history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 鎌倉時代

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皆さんにクイズです。上の三人の肖像画、それぞれ誰か言ってください。


え、馬鹿にするなって?

上から聖徳太子、源頼朝、足利尊氏だろっ!!


って声が聞こえそうですが、正解はなんとも言えません。実はこの三つの肖像画、本当は誰なのかわからないのです。一番上の聖徳太子の肖像画ですが、僕が高校までの教科書には聖徳太子ってはっきり書いてありましたし、かつての1万円の肖像画もまさにこの絵でした。ところが最近の教科書には「伝聖徳太子」とあるのです。つまり、聖徳太子の肖像画だと言われているが、はっきりはわからないということ。この肖像画は別人の可能性もあるのです。この肖像画は実は本人の死後100年経ってから描かれたもの。つまり、目の前の聖徳太子本人を見て描いたものではないのです。そのため、聖徳太子の風貌を正確に描かれたわけじゃないのです。

二番目は源頼朝だと言われておりますが、これも「伝源頼朝像」とあるのです。それどころか、この肖像画は足利尊氏の弟の足利直義の可能性もあるというのです。

三番目の肖像画は足利尊氏だと言われておりますが、その可能性は低そうなのです。そのポイントはこの武将の絵の上にある花押です。この花押は尊氏の息子の足利義詮のものですが、息子の花押が父の絵の上に描かれることはまずありえないというのです。さらに、この肖像画の武将というのが品がないのです。とても征夷大将軍とは思えない。だらしなくのばした髪、モジャモジャのヒゲ、折れた弓矢を見る限り、これはもっと位が下の武将かもしれないと。もしかしたら尊氏の家臣の高師直の可能性があると。もちろん、この肖像画が尊氏の可能性も低いかもしれないが、ゼロではないのですね。

今日は楠木正成のお話を。俳優の高橋英樹さんがご出演されている歴史番組で楠木正成を取り上げていまして、冒頭で若い女性アナウンサーが「足利尊氏は知っているが、楠木正成はあまりよく知らない」と。若い世代だとそうでしょうね。でも、ある程度年配の方だと楠木正成を知っている方も多いかと思います。戦前は教科書に取り上げられて、天皇を守った忠君とされていたのです。逆に足利尊氏が天皇に反逆した悪者だと言われていたのです。さらに戦時中、全国各地の小学校などに楠木正成の像、いわゆる楠公像が設置されたのですね。要するにお前たちも楠公のように天皇につくせということでしょう。戦前・戦中は皇国史観でしたからね。もっといえば紙幣の肖像画にも楠木正成は描かれていました。

それが戦後になって皇国史観が否定され、楠木正成はGHQから軍国主義の象徴として否定されたのです。学校にあった楠公像は撤去され、教科書でもまともに取り上げられなくなりました。だから楠木正成を知らないという若者がいても不思議じゃないのです。

しかし、楠木正成がタブー視されても人々の心に残りました。楠木のことは、絵本や歌舞伎の題材にもなりました。

千早城の戦いなどの楠木正成の活躍ぶりに、高橋英樹さんは子供心にワクワクして、穴まで掘ったと番組でおっしゃっていました。高橋英樹さんは1944年生まれで、戦後教育を受けた世代ですが、その世代でも楠木正成はよく知られていたのですね。

楠木正成は元々は河内にいた地方の武士で、地元の人々から慕われていたのです。平和な時代ならば、楠木正成は平凡で普通の暮らしだけど、幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、楠木がいた時代はまさに大乱世でした。時の天皇の後醍醐天皇が野心を抱き、幕府を倒そうとしていました。しかし塀じゃなかったw兵をもたない天皇が強力な軍隊を持つ幕府に敵うはずがありません。そこで天皇が目をつけたのが楠木正成。

楠木正成が後醍醐に謁見すると、後醍醐は意外な話をするのです。後醍醐は「夢を見た」と。その夢の内容というのが、後醍醐が不思議な場所に来て、そこには大きな木があったというのです。しばらくすると2人の子供が出てきて、その子供たちが「陛下が座るところは、この木しかありません」と告げたと。その木は南側にあったのです。木という漢字と南という漢字をドッキングさせると「楠」という漢字になります。それで後醍醐は楠木こそ自分を助けてくれる人間だと神様が教えてくれたと思ったのでしょう。

