history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(戦後)

このブログをご覧になられている方でパチンコがお好きな方はいらっしゃいますか。僕はパチンコはやりません。なぜなら、僕はものすごい凝り性で、一度パチンコをはじめたら、はまりまくって借金までしてしまいそうだから。僕も昔パチンコを一度だけやったのですが、玉がまったく入ってくれなくて、それで懲りてしまいました。

パチンコ屋さんといえば、僕は「軍艦マーチ」(正式名称は「軍艦行進曲」)を連想します。かつてはどのお店でも流されていた「軍艦マーチ」。最近はあまり聴かなくなりましたね。僕はてっきり「軍艦マーチ」はパチンコ屋さんのテーマソングだとばかり思っておりましたwそれで海上自衛隊のお偉いさんがパチンコ狂で、海上自衛隊でも「軍艦マーチ」を取り入れるようになったのかとばかり思っておりましたwww




で、冗談はさておき、パチンコ屋さんが「軍艦マーチ」を流すようになったのは戦後間もないころだそうです。そのころ有楽町にメトロというパチンコ屋さんがあったようです。そこの店長が店長は昔、マレー沖海戦で軍功を立てたという元海軍兵士だったそうです。店はGHQの本部に近いということもあって、GHQの関係者や米軍もお店によく来ていたようです。そんな状況の中でその店長は「軍艦マーチ」を流しました。

戦後間もないころの日本は旧日本軍を連想するもの、軍国主義的なものがことごとく弾圧された時代でした。たとえば「兵隊さんの汽車」という歌があったのですが、この歌は出征兵士を送る歌ということで、メロディーはそのままで歌詞はまるごと変えられてしまいました。そうして生まれた歌が「汽車ぽっぽ」です。

 
  



あの「紅白歌合戦」の前身である「紅白音楽試合」(昭和20年12月31日ラジオ放送)も番組名についてGHQからいちゃもんをつけられました。もともとこの番組は「紅白音楽合戦」という番組名でした。しかし、「合戦」というネーミングがよくないというので、GHQから文句をいわれ「合戦」ではなく「紅白音楽試合」と番組の名前を変えられたといいます。「紅白歌合戦」というネーミングが使えるようになったのは昭和26年だといいます。

おっと話がずいぶん脱線してしまいましたねw、旧海軍を連想させる「軍艦マーチ」を流したのですから、さぞこのパチンコ屋さんもGHQからお咎めがあったかと思われますが、意外とそんなことはなかったようです。むしろ、日本のおまわりさんのほうがハラハラしていたくらいだったそうです。

なぜ、このパチンコ屋さんの店長が「軍艦マーチ」を流したのでしょう?GHQに対する静かな抵抗という説もあるようですが、店の集客力をアップさせ売り上げを伸ばすためという説が有力なようです。

確かに軍艦マーチのリズムは勇ましくテンションがあがるし、この歌の2番の歌詞にある
彈(たま)撃(う)つ響(ひび)きは雷(いかづち)の〜」というくだりも、この軍艦マーチを流したポイントの一つだったのではないかと僕は考えております。パチンコの「玉を打つ」と軍艦マーチの「弾を撃つ」をかけたのかもしれません。

1 一生忘れらない三大ロマンス
 きょうはテレサ・テンさんの誕生日のようですね。そして、テレサさんがもしご存命なら今年で65歳になられるのですね。僕もウィキペディアでそのことを知りました。きょうはテレサさんのロマンスからお話しします。テレサさんは3名の男性とロマンスがありました。一人は、青年実業家、二人目は華僑の学生、そして三人目が財閥の御曹司(シンガポール華人)でした。とくに財閥の御曹司とは結婚まで考え、シンガポールに家を買ったほど。けれど、御曹司の家族が男尊女卑だったこともあり破談になりました。

「わたしは歌が好きですけれど、向こうの家族は仕事をやめてほしいと要求してきました。家柄もよくないといわれたんです」とテレサさんは語ったそうです。破談はテレサさんに深い悲しみを与えました。しかし、失うものがあれば得るものはある。こうした悲しい経験は、テレサさんの歌手人生においてはプラスに働くのですね・・・あまり、こんなことは思いたくないのですが。でも、たしかにテレサさんの歌はこういう経験がないと歌えないと思います。技術的にはテレサさんの歌をうまく歌うことができても、それだけ。テレサさんが歌うと泣けるけれど、ほかの人が歌うと「うまいね」で終わってしまうことも少なくありません。

