history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 昭和

よくネットで後藤田正晴さんが、生前に安倍晋三元首相を批判し、「安倍晋三だけは総理にしちゃいかん」といったと拡散されておりますが、結論から言えば、

そんなことは一切言っていません。ガセネタです。

後藤田さんが批判したのは菅直人元首相。後藤田さんは生前、「菅だけは絶対に総理にしてはいかん」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」とおっしゃっていたそうです。つまり、ネットでは菅直人さんのところを安倍晋三さんに変えられて、後藤田さんが「安倍だけは総理にするな」と言っていると広まってしまったのですね。

確かに運動家とか革命家は壊すのは得意かもしれないが、作ったり、みんなをまとめたりすることは不得手かもしれない。そういう意味では後藤田さんは慧眼ケイガンかもしれません。


後藤田さんが安倍元総理のことをどう思っていたのか、僕は知りませんが、安倍元総理の祖父である岸信介のことは、その能力を高く評価しておりました。ただ、戦争に対する反省がないという点は残念だったと。また、後藤田さんは、「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者が日本の首班になることに対しては疑問があったとのこと。

安倍晋三元総理を批判したのは、後藤田正晴さんではなく、父親の安倍晋太郎さんだとネットで言われております。安倍晋太郎はかつて晋三さんに「お前には政治家として最も大事な情がない」と言ったとか。まるで実の息子を政治家としてではなく、人間的にも嫌うような言い方ですね。ただ、こちらも本当かどうかはわからないです。安倍晋太郎は放任主義で、無理をして政治家になる必要はないし、好きなことをやった方がいいという考え方だったそうです。若き日の安倍晋三さんが政治に興味を持ち自分でやりたいと言い始め、それで安倍晋太郎さんが外務大臣になった時、安倍晋三さんに「秘書官になれ」といったとか。

ただ、安倍晋太郎さんと安倍晋三さんでは親子でも政治的スタンスは違うことは確か。安倍晋太郎さんは「オレは岸信介の娘婿はじゃない。安部寛の息子なんだ」が口癖で、戦時中に戦争に反対した父親の寛を誇りにしていたそうですし、安倍晋太郎はバランス感覚に優れ、強引なこととか、無理をするとか、自分の主張を強調することがなかったとのこと。強い人たちだけの味方では決してなかったし、かといって弱い人たちだけのことを考えていたわけでもない。全体を眺めながら舵取りをする政治家だったそうです。安倍晋太郎はタカ派の多い清和会のリーダーでしたが、右の考えに流されるタイプではなかったそうです。戦争を経験していることもあって、リベラルな考え方を持っていた。

また、安倍晋太郎さんは答弁で先の大戦について、このように述べられました。

「私もやはり、第二次大戦は日本を亡国の危機に陥れた、大変誤った戦争であると思っております。国際的にも、この戦争が侵略戦争であるという厳しい批判があるわけであります。政府としても、そうした批判に対しまして十分認識をして、これに対応していかなきゃならない。これがこれからの、そしてこれまで日本が歩んできた世界平和を求める基本的な姿勢でなければならぬし、今後ともそうでなければならない」(*1)


*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05



*1 『安倍三代』P164より





1 歴史上の引きこもり
8050問題、今問題になっておりますね。80代の親と50代の子供。50代の子供が仕事もしないで家に引きこもっている問題。親御さんから見たら不安ですよね。どうしたら、この問題が解決するのか、僕は明確な答えは出せないのですが、もしも、若い頃ご自身がフーテン族で、お子様がニートになったという親御さんは、まず自分の若かりし頃の自分を思い出すのが一番だと思います。間違っても、「俺の若い頃はなあ」とか自分のことを棚に上げて怒っちゃいけませんよw?