その話を聞いた楠木は感激し、「少ない兵力でも知略を尽くせば、幕府に勝てる」と力強く後醍醐に言いました。

もっとも、この夢の話は「太平記」に出てきたことで、本当に後醍醐がこんな夢を見たかどうかはわかりません。おそらく、後醍醐があちこちの武士たちに声をかけたが断られ、たまたま楠木に声をかけたらOKしてくれたという話だと思います。



早速、楠木正成は後醍醐のために立ち上がりました。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に立て篭もり、幕府と戦ったのです。後醍醐に呼応して、楠木は河内の赤坂に城を築いて立て籠ったのです。しかし楠木に味方したは、わずか五百人。これに対し幕府は、鎌倉だけでなく、京にある出先機関の六波羅探題と合わせて数万の兵士を派遣したのです。その中には足利高氏もいたのです。高氏はこの頃は幕府側だったのです。結局、笠置山に立てこもった後醍醐は負けてしまい、隠岐に流されてしまいます。

一方の楠木は幕府の大軍相手に善戦をしたのです。赤坂城は山城だったのですが、城から丸太やら岩を落としたり、奇想天外なゲリラ戦で立ち向かったのです。最後に楠木は城に火を放ち、退散したのです。赤坂城が炎上し、幕府側は楠木が死んだと思ったのです。その後、1年間、楠木は身を隠していたのです。


しばらく身を隠していた楠木は再び兵をあげ北条勢が占領していた赤坂城を取り戻したのです。今度は金剛山に千早城をつくり、楠木軍は千早城に立てこもりました。死んだと思っていた楠木が現れたことに幕府は驚いたのです。さらに後醍醐天皇の息子の護良新王が吉野で挙兵。幕府は衝撃を受け、楠木正成と護良親王に賞金首をかけます。

金剛山は険しい山でそこに築かれた千早城は深い谷に囲まれた、守りの硬い山城でした。正成はヨロイを着せたワラ人形で敵をおびきよせ、上から石を落としたり、熱湯や、おしっこやウンチ💩wまで投げたと言います。そうやって幕府の大軍を苦しめたのです。楠木正成がこのように籠城したのは自らが幕府軍に勝つためではなく、あくまで時間稼ぎ。全国に鎌倉幕府に不満を持っている武将たちはたくさんいる。自分達が粘り強く幕府と戦えば、そういった武将たちも反旗を翻すと。楠はそれを待っていたのです。

元弘3年(1333)には隠岐に流された後醍醐天皇は地元の豪族の力を借りて島を脱出。そして全国の武士たちに幕府討伐の綸旨を出したのです。それは幕府側にいた足利高氏にも声がかかりました。そして、綸旨を受けた足利高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻撃。同じ頃、新田義貞も鎌倉を攻撃。これで鎌倉幕府はほろんだのです。それから楠木正成は、天皇の護衛役を命じられたのです。

そして後醍醐天皇は自ら政治を行いました。いわゆる建武の新政です。しかし、あまりに性急な政治改革だった上に朝令暮改を繰り返したので、世の中は混乱し、人々の不満が高まったのです。さらに恩賞も公家には厚く、武士には薄くという不公平なものだったのです。これには武士たちも怒ったのですね。足利高氏は優遇された方で、尊氏という名前も後醍醐からもらったのです。が、後醍醐は尊氏を警戒し、征夷大将軍も護良に命じたほど。強力な軍事力を持つ尊氏が幕府を開くことを恐れたのです。

北条氏の残党を討伐するために尊氏は鎌倉に派遣されましたが、戦の後、京に戻らず、天皇の許可もなしに味方に恩賞を与えたのです。そのことに怒った後醍醐は、新田義貞を派遣し、尊氏を討伐しようとしたのです。それは建武2年(1335)のこと。

尊氏は新田軍を撃破、逃げる新田を追い京に上ったのです。しかし、大軍を率いて東北からやってきた北畠顕家の応援を得て、新田義貞、楠木正成らの軍勢が総攻撃。たまらず尊氏は九州に逃げ延びたのです。

