history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(戦後)


1 長崎の鐘と永井隆

 今日は藤山一郎さんがお歌いになった「長崎の鐘」。長崎に落とされた原爆の悲劇と、平和への祈りがこもった名曲です。昭和24年にこの曲は発表されました。作詞はサトウハチロー。作曲は古関裕而です。本当はこのエントリーを8月9日に書きたかったのですが、あの日は暑さのあまりに体調を崩してしまってブログを書けなかったのですね。「長崎の鐘」の鐘とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のことです。 この歌は、永井隆の著書「長崎の鐘」がベースになっております。永井隆は小説家でも随筆家でもなく、医師です。被爆して重傷を負いながらも、献身的に被害者の救護活動を行った人物です。



2 永井隆のおいたち
明治41年(1908年)に島根県の松江で生まれました。中学校時代は5年生に級長となり、当時摂政宮だった昭和天皇を全校生徒の先頭に立って迎えたそうです。ところが、運動は苦手で運動会の競争はいつもビリから二番目だったと回想しています。僕もそうだったなあ、運動が苦手で、走るのもいつもビリだったっけ。

松江高等学校を卒業後、長崎医科大学(いまの長崎大学医学部の前身)入学しました。永井は、運動オンチだったのですが、体格がよかったこともありバスケ部に誘われました。彼はメモ書きを怠らない熱心さで、、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献したといいます。熱心やれば、僕もスポーツができるようになるのかなw?スポーツに限らず何事も一生懸命やることが大事なのですね。

昭和7年(1932年)卒業し、永井は助手となりました。昭和8年に見習医官となり、満州事変に従軍しました。昭和9年長崎医科大学物理的療法科副手。同年6月に受洗(※1)をしました。パウロという霊名(※2)をいただいたそうです。永井隆はクリスチャンだったのですね。そして結婚をしました。それから、妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会(ヴィンセンシオ会)に入会しました。無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行くのです。

昭和12年には陸軍軍医中尉し、日中戦争にも動員されました。。

昭和15年に長崎医科大学助教授、物理的療法科部長とエリートコースを進みましたが、何しろ当時は戦争真っただ中。この頃は「この戦争は是非勝たなければいけない。日本国のために、陛下のために。」と口癖のように言い、地域の婦人部の竹槍を指導したり、きもだめしと称して血の付いたガーゼを暗くした部屋に散らし、ガイコツを置いたりして地域の婦人部屋の端から出口まで通らせることもしたとか。

3 被爆した永井。そして「長崎の鐘」
そんな永井も昭和20年の8月9日に被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで負傷者の救護活動にあたりました。永井がこの爆弾が原子爆弾だと知ったのは、原爆投下の翌日にまかれたアメリカのビラでした。


’永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった。


そんな永井にも原子病の症状が現われ、傷がさらにひどくなり高熱が続き昏睡状態に陥ったといいます。薄れる意識の中で

「光りつつ 秋空高く 消えにけり」


と詠んだそうです。

昭和21年にはれて長崎医科大学の教授となりますが、長崎駅ちかくで倒れ、以来病床についたといいます。昭和23年に二畳の庵に二人のお子さんとともに暮らしました。その庵の名前を如己堂にょこどうといいます。「己の如く人を愛せよ」の言葉からとったそうです。昭和23年にはヘレンケラーが永井のもとを訪れたといいます。昭和24年に、永井が書いたのが『長崎の鐘』です。そして、同じ年の5月に永井は昭和天皇から見舞いのお言葉を賜ったといいます。そして同年12月には長崎市名誉市民に選ばれました。また、昭和24年は「長崎の鐘」の歌ができた年でもあります。昭和25年には『長崎の鐘』が映画化。しかし、永井隆は昭和26年5月1日に亡くなりました。

4 福島の原発と長崎の鐘
 広島と長崎に原爆が落とされ、人類は核兵器の恐ろしさを知りました。しかし、それにもかかわらず、終戦後も米ソを中心に核兵器開発が続いております。ちょくちょくと核兵器を減らす話し合いがおこなわれたり、条約も何度か結ばれたりしたのですが、核兵器が地上から消えるのはいつの日になることやら。また、核兵器とはいいいませんが、先の東日本大震災で原発事故がおこり、改めて核エネルギーとどう向き合っていくか、それとも原発を完全になくすべきか問われております。僕も永井隆の「長崎の鐘」をよませてもらいました。この本の最後のほうにでてくる内容がとても印象に残ったので引用させていただきます。


「人類は大昔から石器時代、銅器時代、鉄器時代、石炭時代、石油時代、電気時代、電波時代と進歩してきて、今年から原子時代に入ったんだ」(中略)