でも、テレサさんに限らず大歌手はプライベートではつらい経験をした人が多いのですね。島倉千代子さんなんて、不幸不幸の連続だったし、宇多田ヒカルさんもお母様をなくされたり、色々つらい経験をされ、それを乗り越えた今のほうが(若い時より)僕は好きですね。もちろん、プライベートも大変充実した歌手の方ももたくさんいらっしゃることも言うまでもありません。

2 「つぐない」 「愛人」
 失意の中テレサさんは三木たかしさん、荒木とよひささんに出会います。このお二人との出会いがテレサさんの歌手人生を大きく変えます。1984年1月に「つぐない」がリリースされます。作詞が荒木とよひささん、作曲が三木たかしさんです。しかし、発売して一週間で売れたのはたったの10枚。五週間たってもわずか50枚だけ。この曲がリリースされて1か月にテレサさんは再来日します。テレサさんが日本にきたのはパスポート事件以来5年ぶりです。(「つぐない」のレコードは日本ではなくシンガポールのスタジオで収録されたのですね。)

テレサさんは日本に来るなり、パスポート事件のことを謝罪し、会見がおわったところでミニライブが開かれ、「つぐない」が披露されました。それから「つぐない」が有線放送でどんどん順位をあげ、大ヒットにつながります。そして、この曲は有線大賞を受賞します。

そして翌年の1985年は荒木、三木のコンビで「愛人」が大ヒット。前年に続き有線大賞を受賞。そして、テレサさんはこの曲で紅白に初出場。まるで楊貴妃のような衣装でこの「愛人」を歌いあげました。 

しかし、テレサさんはこの「愛人」の歌詞にはじめは納得しなかったようです。「どうして私がこんな歌を歌わなければいけないんですか。悪いことをそそのかす女のひとの歌」とテレサさんはおっしゃったそうです。それもそのはず「愛人」は不倫がテーマの曲ですからね。しかし、仕事だから歌わないわけにはいけない。テレサさんは中国語で意味する「愛する人」について歌うのだと自分を納得させ、純粋な気持ちで歌うことにしました。歌詞に不満があったけれど、語尾に気持ちを表現することで切なさを伝える独特な歌唱法は、ここでも優れた冴えを見せました。


3 「時の流れに身をまかせ」 「別れの予感」

 1986年には「時の流れに身をまかせ」をリリース。やはり荒木、三木コンビによる名曲です。この曲で3年連続有線大賞受賞、レコード大賞も受賞、この年の紅白にも出場されました。「時の流れ」は徳永英明さんら色々な方がカヴァーされており、今でもカラオケで上位に上がるほどの素晴らしい曲です。僕もときどきカラオケで歌いますよ。テレサさんみたいには歌えないけれどw

翌年の1987年には「別れの予感」が大ヒット。しかし、この年の紅白は落選してしまうのですね。この年の紅白はオペラだとかシャンソンだとか、そういう歌手を出す一方で、流行歌手や人気歌手の何人かがあおりを受けたのですね。僕はこの年の紅白こそテレサさんを出すべきだと思ましたね。テレサさんが若くして亡くなったことを考えると、なおさら当時のNHKの上層部の判断は間違っていたと僕は思います。そういえば、このころから紅白の視聴率が落ち始めましたからね。

ちなみにテレサさんが紅白に再出場したのが1991年です。この年には「時の流れに身をまかせ」を歌いました。しかし、それ以降テレサさんは紅白に出ておりません。テレサさんは生涯三回しか紅白に出場しておりません。なぜでしょう?「長い時間拘束されるのが嫌」とか「演歌歌手と共演するのが嫌だ」「ギャラが安すぎ」みたいな理由で辞退したからではありません。むしろ、彼女は紅白に出たかったそうです。しかし、様々な事情があって紅白に出ることはかならず、1995年に亡くなってしまうのです。本当に惜しいなあ。紅白で「別れの予感」や「香港」(次回以降にこの歌のお話を取り上げます)が歌われなかったのは本当に残念で仕方がありません。

