history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 昭和

菅総理が、自民党の総裁選に出馬しないことで、次の自民党の総裁が誰になるか注目をされております。もうすぐ解散になるのではないかってウワサもあるようですが、いづれにせよ今年で衆院は任期満了になるので、どっちみち今年選挙になります。与党が議席を伸ばすか、それとも野党が伸ばすか。

選挙といえば、戦前は2大政党制で、保守系の民政党と政友会の争いでしたが、その中で無産政党も一定の支持を集めたのですね。

働いてている人の利害を代弁してくれる政党が無産政党です。日本で無産政党と言えば戦前の社会大衆党がそうでした。実は社会大衆党という政党が誕生する前にも労農党とか戦前の無産政党は、いくつもあったのですが、無産政党が離合集散リゴウシュウシュウサン(※1)を繰り返し、ややこしいのですね。今で言えば旧民主党が無くなってから、生活の党だとか、立憲民主党とか国民民主党とかややこしいですが、それと同じようなものですね。

無産政党の選挙の結果ですが、1928年2月20日は無産政党は8議席でした。ところが、2年後の1930年(昭和5)年2月の総選挙では、無産政党は5議席に減らすのですね。

普通選挙になり、労働者や農民でも(男性であれば)投票ができたのですが、労働者や農民の利害を代弁しているはずの無産政党が苦戦をしたのですね。彼らの多くは、無産政党ではなく、資本家や地主の政党である政友会や民政党に投票したのですね。無産政党に魅力を感じなかったのでしょう。

そうかと思うと、1936年に36年の総選挙では、ファッショ化の危機感のなかで無産政党は22議席を獲得したのですね。日本の右傾化に歯止めをかけて欲しいと無産政党に期待をかけたのですね。しかし、日中戦争以降、日本の無産政党の代表格の社会大衆党は軍部に接近するのですね。社会大衆党はやがて大政翼賛会に吸収されてしまいます。労働者の利害を代弁する無産政党が軍部に味方するのも変な話ですが、今まで左翼だったのが、突然に右翼や保守になる話は戦前からよくある話なんですね。実際、共産党員だった人が右翼に転向したケースはありました。

社会大衆党は、ファッショ化を防ぐどころか、ますますファッショ化を強めたのですね。保守系の政治家でさえ懐疑的に思った法案でさえ、あっさり賛成。斎藤隆夫(たかお)代議士除名問題で除名も当然社会大衆党は賛成。しかし、これには党内にも疑問の声が上がったのです。それで、社会大衆党の幹部は、斎藤隆夫除名に反対する安部委員長ら旧社民系代議士7名と水谷長三郎(みずたにちょうざぶろう)を党から除名したのですね。委員長でさえクビになるのだから押してしるべし。

さらに社会大衆党は同年7月6日近衛新体制運動に参加するため他の政党に先駆けて解党し、大政翼賛会に合流したのですね。

社会大衆党は旧社会党の前身の政党で、旧社会党でも、「平和を訴えるのなら戦争の総括をしよう」という意見もあったのですが、社会党の幹部が結構戦争に協力したこともあって、それもたち消えになったとか。実際、社会大衆党から社会党に行った議員で戦時中は戦争マンセーだったのに、戦後はコロリと変わって、「私ははじめから戦争に反対していた」と鮫島伝次郎のようなヤツもいました。

しかし、社会党の議員が皆が皆戦争責任から目を背けた訳ではないのです。

社会大衆党にいた河上丈太郎も戦争協力のことが問題になり公職追放になりました。そして、河上は公職追放が解除され、戦後の選挙に出馬した際、このように述べたと言います。

「私は長い追放生活を終えて、ようやくこうして諸君と相まみえることができるようになった。私の公職追放は、私がある団体に関与していたからである。私の真情をいえば、必ずしも進んでその団体に参加したわけではないが、今は多くを弁解しない。諸君の中に、私の戦時中の行動に批判を抱く人がいたら、どうか選挙を通じて厳正な批判を下していただきたい。また、この河上を許してくれる人は、河上一個人のためでなく日本社会党の前進のために御協力いただきたい」と演説して、自らの戦争責任を謝罪したそうです。