え?フーテン族って何かって?1960年代後半からそういった人たちが現れるようになりました。特に仕事をするわけじゃなく、街をプラプラしたり、道端で寝そべっていたり。中にはシンナーを吸って中毒になって命を落とした人も。



(↑クリックするとサイトに飛びます)

歴史上の人物では鴨長明カモノチョウメイが今でいうニートのような生活を送っていたのですね。神職についていたのですが、出世の道を断たれてしまい、出家をして隠遁イントン生活を送っていたのです。分の才能(好きなこと)を通して、出世や普通の人生を希望していたが、上手く世渡りができず、50代頃に人生と俗世間に見切りを付けたと言います。真面目な人だったのでしょうね。


あと、良寛様も言っては悪いけれどニートみたいな方です。本人は半分は出家しているが、半分は俗人で、人々から施しを受けながら、細々と庵で暮らしていたと言います。貧乏な暮らしぶりでしたが、村の子どもたちと遊んだり、書を書いたり、結構幸せな人生だったのでは。彼が高く評価されるようになったのは、良寛様が亡くなってからですね。



2 高等遊民
 明治になると高等遊民コウトウユウミンという人たちが出てきます。高等遊民とは大学などを出ていながら就職をせず、家で本を読んだり、趣味に没頭したりして日々を過ごすことです。夏目漱石ナツメソウセキの小説「それから」や「こころ」の主人公も高等遊民です。

高等遊民の実家は大抵裕福でした。だから非生産的な暮らしぶりでも食っていけたのです。高等遊民になった理由は、単に働くのが嫌だとか、不景気で就活に失敗したとか色々です。あるいは体が弱かったというのもの考えられます。明治大正時代は、体が弱い人の就活は現代もそうかもしれないが、当時は本当に不利でした。頭が良くても体が弱いために就職できず家に引きこもってしまう人もいたのですね。

では、高等遊民は世間からどう思われていたのでしょうか。現代ほど後ろ指をさされませんでした。が、時の政府は警戒ケイカイしていたのですね。なまじか学や知識吸収欲があるために社会主義や、無政府主義にハマるのではないかって。政府としては無政府主義や社会主義が広まることが一番怖いわけですから。逆に言えば、高等遊民でも、そういった思想にかぶれなかれば問題なしだったのです。

最終的に昭和初期満州事変マンシュウジヘン・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員コッカソウドウイン体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題はある程度は解消に向かっていったのですね。一方で徴兵検査チョウヘイケンサで不合格になったり、仕事にあぶれたりして、家でぶらぶらしている人間も少なからずいたのですね。いつの時代にも仕事がないという人はいたのです。徴兵検査が不合格になって皆からバカにされ犯行に及んだ人物がおりました。その人物こそ、津山事件ツヤマジケンの犯人です。

3 津山事件
 津山事件とは1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県の集落で、戸井睦雄トイムツオによって引き起こされた事件です。刃物やジュウを使用して村民30名を約2時間で惨殺ザンサツしたという事件です。恐ろしいですね。この事件は都井の自殺をもって幕を閉じました。この事件は、「八つ墓村ヤツハカムラ」のモデルになりました。

都井は比較的ゆとりのある家に生まれであり、成績優秀で女性にもモテたようですが、病気がちの上に、理解者だった姉の結婚などを機に次第に引きこもりがちになっていったのです。

そして、都井は徴兵検査で結核ケッカクを理由に丙種合格ヘイシュゴウカク(事実上の不合格)になってから、みんなからケムたがれるようになりました。

都井も悪いがみんなも冷たいですね。でも、当時結核と言ったら不治の病で、都井に近よったら結核が移ると思ったのでしょうね。現代のコロナと同じですね。加えて戦時中は、徴兵検査に落ちると「非国民」というレッテルを貼らます。そりゃ時代的にそうでしょうね。

じゃあ、農作業をすればいいじゃんと思われるかもしれませんが、昔はトラクターとか農業機械が普及していなかったので、農作業はほとんど人力。農作業は体力勝負の仕事ですから、身体が弱いというのは致命傷チメイショウなのです。また、体が弱いと就職も不利。そうやって追い詰められた都井は、このような蛮行におよんだのですね。

津山事件は極端な例ですが、戦前や戦中にも無職の人がいて、無職の人たちが人殺しをする事件は結構あったのですね。親が無職の息子を責めたところ、息子がカッとなって親を殺したという事件もあったのです。逆に親が無職の息子を殺したという事件もあったそうです。

徴兵検査のお話をしましたが、徴兵検査をあの手この手で逃れようとした人たちも少なくなかったのです。徴兵逃れのお話は以前に記事に取り上げたので、ご参照のほど。


http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2514263.html
(↑徴兵逃れの記事)


