いしずえ)となる石のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える石のこと。
※4 住まいとしているやかた。

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1 奥会津に大蛇がいた

福島県の奥会津に、沼沢湖ぬまざわこという湖があります。この湖には昔大蛇がいたというのです!なんでも、この大蛇は髪の長さが2丈(約6メートル)もある若い美女に化けては、人を惑わせたり襲ったりし、近隣きんりんの村人たちから恐れられていたそうです。しかも、大蛇は鉄砲で撃たれても死ななかったともいわれるから怖いですね〜



さて、鎌倉時代になって、この大蛇を退治しようとする人が現れました。当時の領主・佐原義連さわら よしつらは、村人の恐れるこの大蛇を退治するため、家来50〜60人(12人という説もあり)を率いて船やイカダで沼に進みました。



義連たちが「おい!、大蛇よ出てこい!おれが退治してやる!」というと、空が黒くくもり雷までなったといいます。



そして湖の中から大入道があらわれました。大入道とは体の大きなバケモノです。義連たちは「こいつこそ大蛇の化身だ!」と立ち向かいました。けれど荒れ狂う波に船がゆれて自由に戦うことができません。そして義連たちは大入道もろとも、沼の底へとみ込まれてしまいました。



やがて荒波と共に、大蛇が苦しみつつ姿を現したのです。義連たちは家来たちもろとも大蛇に飲み込まれながらも、刀で大蛇の腹をりさいて脱出したのだのです。本来なら蛇の腹の中の猛毒で命を落とすはずだったのですが、義連のカブトにぬい付けられていた金の観音菩薩かんのんぼさつが蛇の毒から身をまもってくれたのです。



こうして大蛇は退治され、義連はその頭を斬り落として土に埋めました。その後も大蛇の怨念おんねんは地の底からはたを織るような音をさせたので、たたりをしずめるため、人々は神社を建てて大蛇をまつったといいます。実は僕もこの神社に訪れてました。けっこう不便なところにある神社なのに、神社の境内はキレイになっておりました。おそらく地元の方々がこの神社を大事にしているのだなって感心しました。また、そんな恐ろしい蛇をまつっている神社だからもっと不気味な感じのする神社かと思っていたのですが、訪れてみたらなんとも清らかな感じのする神社で、逆に僕は清々しました。





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2 原発と通じる問題

僕は会津から只見線ただみせんという電車に乗り、それからタクシーに乗って沼沢湖に行ったのですが、只見線の車窓から只見川という川が見えるのです。その景色が見事なんです。しかし、この川が平成23年(2011年)7月に氾濫はんらんをしたのですね。新潟・福島豪雨の影響ですね。



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ちょっと見づらいのですが写真の右はじに鉄橋が壊れている様子がわかります。これは震災によるものではありません。川の氾濫により鉄橋が流されてしまったのです。いくら只見川が氾濫したとはいえ、こんな高いところまで水がくるはずはありません。



一説にはダムの放水によって水かさがまして、鉄橋まで押し流すほどの洪水になってしまったとか。そうだとしたら人災でもありますね。調べによりますと、この只見川流域は日本でも指折りの豪雪地帯ごうせつちたいであるため水量が豊かであり、このため只見川は非常なエネルギーを隠し持っているいわれております。エネルギーをもっているからこそ、只見川はたびたび氾濫を起こしたのですね。



この只見川の持っているエネルギーを生かそうと、太平洋戦争後1951年(昭和26年)に国土総合開発法に基づく只見特定地域総合開発計画の対象地域に指定された後は電源開発がすすみました。水力発電により只見川のエネルギーを有効に活用できるようになりました。それから只見ダム、田子倉たごくらダムや奥只見ダム、大鳥ダムなどたくさんダムが作られていたのです。



しかし、そのダムがあったために余計被害が大きくなったのですね。普通、ダムというのは水力発電もそうですが、氾濫を防ぐためでもあるのですが、皮肉にも逆の結果になってしまったのですね・・・



新潟・福島豪雨は奇しくも東日本大震災の年に起きたために、大きな被害が出たにもかかわらず、あまり注目されなかったのですね。心の中ではダムさえなければと思っていても、困ったことに、これらのダム(を運営している電力会社)が税金を払うなど地元にお金を落としているのです。電力会社に出てけといいたくても追い出せないのが現状なのですね。その点は福島の原発とも通じるものがあります・・・



3 大蛇祭り 

沼沢湖で毎年行われる大蛇祭りの動画です。この祭りに出てくる大蛇は蛇というより竜、まるで竜神様のようです。昔は悪いことをしたかもしれないけれど、今は改心して地元の人たちを守る神様になったように僕には思えます。