延元元年(1336)、尊氏は西国の武士たちを味方につけた上に、光厳上皇から新田討伐の院宣を得たのです。光厳上皇は持明院統で大覚寺等の後醍醐とは対立していたのです。この上皇の院宣で尊氏は朝敵ではなくなったのです。そして、尊氏軍は京に登ろうとしたのです。後醍醐大ピンチです。

その時、正成は後醍醐に進言したのです。まず、天皇は都から離れると。海からやってくる尊氏を京に誘き寄せると。そのすきに正成たちが尊氏の水軍を攻撃し、補給をたつ。そして、都にいる尊氏を攻撃すると。しかし、その案を天皇は却下。天皇の側近、坊門清忠など公家たちが「帝が京を逃げたら対面が悪い」と批判したのです。公家たちは軍事を知らなかったのですね。

そして後醍醐は、新田と共に尊氏と戦えと命令するのですね。これはまさに負け戦。楠木正成にとって死刑宣告のようなもの。

死を覚悟した楠木正成は大阪の桜井にて息子に別れを告げたと言います。そして息子を母の元に帰したと言います。かくて新田一万騎と楠木700騎は、摂津の湊川付近で、尊氏の大軍と戦いましたが、この戦で楠木正成は戦死します。

実は楠木正成が世に出て活躍したのは5年くらいしかなく、彼の生い立ちなど詳細なことはわかっていないのですね。それでも、楠木正成の戦いぶりは後の世から高く評価され、人々に語り継がれて行ったのです。

今日は父の日です。父に感謝をする日でありますが、正直僕は子供の頃父が大嫌いでした。今では父にたいして以前のような感情は持たなくなりました。父の誕生日も近いので、プレゼントをしようかなって思ってます。

さて、歴史を振り返ってみると、父と子の対立の話はよくある話なんですよね。宮沢賢治と父、武田信玄と武田信虎、足利義満と足利義持、それから護良親王と後醍醐天皇。


後醍醐は護良がスタンドプレーばかりしていたので、怒って護良を幽閉しました。護良のスタンドプレーは後醍醐には護良の反抗に思えたのでしょう。親に反抗という面では、後醍醐もあんまり護良のことを非難できないのですね。実は後醍醐も父親に反発していたのです。後醍醐の父親は後宇多天皇ゴウダテンノウと言いますが、後醍醐天皇は本来天皇になれる人ではなかったのです。

後醍醐の話をするにあたって、この時代の複雑な事情をお話しします。持明院統ジミョウイントウ(※1)と大覚寺統ダイカクジトウ(※2)と皇室が二つに割れていて、皇位を巡って両者が対立していたのです。持明院統も大覚寺統も元々は兄弟だったのですが、兄弟で天皇の座を争っていたのです。それで両統迭立リョウトウテツリツ(※3)といい、持明院統と大覚寺統の両統が変わりばんこで即位していたのです。大覚寺統の天皇が即位したら、次は持明院統の天皇。その天皇が退位したら今度は大覚寺統という具合に。それも一〇年経ったら天皇は退位して次の天皇にバトンを渡さなきゃいけないのです。

「あれ、こんなに天皇がすぐにコロコロ変わるものなの?天皇は生きていいるうちはずっと天皇の位にあるんじゃないの」と思うのは現代人の感覚。即位から亡くなるまで天皇の位につくというのは明治以降。今の上皇様のように生前退位したのは明治以降では実は初めて。しかし、この時代は10年で天皇の位を降りる、つまり生前退位したのですね。

後醍醐には後二条天皇(大覚寺統)という兄がいました。後二条天皇の後任が、持明院統の花園天皇が即位し、その花園天皇(持)の後任に後宇多天皇(大)は自分の孫の邦良親王クニヨシシンノウ(後二条天皇の子で大覚寺統)に帝位を継がせたかったのです。しかし、邦良親王(大)が8歳と幼かったので、中継ぎとして後醍醐天皇(大)が即位し、邦良親王(大)が成長したら、邦良親王(大)に天皇の座を譲らなければならないのです。