※ 参考文献


これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01

1 日本デビュー
 テレサ・テンさんは台湾でも実力があったので、日本でデビューさせたいと考える音楽会社は何社もありました。テレサさんは1974年に日本デビューしたものの、当時はアグネス・チャンさんだとか、オーヤン・フィーフィーさんらの活躍の影になりほとんど注目を浴びませんでした。一枚目にだしたシングルもまったく売れません。音楽会社の関係者の人たちは「はじめはこんなもんだよ」とテレサさんを励ましたのですが、テレサさん本人の気は晴れません。

また、テレサさんは慣れない日本の生活で戸惑いも多くありました。台湾や香港では美空ひばりさん並みの歌手として扱われていたのに、日本では新人という扱いでしかありません。新曲キャンペーンのために地方回しもしなければいけないし、音楽番組に出ても楽屋は個室が与えられず、ほかの歌手と相部屋でした。アグネス・チャンさんには個室の楽屋が与えられたのに。

しかし、テレサさんにとって一番の悩みは言葉の壁でした。たとえば「わたしは」も「わだしは」になるなど、なかなか習熟することができません。それがつらく、なんども台湾に帰りたいと母親に訴えたそうです。しかし、テレサさんが日本で歌手として成功するには越えなければいけない壁でした。

2 「空港」のヒット
 そんなテレサさんに転機がおとずれました。二曲目にだした「空港」がヒットしたのです。20代のOLをターゲットにしたのですが、この曲は40歳代の男性の心も捕らえました。この曲がヒットしてからテレサさんはだんだん忙しくなりテレビにも出るようにもなったのですが、クラブやキャバレーなどの営業もひと月に4、5回こなしたといいます。

テレサさんは「酔っ払いの前で歌いたくない」と泣くこともしばしばでした。テレサさんは台湾でもクラブで歌っていたから、そうした場の雰囲気には慣れていたのですが、日本と台湾では客の対応が違うようです。一緒に踊れとか、デュエットをしろと言われるのはもちろん、ひどいときは「脱げ」なんて言われたことも。それからテレサさんはだんだんクラブなどでは歌わなくなりました。

クラブの仕事をしなくなりましたが、テレサさんには次々と仕事が舞い込み、テレビ・ラジオ・地方公演と忙しい日々が続き、月に一日しか休みがとれなかったといいます。テレサさんに限らず芸能人は本当に大変だと思います。本当に歌とか演技をすることが好きじゃないとやっていけない仕事だと思います。

3 偽装パスポート事件
 順風満帆でいくかと思われたテレサさんですが、ここで事件が起こります。人生塞翁さいおうが馬といいますが、いいことばかり続かないのですね・・。シンガポールなどで公演していたテレサさんが、パスポートを偽装したという嫌疑で、東京入国管理事務所によって収監されてしまったのです。それは1979年の出来事です。

テレサさんは本来の台湾のパスポートではなくインドネシア発行のパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受けたのです。当時、1972年の日中国交正常化の影響で日本は台湾とは国交を断絶していました。そのため、台湾のパスポートでは日本に入国の際に非常に煩雑な手続きが必要でした。日本は1972年にいまの中国(中華人民共和国)と国交を結びましたが、そのとき台湾との国交を断絶してしまったのですね。

そんな煩雑な手続きを避けようとしてテレサさんはひそかにインドネシアのパスポートを入手して使ったのです。そこで彼女はインドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していました。これはテレサさんだけでなく当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを持っていたそうです。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかったのです。

そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となりました。この事件で日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求しました。「テレサを返せ」といわんばかりに。しかし当時テレサさんのプロデューサーが「要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろう」と考え、彼女をアメリカに渡らせることにしました。日本と台湾の政治的事情が、テレサさんの芸能活動にも支障をもたらしたのですね・・・

アメリカで暮らしたテレサさんが再び日本の土を踏むことになります。その辺のお話はまた次回に。

※ 参考文献 


これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01



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