* 参考サイト並びに文献





戦前の少年犯罪
管賀 江留郎
築地書館
2007-10-30

3月14日の今日は松の廊下刃傷事件があった日です。浅野内匠頭が吉良上野介に松の廊下で斬りつけた事件です。「忠臣蔵」は歌舞伎でも取り上げられ、戦後になってから何度もドラマ化されました。

NHKの大河ドラマで「忠臣蔵」が扱われたのは4回です。1回目は1964年(昭和39)の「赤穂浪士」。2回目は1975年(昭和50)の「元禄太平記」、3回目は1982年(昭和57)の「峠の群像」、4回目は1999年の「元禄繚乱」(平成11)です。ちなみに、1995年(平成7)の「吉宗」にもちらっと忠臣蔵の話が出てきます。

1964年の「赤穂浪士」のテーマ曲はとても有名で、あの曲を聴くと「ああ、忠臣蔵だ」って思いますものね。大石内蔵助を演じられたのは長谷川一夫さん。吉良上野介を演じたのが滝沢修さん。長谷川さんを筆頭に豪華キャストをそろえたことは、当時の芸能マスコミやテレビ・映画業界からは「受信料でスターを集めた」というバッシングの対象にもなったそうですが、この「赤穂浪士」は高い視聴率により大きなダメージには至らなかったそうです。その視聴率というのが、優に30%を超え、浪士の討入りが放送された回には視聴率53.0%という大河ドラマ史上最高視聴率記録をも打ち立てたのですね。

1975年の「元禄太平記」は大石内蔵助が主人公ではなく、柳沢吉保が主人公。柳沢吉保視点で見た忠臣蔵という位置付けです。「忠臣蔵」では大石が討ち入りの際、山鹿流陣太鼓を叩くシーンが出てきますが、史実では太鼓なんて叩かないのですね。それで、本作品の討ち入りシーンでは陣太鼓が使われていません。柳沢吉保を石坂浩二さんが、内蔵助を江守徹さん、吉良を小沢栄太郎さんが演じられました。「元禄太平記」は実際に討ち入りがあった12月14日に、討ち入りの回をやったことでも話題になりました。

1982年の「峠の群像」は原作者の堺屋太一さんの観点を軸に、赤穂事件を現代的に描いたドラマです。赤穂藩断絶を現代の企業倒産になぞらえ、サラリーマンつまり赤穂の藩士たちがいかに行動したかを再考する作品となっております。内蔵助を緒形拳さん、吉良をなんと伊丹十三さんが演じられております。伊丹さんといえば「マルサの女」とか「ミンボーの女」とか映画監督のイメージが強いのですが、本職は俳優さんです。

1999年の「元禄繚乱」では内蔵助を中村勘三郎(当時は中村勘九郎)さんが、吉良を石坂浩二さんが演じられました。特に万年青年のイメージがある石坂さんが吉良をやるのも驚きだなって。「元禄繚乱」はリアルタイムで見てましたが、赤穂浪士というより、元禄という時代、徳川綱吉の治世にスポットを当てた内容でした。所々にコミカルなシーンがあって、ある意味異色作だなって思いました。「忠臣蔵」はどちらかというとシリアスな展開ですから。

最近の大河は戦国か幕末ばかりなので、そろそろ江戸時代もやってほしいなって。

1 最近、「忠臣蔵」をやらなくなった理由
 最近、「忠臣蔵チュウシングラ」のドラマ化されませんね。僕が学生この頃は毎年、12月になると「忠臣蔵」のドラマをどこかしらで放送していたのですね。それが最近はパタリ。最近、映画で「決算忠臣蔵」をやったのですが、それくらいですかね。でも、CSの時代劇チャンネルとかをみていると「忠臣蔵」のドラマ(再放送)や映画をやっております。テレビではともかく歌舞伎カブキでは「仮名手本忠臣蔵カナデホンチュウシングラ」という題で、今でも上演しております。ただコロナ禍で、なかなか上演が厳しい状況みたいですが。ともあれ、今も「忠臣蔵」は人気があります。毎年、12月15日に泉岳寺に行くと、参拝客がいっぱいで、おハカにささげる線香センコウけむりがすごくて、目が痛くなるくらい。