この選挙では、公職追放を解除された政治家が多く立候補したが、自らの戦争責任を認めたのは河上ただ一人であったと言われています。かっこいいですね。こういう人こそ選挙に出てきてほしいですね。



※1 離れ離れになったり、集まって再会したりすること。くっついたり離れたりすること。

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1 ドラえもんを見た違和感
アニメ版の「ドラえもん」(テレ朝)が始まったのは1979年(昭和54)です。日テレでも「ドラえもん」は1973年(昭和48)にアニメ化されたのですが、あいにく僕はまだ生まれていないし、大山ドラ世代なので、そちらの方は見たことがありませんし、ようつべでチラッと見た程度なので、日テレ版ドラえもんを多くは語れません。確かドラえもんの役を富田耕生さんが演じられていたのですね。当時のスタッフは、ドラえもんというキャラクターに友達ではなく、「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていたようですね。あと途中トチュウで富田さんから野沢雅子さんにバトンタッチされたようですね。

ここからが本題なのですが、最近CSで大山ドラ時代の「ドラえもん」が再放送しているのですね。それも1979年ないし1980年代初頭の「ドラえもん」です。わさドラに変わってはや15年以上経っていますし、ようつべで大山ドラの動画があってもすぐ消されるので、もう大山ドラを見るにはビデオ屋さんに行くしかないのかって思っていただけに、驚いています。ジャイアンのたてかべ和也さんやスネ夫の肝付兼太さんと言ったメインメンバーが鬼籍キセキに入ったこともあり、ますます見たくなったのですね。

久々に見させてもらいましたが、衝撃ショウゲキを受けましたね。声優陣は大山のぶ代さん以下おなじみのメンバーなのですが,ある意味、わさドラを初めて見た時よりも違和感を感じましたね。

例えば、しずかちゃんがドラえもんのことを「ドラえもん」って呼び捨てしているのですね。僕は物心ついた時から、しずかちゃんは「ドラちゃん」っていうものだとばかり思っていたし、わさドラでさえ、しずかちゃんは「ドラちゃん」ですからね。あと、のび太を「のび太さん」ではなく「のび太くん」ってしずかちゃんが呼んでいるのですね。

こうした違いは原作でも見られます。原作ではドラえもんはのび太のことを呼び捨てですし、しずかちゃんのことは皆「しずちゃん」って呼ばれています。

また、セリフも結構過激で、「殺す」とか「頭がおかしい」とか言葉もポンポン出てくるのですね。僕は思わず笑ってしまいました。原作の「ドラえもん」も結構辛辣シンラツな言葉が出てきますから、そういう意味では原作通りなのですが。原作はともかく、アニメ版の「ドラえもん」といえば、汚い言葉が出てこないイメージがあったので、驚きました。というか、僕がリアルタイムで見た時は、あまりに小さかったので、忘れていただけかもしれない。

のび太のママは怖いママだという印象がありますが、改めてみるとヒステリックに怒るだけで、あんまりいいお母さんじゃないなって。成績が悪いんだったら、頭越しに怒らないで、一緒に勉強を見てあげたほうが、お互いのためだと思う。

勉強しろといっておいて、自分はテレビみて、せんべえ食ってたら説得力ないですね。美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」では、かあちゃんが男に混じって懸命に働いている姿をみて、子供は、必死に勉強して、大学をでて、エンジニアになったのですよ?百の説教より、親の姿勢ですね。「ヨイトマケの唄」聴かせてあげたいですね。のびママに。