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これは、福島県の二本松にある安達ケ原の岩屋です。この岩屋になんと人を食べるという鬼婆が住んでいたというから驚きです。この岩屋があるのが観世寺というお寺で、境内には鬼婆が出刃包丁を洗ったという血の池や鬼婆の石像などもあります。





僕がこの安達ケ原に住む鬼婆のことを知ったのは実は小学校の時です。小学校の時に読んだ『日本のミステリー』という怪奇や伝説が子供向けに書かれた本で、安達ケ原の鬼婆を知りました。僕も子供のころから、この岩屋に行きたいと願っておりました。けれど、なかなかその願いがかなわなかったのですが、昨年(2015年)に訪れることができました。長年の願いがかなったのですから、うれしかったですね。



どういうお話かというと、この鬼婆というのはもともと悪だったわけじゃなく、京都で公家の娘(姫)の乳母だったのです。乳母の名前は岩手といいました。しかし、この姫様が病気がちで、姫の病気をなおすには妊婦の生き肝を飲ますしかないと、ある祈祷師から言われたのです。





その姫の病気を治すために、乳母・岩手は東北まで行ったそうです。なにしろ新幹線も飛行機もなかった時代ですから、女一人で京都から東北まで長い道のりを何日もかけて歩いたのですから、大変な旅だったと思います。ちなみに岩手には幼い娘がいたのですが、娘を京において一人東北まで行ったのです。岩手は二本松に庵をかまえまして、若い妊婦を待ち構えていたのです。それも何年も。







そこへ、若い夫婦が岩手の庵にやってきたのです。嫁のほうが産気づいていたので、岩手はやったとおもったことでしょう。そして、岩手は快く若夫婦を庵に泊めました。夫が薬を求め外出をしたので、そのスキに若い妊婦を殺したのです。しかし、その岩手が殺した若い妊婦は、岩手の娘だったのです。



生き別れの娘を自らの手で殺してしまった岩手は気がくるってしまいました。それから岩手は鬼のような人間になり、庵に人を誘っては殺すようになったのです。





ある日、紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩木の庵に泊まりました。東光坊祐慶は岩木がニコニコ親切にもてなしたので、そんな恐ろしい女だとははじめは気づかなかったのです。







ところが、岩木が薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言い残して庵から出て行きました。けれど、見てはいけないといわれるとついつい見たくなるもの。祐慶がこっそり戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。びっくりした祐慶は、あの老婆こそ人を食い殺すこと鬼婆だと感付き、その庵から逃げ出したといいます。



祐慶が逃げたことに気づいた岩木は恐ろしい鬼婆の姿となってすごい速さで追いかけて来たのです。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えました。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたといいます。















そして、鬼婆は観音菩薩の功徳により成仏したといいます。その鬼婆のお墓がいまも残っており、黒塚とよばれております。



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※ 参考文献








福島県いわき市の富岡町と大熊町の境に「夜ノ森」という森林地帯があるようです。なんかRPGに出てきそうな地名のように僕には感じられるのですがw、この地名は神話がもとになっております。登場するのはタカミクラノミコトという神様です。





タカミクラノミコトは、伊勢の国にある津から地方の豪族を平定しながら日高見の国(蝦夷地。いまでいう関東・東北地方)に向かいました。長く苦しい旅路の末、関東に出てそこから海路で東北に向かったとされる。ミコトの船団は現在の南相馬市にあたる渋佐の浜に上陸。近隣各地で転戦をしたそうです。自分の土地を守ろうとする地元の豪族も強く抵抗し、ミコトの軍は豪族の軍に囲まれてしまい、絶体絶命のピンチに立たされます。そして、ついに毒矢にあたり、血を吐いて死んだといいます。それでもミコトの軍は奮戦し、豪族たちを打ち破りました。



しかし、ミコトの死が知らされると、豪族たちの士気があがり逆襲される恐れがあるため、急いで大きな塚をつくりミコトを弔ったといいます。



その塚がある場所はいつしか「いち夜の森」と呼ばれるようになりました。おそらく、一夜のうちにできた森(塚)と、いうのが由来かと思われます。



それが転じて「宵の森」、あるいは「夜の森」と呼ばれるようになったのでしょう。



現在、夜の森には「夜の森公園」という公園があり、そこは桜の名所としてしられ、JR夜ノ森駅はツツジの名所として名高いそうです。しかし、原発事故でこの地域は立ち入り禁止になりました。





その夜ノ森駅は2020年(令和2年)3月14日に、常磐線の富岡 - 浪江なみえ間の復旧に伴い営業再開しました。







(夜ノ森の桜)



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