それにしても、「忠臣蔵」のドラマをやらなくなったのはなぜでしょう?理由がネットに載っていて、謎が全て解けました。


その理由はとてもシンプル。お金がかかるから。

セットもお金がかかるし、とにかく人数が必要ですからね。あの広い吉良邸キラテイのセットを作るだけでも、お金がかかりそうですし。吉良邸だけでなく、松の廊下とかのセットとか、大石内蔵助オオシクラノスケが遊んだ祇園ギオン遊郭ユウカク、それから東下りで内蔵助が 瑤泉院 ヨウゼンインの屋敷も必要ですしね。戦国時代なら、見せ場が合戦なので屋外が多いですが、「忠臣蔵」の見せ場は屋内が多いです。

また出演者もやたら多いのも「忠臣蔵」です。四十七士もそうですが、浅野内匠頭アサノタクミノカミ、瑤泉院ほか赤穂方アコウガタ、徳川綱吉や柳沢吉保ヤナギサワヨシヤスら幕府側、吉良方、上杉方などたくさん出てきます。キャストの数も多くなるのも「忠臣蔵」の特徴です。俳優さんをたくさん集めるのですから、それなりの政治力も必要です。特にこれまでの「忠臣蔵」のドラマのキャスティングを見ても、本当に豪華キャストですからね。例えば、これまで大石内蔵助役を演じたのは、松本幸四郎さんとか、松平健さんとか、仲代達矢さんとか、この間お亡くなりになられた中村吉右衛門さんとか、そうそうたるメンバー。脇を固める俳優さんもこれまた豪華。ギャラも相当でしょう。

それでなくても時代劇はお金がかかるのに、「忠臣蔵」はとりわけかかるそうです。「忠臣蔵」のドラマを作ること自体が一つのプロジェクトですね。かつては「忠臣蔵」のドラマを作ることがテレビ局のステータスみたいなものでした。それが、テレビ局も今はあんまり予算がないから、作りたくても作れないのですね。


2 愛国心が薄れたからではない

 よく、ネットでは「最近の日本人は愛国心を失ったから『忠臣蔵』が作れなくなった」とか「義理人情や忠義心が薄れたことの象徴だ」なんてコメントも見かけますが、とんでもない間違いです。

そりゃ確かに戦後間もない頃は、「忠臣蔵」の歌舞伎の上演やテレビがGHQから禁じられたことがありました。当時、軍国主義に関する本や芝居などが弾圧されたのですが、特に「忠臣蔵」は、その浪士たちの忠義心が非常に危険視されたのですね。軍国主義につながると。しかし、「忠臣蔵」の人気は高く「忠臣蔵」をみたいという意見も少なくなかったのです。そして、昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れていた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演されました。

最も、GHQの肩を持つわけじゃないが、忠義心も一歩間違えると危険な面もあるのですね。主君が英明で常に正しい判断ができるなら良いが、暗君に忠誠を尽くすにはかえって武士道に反する。本来の忠誠心は、盲目的モウモクテキに主君に従うことではないと思います。

実際に、討ち入りだの忠誠心だのを手放しでマンセーするのは危険じゃないかって意見は江戸時代にもあったようですね。明治の頃、この事件を検証しようという動きがあったそうです。しかし、赤穂浪士を手放しでほめ、逆に「赤穂浪士の悪口を言う奴を許さない!」って空気が強かったのですね。実際、明治政府は徳川幕府は悪い政権と全否定して、ある意味徳川幕府に逆らった赤穂浪士を手放しにマンセーしたと言いますし。

戦時中は、軍部当局でも、赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨スイショウするのは好ましくないという意見が出てきて、国定歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたそうですが。おそらく、昭和に入って、5・15事件とかの2・26事件とかクーデーターが起こったり、要人が暗殺される事件が度々起こったので、その反動かもしれない。

3 上杉家の子孫たちの思い
 いづれにせよ、赤穂浪士の検証もまともにできないまま、吉良の子孫たちも、後ろ指を刺されながらも耐えに耐えてきたそうです。

え?吉良に子孫がいるの?って意見が聞こえそうですが、もちろんいらっしゃいます。吉良家は確かに断絶しましたが、吉良上野介の息子が上杉家に養子に入った上杉憲綱ウエスギノリツナ。「忠臣蔵」では、討ち入りの際、父を助けようと武器を取るのですが、それを家老の色部に止められてしまいます。と言っても、その辺のお話はあくまで物語。史実は違います。上杉家には討ち入り直後の報告文書が残っており、それによれば「殿はお顔色も変えず『そうか』とおっしゃるのみだった」とあるようですが。