そして何よりも、ジャイアンとスネ夫にいじめられているのをママは知らないのかって思いましたね。のび太がジャイアンとスネ夫にボロボロにされ傷だらけになったのに、のび太が帰ってきたら、心配するよりも、帰りが遅いとがみがみ怒るばかり。これじゃあ、のび太がママに心を許さないなって。普通親がそこまでいじめられたら、心配するし、学校にもいうでしょ。また、のび太がせっかく貯金してためたゲーム機をあっさりジャイアンにとられても、無視するなんて。こんなの普通だったら親が怒ってジャイアンの家へ押しかけ取り返しに行くでしょ、普通の親なら。

また、のび太は夜更かしをしていないのに、学校でも寝たり、家に帰ったら昼寝。これは、怠けているというより、そもそも体の調子がよくないのではないかって、これは一度医者に見せたほうがいいと、少なくとも僕の母なら思いますね。

まあ、漫画なら仕方がないな。藤子・F・不二雄先生は高度成長期の教育ママをモデルにして、のび太のママを描いたそうです。あの時代は、いい学校、いい会社に入れば絶対幸せになれるって神話が信じられていた時代でしたからね。昔はいい大学に入っていれば、それだけで一流企業に入れた時代でしたからね。昔の日本は、政治の世界では田中角栄、実業界では松下幸之助のような一流の人間がいて、彼らの言うことを黙って従っていればよかった。コクドの堤義明さんなんて「頭の良い奴はいらない。大事なことはすべて俺が決める」とうそぶくほどでしたから。堤さんのいう頭の良いとは勉強のできる人という意味ではなく地頭の良すぎて上司に反発する人間のことです。

で、落ちこぼれは我が子でも冷たくされたのです。だから、家庭内暴力が社会問題になったんですね。あの時代戸○ヨ○トス○ー○が注目されました。あの学校がモデルの「スパルタの海」見たけれど、親も悪いなって。散々冷たくしておいて、子供が言うこと聞かなくなったら、高いお金払って、預けっぱなし。

まあ、そんなのびママも、時には優しい面も見せるので、やはり親だなっておもうこともあります。のび太が帰りが遅くなった時は、うんと叱った後におにぎりをつくってくれたり。時には慰めてくれたり。

ちなみに、最近のわさドラにでてくる、のび太のママはそんなに叱らないんですよね。今の時代の風潮か。

のび太の先生のほうは、完全に成績至上主義。良い成績の生徒は贔屓するが、成績が悪い生徒にはダメ人間扱い。のび太の先生はなにかと学校の成績だけがその子の運命を決めるいうけれど、それって本当に正しいの?そりゃ良い成績をとって、いい大学に行き、国家の官僚になったり、政治家になれば万々歳ですよ。勉強が大事なのは百も承知。学生は勉強することが仕事ですからね。でも、のび太の先生、勉強勉強で、青春期という大事な時期に他社とのかかわり方も満足に学べず、激しい競争社会で、他者への思いやりを忘れた者が、官僚や政治家になって不祥事を起こしたり、汚職をやったりしてますが、どう思いますか。オウム真理教の信者だって成績が悪い子どころか、むしろエリートが多かったのですよ?

のび太の先生が一番ダメというか悪いところは、のび太がいじめられていることに無関心なのですよね。ジャイアンって映画ではいい奴だけれども、買ってきたばかりのバットで試しに殴らせろとかいったり、人のものを無理やり取り上げて「永久に借りておくだけだぞ!」ってうそぶくような奴ですよ?そんなのをきちんと叱らず、のび太ばかり叱るのは非常に良くないなって。ジャイアンをしかるのも成績が悪いとか、そんなのばっかり。たまに、のび太の先生もよい事もいうし、決して悪い先生ではないのですが。

でも、のび太の先生は「キテレツ大百科」にでてくる佐々木先生にはかないませんね。佐々木先生は厳しいけれど、生徒思いだし、絶対えこひいきしない。「キテレツ」に出てくるガキ大将にブタゴリラというのがでてくるのですが、ブタゴリラがいたずらをしたらきちんと叱るし。いじめなんてしようもなら激怒すると思いますよ、佐々木先生は。