人類は原子時代に入って幸福になるのだろうか?それとも悲惨になるのであろうか?神が宇宙に隠していた原子力という宝剣をかぎわけ、探し出し、ついに手に入れた人類がこの諸刃もろはの剣をふるっていかなる舞を舞わんとするか?善用すれば人類文明の飛躍的進歩となり、悪用すれば地球を破滅せしめる。(中略)人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅そんめつの鍵を所持することになったのだ。思いをここにいたせば、まことにりつ然たるものがあり、正しき宗教以外にはこの鍵をよく保管し得るものはないという気がする。
『長崎の鐘』P184〜185



※ おまけ


僕も修学旅行で長崎に行ったことがあります。いいところですよ。本場のちゃんぽんもおいしいです。また、平和についても考えさせられるところです。






※1 キリスト教で洗礼をうけること。
※2 洗礼名 クリスチャンネーム

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「喜びも悲しみも幾年月」という映画があります。福島県いわき市の塩や岬にある東大じゃなかったw灯台が舞台で、海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマです。

1956年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績(いさお)さんの妻・きよさんの手記から題材を得て、木下恵介監督自身が脚本を執筆しました。全編にわたりカラー映像で撮影され、単なるホームドラマの枠を超えて日本各地の美しく厳しい風景を活写した大作で、公開当時大ヒット作となり、同年の芸術祭賞を受賞しました。この映画の主題歌を歌われたのが若山彰さん。バリトンの素晴らしい歌声の持ち主です。この歌を作詞・作曲されたのが木下忠司さん。木下恵介監督の弟さんで、兄の映画であるこの「喜びも悲しみも幾年月」の劇中曲も作曲されました。木下忠司さんは、今年(2018年)の4月に亡くなったそうです。享年102歳だったそうです。


塩屋岬の灯台は明治32年につくられました。それ以降灯台では田中さんご夫妻のような灯台守が、嵐だろうが何だろうが、灯台に明かりをともし、海の安全を守ってきたのですね。今は灯台も自動化され、灯台守という職業はなくなったそうです。

塩屋岬の灯台および、塩屋岬一帯は先の震災で津波の被害をうけました。僕も去年塩屋岬に訪れました。こんな穏やかな海が、あの3・11の時に荒れ狂い多くの人々の命を奪ったのかと信じられないくらいでした。灯台の近くにはお土産屋さんがあり、そこには震災当時の写真も展示されておりました。おびただしい被害の様子がうつっておりました。僕はもともと海が好きだったのですが、海が一瞬嫌いにもなりました。



「夏の思い出」は日本の唱歌のひとつで、音楽の教科書でも習う名曲です。この歌に出てくる尾瀬は、福島・新潟・群馬の三つの県にわたる盆地状の高原で、湿原にはミズバショウやミズゴケなど貴重な植物が見られます。この尾瀬のほぼ全域が国立公園特別保護地域および特別天然記念物に指定されております。

さきほど唱歌といいましたが、この曲ができたのは戦後です。昭和24年、NHKの「ラジオ歌謡」という番組のためにつくられました。この曲がラジオでながれると、この曲はたちまち多くの日本人の心をつかんだといいます。この歌は夏になるとミズバショウが咲いてると詩に書かれておりますが、実際、尾瀬のミズバショウが咲くのは5月〜6月の開花。ちょうど今が見ごろですね。

これは、この曲を作詞した江間章子さん子供時代にすごした岩手では夏にミズバショウが咲いたのです。そうした記憶のずれが、この曲の歌詞がうまれたのです。

一方作曲をしたのが中田喜直さん。「ちいさい秋みつけた」や「雪の降るまちを」を作曲するなど、日本の四季を題材にした曲を多数つくられました。

尾瀬は、この曲が生まれるまでは、それほど有名なところではなかったのですが、この曲ができてから大勢の観光客が訪れるようになり、昭和30年代までは尾瀬の環境破壊が問題になりました。折からの車社会の到来で林道が峠まで延び、入山者が増えて、湿原が踏み荒らされたり、いろいろ問題がでてきたのです。車道も作ろうという動きがあったのですが、昭和46年に「尾瀬の自然を守る会」が発足。昭和46年8月には、車道工事の中止が国会の閣議で了承されました。いまでも尾瀬ではほぼ全域にわたって現在のように木道がさえ整備されるようになり、 木道以外の場所は歩けないようになりました。

僕は尾瀬には一度も訪れたことがありません。ある人から聞いたのですが、尾瀬は高原地域で5月になっても雪が残っているそうです。それくらい寒いところなのでしょうね。10月中頃〜5月初頭の雪深い冬季の尾瀬への入山は中上級者に限られます。

※ 参考文献



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