ちなみに、名君で有名な上杉鷹山も吉良の血が入っているのですね。そして現在の上杉家の当主が、宇宙工学者で「はやぶさ」のプロジェクトでも指揮をとられた上杉邦憲博士。上杉さんは、「忠臣蔵」では吉良上野介が一方的に悪者になっていることに疑問を抱かれておりまして、ご専門の宇宙のお話だけでなく、吉良にまつわる講演もたびたびされております。邦憲さんは討ち入りを「テロそのもの」と断じております。赤穂浪士は完全武装しているが、吉良はほとんど丸腰、しかも浪士が吉良邸を襲ったのは夜中というので。

もちろん、当時の価値観と今の価値観は違うので、現代の価値観でもって、赤穂浪士をテロ集団だと断じるのも難しい側面もあります。昔は喧嘩両成敗ケンカリョウセイバイで、吉良にも原因があると。切った方も悪いが、切られた側にも原因があるという考え方でしょう。

いづれにせよ、吉良義周キラヨシチカ処遇しょぐうはひどいなと。義周は、罪人として、鳥かごに入れられて信州に運ばれたのです。当時17歳で、病気になって20歳で亡くなったのですから。何も悪いことをしていないのに、かわいそうだなって。

ちょっと前までは、赤穂浪士に肩入れする意見が根強く吉良の方が一方的に悪者でした。それが最近は風向きが変わり、むしろ浅野の方にも落ち度があるという意見も出てきております。時代は本当に変わったなあって。「忠臣蔵」をやりづらくなったのは、予算が最大の理由だが、吉良側のいい分が認められるようになったこともあると思う。僕はどちらかというと赤穂浪士派なのですが、一度、吉良や上杉家の立場から描いた映画やドラマを作るのも良いのではないかって思います。


毎週、水曜日は仕事が基本的に休みなので、平日の昼からブログ書いていますw


「経済」という言葉の語源は、中国の古典に出てくる「経世済民」(けいせいさいみん)に由来するそうです。意味は「世を経め民を済う」(ヨヲオサメタミヲスクウ)、経は『治める』、済は『救う』であり、つまり世を立て直し、貧しい人や苦しんでいる人を救いましょうというのが本来の意味。特に君主や政治家は、蓄えた財を貧しい人や苦しむ人のために使いましょう、分かち合いましょうというのが本来の意味だそうです。だから、お金を不当に蓄財して、己の金儲けのために、好き放題をしたり、汚職などやったり、ましてや戦争なんてあってはならないことなのですね。かつての十字軍もお金儲けのために戦争が長引いたというし、イラク戦争も石油の利権が背景にあったというし、今回のウクライナ戦争もどうかな。

日本では、お金の話はタブーになりやすく、経済というと冷たいイメージがありますが、とんでもない。経済は決してお金儲けの学問でもなく、むしろお金を使って人々を救済しましょうというのが根底にあるのですね。お金そのものがタブーじゃなくて、その使い方なんですよね、問題は。お金を使う人の心次第で、人を生かすことも殺すこともできるのです。お金で救われる命もあれば、逆に借金とかで苦しんで、つまりお金のために自殺に追い込まれることもある。

経済に明るい人というのは、それだけ人々を救う力があるということなんでしょうね。

今、韓国で大統領選挙が行われており、アメリカでも中間選挙、そして日本でも今年の夏に参議院選挙があります。経済に明るい政治家が生まれるといいですね。

ただ日本はなぜか経済に明るい人があんまり評価されていないのですね。江戸時代の萩生徂徠然り、田沼意次しかり、近代では高橋是清。田沼意次は近年、やっと再評価されておりますが、戦後になっても、賄賂政治家というネガティブなイメージがずっとあったのですね。

高橋是清は2・26事件で暗殺されましたが、これは日本にとって大変痛手なのですね。もし、たか橋是清が生きていたら、日本はあの戦争は避けられたかもしれない、そんなことまで考えてしまいます。高橋是清は軍縮を行おうとしました。しかし、軍縮は軍隊の失業にも繋がります。だから、青年将校の恨みを買ったのですね。


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