まあ、昔は結構多かったのですよね、のび太の先生みたいな人。今でこそ個性が大事って言われてますが、昔は理不尽な体罰もあったし。いわゆる管理教育の時代。そのアンチテーゼとして、「金八先生」とか「熱中時代」、さらには「僕らの7日間戦争」といったドラマや小説がうまれ、いきすぎた成績至上主義や管理教育への反発から校内暴力へと繋がったのですよね。また、尾崎豊さんが「15の夜」や「卒業」といった名曲を生み出したのも、こんな教師たちへの反発が背景にあるのですね。


で、ジャイアンもスネ夫も今見ると結構理不尽ないじめをしているし。実は、1980年代はいじめが社会問題になりまして、自殺も問題になったし、今の若い子は知っているかな?葬式ごっこなんてありまして、その事件は1986年におこった事件で、男子生徒が日常的に暴行を受けるまでになり、さらに、そのいじめグループらの主催によって学校でその男子生徒の「葬式ごっこ」が開かれることとなったのです。その「葬式ごっこ」にはなんと担任教師ら4人が加担し、寄せ書きを添えていたといういうから本当に呆れた話です。

ママは教育ママだし、先生は成績至上主義、ジャイアンとスネ夫は理不尽ないじめをするし、のび太はドラえもんがいるから救いがあるのだなってつくづく思いますね。


僕もいじめに苦しめられたから、ドラえもんのいじめの描写は見てて辛かった。また幸い僕の担任の先生はいじめ問題に熱心な先生が多かったから本当にラッキーだったと、ドラえもんみる度におもいます。いじめって本人もしっかりしなきゃいけないけれど、先生が真面目に取り組まないとなくならないですよ。


藤子先生は、ドラえもんを通していじめや学校の問題などの風刺も描いていたのだなあって。

もっとも、最近のわさドラはソフトな感じになって、ジャイアンも昔ほどのび太をいじめないのですね。昔はのび太みたいなタイプは落第生でダメ人間のレッテルしかはられませんでしたが、最近は割とのび太の優しさとか、そういった面が再評価されていることもあるのかな。

また、子供のころは落ちこぼれだったのに、社会的な成功をおさめている実業家や有名人は少なくないし、むしろ自分の得意な分野を伸ばして成功した人も多いです。かのスティーブ・ジョブズも子供のころは変わり者で、いじめられっ子だったそうですし。のび太もどちらかというと、一芸を伸ばせばすごく成長しそうなタイプだし。


のび太は勉強はダメだが地頭は良いと思う。ドラえもんの道具をいたずらのために悪用する知恵はなかなかのもの。良い方向へ伸ばせば大化けするかもしれない。そういう意味でも、のび太に光が当たり始めたのかもしれない。

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1 ホラ吹きと呼ばれた今村明恒イマムラアキツネ
 以前に「歴史秘話ヒストリア」でという今村明恒イマムラアキツネ人物の事を取り上げていました。彼は、1923年(大正12)の関東大震災カントウダイシンサイの予測を何と18年も前から予測したというからオロドキです。もちろん、当てずっぽうに予測したのではなく、過去の統計トウケイに基づいて地震の予測をしたのです。。

今村は、1870年、鹿児島県鹿児島市に生まれました。1891年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となります。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えたそうです。

1896年(明治29)に起きた明治三陸地震メイジサンリクジシン発生を期に、今村は津波は海底の地殻変動チカクヘンドウを原因とする説を提唱テイショウしました。さらに今村は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事を雑誌に掲載ケイサイしました。

ところが、この記事はマスコミによってセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。この記事を真に受けた人びとはパニくってしまったのです。彼の上司であった大森房吉オオモリフサキチらから「今村は世の中を混乱させている。今村の説はデタラメ」として攻撃。「ホラ吹きの今村」と中傷チュウショウされてしまったのです。

ヒドイヨねえ。上司なんだから、部下の事をカバいなさいヨwと言いたいところですが、大森もやはり責任を感じていたのでしょう。自分の部下が世の中を混乱コンランさせたことに対して。混乱コンラン収拾シュウシュウさせるには今村を悪者にするしか方法はなかったのです。

結局、今村はほら吹きと呼ばれ、辛い思いをしたのですね。この今村の回の「歴史秘話ヒストリア」を放送をしていた時、ツイッターをのぞいてみたら、「ヒストリア」を見ていた人たちが「マスコミが悪い」とツイートしていたっけwあと、「学会(学者達)は今も昔もよくないね」とツイートしていた人もいたっけ。

2 地震の神様になった今村明恒
 しかし、1923年に関東地震(関東大震災)が発生。今村の忠告が現実のものとなりました。これといった地震の対策をしなかった事もあり、被害は拡大。おびただしい数の犠牲者ギセイシャが出た。

今村はたちまち「地震の神様」とよばれ、人びとから尊敬をされるようになりました。自説の正しさを訴え続けた貝じゃなかったw甲斐カイがあったというもの。でも、今村本人は複雑な気持ちだったと思います。結果的に地震から人びとを救う事が出来ず、多くの犠牲者ギセイシャを出すことになったのだから・・・

雑誌にも「地震の神様のコラム」が大人気となり、このコラムがらないとクレームが来るほど。公演の依頼も殺到サットウしました。

また、東京の復興フッコウにもいろいろと提言をしました。広い道路をつくったり、隅田川スミダガワ立派リッパな橋もかけたりした。1911年に今村式強震計イマムラシキキョウシンケイを開発しました。

3 次は南海に地震がくる
1923年に亡くなった大森教授の後を継いで地震学講座の教授に昇進。次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために、1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を設立。設立費用はなんと今村の自腹じばら。地震から人びとを救いたいという思いで、身銭ミゼニを切ったのだ。出来る事じゃありません。

また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書にのせてほしいと訴えました。

しかし、満州事変以降、日本は戦争一色。今村の事を人びとは忘れ去られるようになりました。戦中も大きな地震が起き、莫大バクダイな被害があったが、その時の政府もマスコミもほとんど黙認モクニン。「地震の復興よりも、お国のために戦え」というのが政府の方針でしたから。

今村の予測どおり、戦後間もない1946年に南海地震が発生しました。そして多くの犠牲者を出してしまった。今村は「またしても人びとを地震から救い出すことが出来なかった」と自責の念にかられたそうです。しかし、昭和の南海地震のとき、今村の言葉を信じて助かった人が今村に感謝の手紙を送ったそうです。


※ 参考サイト等
ウィキペディア
歴史秘話ヒストリア

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噺家たちの戦争協力は国策落語だけではありません。軍の慰問にいったり、実際に戦地にも赴いたのです。柳家小さんさんや、前回の記事にもでてきた柳家金語楼さんもそうでした。

寄席も空襲で燃やされたり、兵役に噺家(おもに若手)が取られたりして、戦時中の噺家たちは苦労をしたのです。落語で食べていくのは大変なので、軍の慰問のみならず、軍需工場や農村など日本国内での慰問にでてきた噺家もいました。慰問さきでは娯楽に飢えていたので、どこでも歓迎されました。しかし、戦況が悪化し空襲がひどくなると、交通機関が止まったり、場合によっては空襲で列車が爆破されたりと、慰問活動も命がけになってきます。


実は日本国内の慰問活動は落語家自身を守るためのものでもあったのです。ある噺家曰く、

軍需工場だとか農村だとかを慰問してまわります。銃後の人たちのお役に立つようなんて、もっともらしいモットーを掲げているのですが、これがじつは徴用逃れなのです。噺家、それも私たちのように若いものは徴用され、軍需工場に連れていかれる危険性もありますから、慰問という形でお国のために働く、芸能をもって奉仕しますと(中略)いっておくと、徴用に行かなくてもいいわけです。」

もし、いまネットがあって、こんなことをした噺家はぼこぼこにたたかれてしまいます。しかし、戦争とはいえ、やはり自分の身というものは守りたいもの。僕だって当時の噺家の立場だったらそうします。

噺家といえば、高座着です。噺家にとっては高座着は大事な仕事服。しかし、戦況が悪化し、1940年に国民服令がだされ、男子は強制的に国民服を着る羽目になったのです。戦時中はものが不足しているから贅沢をするなということでしょう。 噺家の高座着も贅沢だからやめろという意見も当然でてきます。一方で「落語家の高座着は一種の衣装であって、俳優がヒゲをつけ、女形が赤い衣装を着けるのと何ら異なることもなく、業務上の必需品である」という意見もありました。


高座着は贅沢かそうでもないかで意見が分かれ、もめているうちに戦争が終わってしまいました。もし、戦時中に高座着が禁止されていたら、高座着を着ない噺家も戦後出てきたかもしれません。

また、戦時中は食糧難ということで、噺家たちのその影響を受けておりました。噺家は寄席に行く際は弁当を持参しましたが、その弁当のごはんは大根、芋、野草が混じっていたといいます。お米が足りなかったから、芋や野草を混ぜたのでしょう。

そして東京大空襲直後、東京の寄席も燃えてしまいましたが、五代目蝶花楼馬楽の自宅は燃えなかったのです。そこにはたくさんの噺家があつまってきましたが、ご飯をたくとき、コメが不足し、その日の人数が多い場合は米を足すのではなく、水を足し、ゆるいおかゆにして量を増やしていたといいます。

また、生活必需品は配給をされていましたが、その配給だけだはとても足りないので、闇取引が盛んだったといいます。ある噺家も近くの農村に交換用の衣類などをもって、食糧を確保したといいます。

※ 参考文献


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柳家金語樓―泣き笑い五十年 (人間の記録 (120))
柳家 金語楼
日本図書センター
1999-12-25


政府は庶民が天皇マンセーして、戦争に協力してほしいと願っていました。そうして作られたのが国策落語です。 とはいえ、国策落語は、戦争場面がずばり出てきたり、戦意高揚をするような噺は意外と少ないのです。それもそのはず、本来落語は庶民の生活をネタにしたり、時に権力者をからかってみたり、そういうものですから。それより戦争遂行のために銃後の国民はどのように暮らすべきかというテーマが多かったのです。だから、戦争とか、権力マンセーは落語とは水と油なのです。
国策落語はいくつもの演目がありますが、その中でも「緊めろ銃後」という演目についてお話しします。この演目には大家さん、熊さん、八っつぁんがドイツの欧州での戦争ぶり、日本の戦争、銃後について語られております。この演目の最後のオチの部分を紹介します。 『いづれにしても、銃後はいま一段の緊張が絶対必要だよ。そうして、いざとなれば、法律で臨む。私は国策違反はこの際反逆罪と認めてもいいと思っているくらいだ」 「国賊ですからな。へえ、日本時とは言わされねえ。蒋介石の間者(スパイ)も同じだ。だから罰金ぐらいじゃすまされねえ」 「罰金以上とすると・・どうするか」 「日本から追い払ってしまおう」 「国外追放は厳罰だな。どこへ追い出す」 「そいうやつは重刑(中国の重慶)でいい」 この落語は政府の立場からすれば、よくできた落語といえます。国策落語はほかにもいろいろな演目があります。「隣組の運動会」、「産めよ殖やせよ」、「防空演習」、「スパイご用心」、「出征祝」など。あと「債権万歳」というものもあります。これは戦費を調達するために国民に国債を買わせるためにつくられた演目です。このように国家権力べったりの落語が戦時中につくられました。
かつて柳家金語楼という噺家がいました。彼は戦後になってテレビタレントとしても、俳優としても活躍しました。その彼は戦時中は、国策落語を通して戦争協力をしたのです。しかし、彼が戦争協力をしたのは本心からではありません。太平洋戦争がはじまる前までは兵隊落語とよばれる新作落語を演じておりました。ちなみに新作落語とは大正以降につくられた落語で主に現代が舞台となっております。江戸時代から存在し、お話の舞台も江戸時代の落語が古典落語です。

柳家金語楼は新作落語の名手でした。その中でも兵隊落語は人気がありました。これは金語楼が大正時代に軍隊に入隊し、そのときの体験をもとにして作った落語です。兵隊落語と聞くと、「兵隊さんえらい」みたいな落語のように思えますが、厳しい軍隊生活を笑いにしてしまう、時に軍隊批判もあるようなそんな内容だったのです。たとえば、「兵隊落語」に兵隊検査のシーンなんか象徴的です。


検査官「おい、山下、お前は甲種合格だぞ」
山下「え、合格、しまったッ」
検査官「なに、しまった?」
山下「いえ、家の表のカギはしめてきたはずで・・・」
検査官「軍人になれてうれしかろう」
山下「あー、ん〜。う、れ、し、い。・・・」
検査官「なんだ、お前、泣いとるのか?」
山下「はい、うれしなきです」


噺にでてくる山下とは山下達郎さんのことではありませんw柳家金語楼の本名です。それはともかくとして、こういう兵隊落語を当局は黙っているわけではありませんでした。金語楼は憲兵本部から出頭を命じられ、「兵隊モノを遠慮してほしい」といわれてしまいます。そして太平洋戦争が勃発して、戦争ムードが広がると、金語楼の落語も変化をしていきます。ほのぼのとした金語楼の落語も次第に国策落語の性格を帯びてくるのです。同じ兵隊検査のシーンでも、太平洋戦争前とでは異なります。こんな感じです。

検査官「いい体をしている」
山下「じゃあ兵隊になれますか」
検査官「その体なら大丈夫だろう」
山下「ありがたい、ありがたい」(話に出てくる山下はこの時裸体のまま跳ね上がって喜んだと)


太平洋戦争前とは180度オチが違いますね。それまでは、兵隊になったことを内心嫌だなって描写だったのに、太平洋戦争が始まってからは、表面的とはいえ喜んでいる描写なのです。

金語楼は兵隊落語だけでなく、国策落語も演じました。彼が演じた演目の中で「産めよ育てよ」というのがあります。内容亜はこうです。はじめは主人公と親友が男同士で酒を飲みながら、子供ができないことを嘆くことから始まります。途中で、主人公の友達の奥さんが三か月とわかり、怒った主人公が家に帰ると、自分の女房も三か月とわかります。すると主人公は「マッチより重たいものを持っちゃダメ」と大騒ぎ。それで子供が生まれると、翌年には二人目、また今度は三人目ときて、最終的に子供の数も十人を超えてしまい、まさに主人公はビックダディーになってしまったというお話。

まさに当時の政府の方針である「産めよ、育てよ」に忠実な内容の噺です。さらに、この噺には、子供を産めない奥さんも登場します。その奥さんに対して「兵隊さんになるような男の子を、一日でも早く産むことが、お国のために尽くす仕事だとしたら、子を産めない女なんか意義がないぞ。さてはお前は敵国のスパイだな、憲兵に訴えるぞ」みたいなセリフがでてくるのです。今のご時世だったら確実にモラハラ、セクハラですよね。こんなセリフ当時の政府のお偉いさんとか右翼は涙を流して喜んだでしょうが、こんな話が出てくるようでは笑いたくても笑えません。

金語楼の国策落語は戦況が悪化すれば、悪化するほど一層権力マンセー、戦争バンザイの内容の噺をしました。さぞ、当時の政府のお偉いさんたちやウヨは金語楼のことを、ほめたことでしょう。しかし、昭和17年に政府は金語楼に対して、噺家をやめ、俳優になるように強要されます。この非常時に人を笑わせている場合か!まじめにやれという言い分でしょう。金語楼はしぶしぶ噺家の看板を下ろす羽目になったのです。

もちろん、金語楼が国策落語をしたのは、彼ひとりがわるいのではなく、当時の時代の要請でしたからね・・・
※ 参考文献


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