野球に例えれば後醍醐は監督代行みたいなもの。監督が成績不振でシーズン途中で休養し、それでヘッドコーチ等がシーズン終了まで監督の代わりを務め、次の監督にバトンタッチするのが監督代行。オリックスの中嶋聡監督みたいに監督代行からそのまま正規の監督になるケースもありますが、基本的に監督代行はシーズンが終わったら退団します。

中継ぎも大事な役割だと思うのですが、後醍醐はそれに納得できませんでした。後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発したのです。つまり、父の言うことを聞いていたら、自分の子供を天皇にすることもできないし、せっかく自分が手に入れた天皇の地位もやがてはオイの邦良親王に譲らなくてはならないのですから。だからこそ後醍醐は父の後宇多天皇の言いつけに背いたのです。


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※1 後深草天皇から発した皇統。大覚寺統と皇位を争うが、建武の新政により一時衰退。のちの北朝
※2 亀山天皇から発した皇統。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立となる。のちの南朝。
※3 持明院統と大覚寺統の両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇室が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。天皇の在位期間は10年。



今日は新田義貞のお話。新田といえば幕府を滅亡させた功労者の一人です。新田義貞と幕府の戦いといえば、小手指原コテサシガワラ(埼玉県の所沢や小手指あたり)、久米川クメガワ(東京都東村山市あたり)の合戦、そして分倍河原ブバイガワラ(東京都府中市)の合戦です。いづれの合戦も激闘で多くの人が亡くなっております。今日はこの3つの戦いのお話をします。



元弘3年(1333年)5月8日、足利高氏アシカガタカウジが京都の六波羅探題ロクハラタンダイ陥落カンラクさせましたが、新田義貞も挙兵し、鎌倉幕府と戦いました。

義貞が挙兵したのは、護良の令旨に応えたとも、後醍醐の綸旨に応えたとも言われておりますが、やはり幕府への不満が大きいです。実は義貞は楠木正成がこもる千早城攻めに幕府側として参加していたのです。それが病気を理由に領国に帰っていたのです。そこに幕府から戦費調達として銭6万貫を差し出せと命令が下ったのです。義貞はこの要求を突っぱね、逆に戦費を出せと言ってきた幕府の役人を斬ってしまったのです。これに激怒した幕府が義貞追討の命令を発したため、義貞は幕府と戦う決心がついたのです。元々、義貞は内心幕府に不満があったし、足利高氏も幕府を裏切ったので、「じゃあ俺も」って思ったかもしれません。

元弘3年(1333年)5月11日、新田義貞と幕府軍がぶつかったのが小手指河原。この戦いは両軍いり混じる戦いで、朝から夕刻まで続いたと言います。新田軍は300騎が亡くなり、幕府が500騎犠牲になったと言います。結局、両軍の戦いは決着がつかず、新田軍は入間川へ、幕府軍は久米川へ撤退したと言います。

久米川では、新田が先手をとり、数で勝る新田軍が幕府軍を追い詰めたと言います。この久米川の戦いに勝利した新田軍は八国山に将軍塚をつくったと言います。

そして、幕府軍は分倍河原まで逃げたと言います。分倍河原は武蔵国の首府・府中に近く、鎌倉幕府にとっては鎌倉を守るための最後の防衛線でした。そのため、幕府は援軍を送ったと言います。幕府軍も善戦し、一度は新田軍を押し返したと言います。ちなみに新田義貞の軍勢はそのドサクサに紛れて国分寺をもやしたといいます。しかし、そんな新田に相模国の名門の三浦氏などが新田の味方をし、再び新田は幕府軍に立ち向かいます。そして幕府軍は多くの犠牲を出し敗退します。

分倍河原は激戦は凄まじく、かつては心霊スポットとしても有名でした。僕が聞いた話では、分倍河原の合戦場だったところを走る電車の車窓に血まみれの手が映ったとか、周辺のアパートで武将に襲われる夢を見た人がいたとか、、そんな話も僕は聞いたことがあります。僕の知り合いのおばあちゃんが亡くなるまで、分倍河原で戦死した者たちの供養をしてましたっけ。でも、最近は分倍河原で霊をみたという話は聞かないですね。

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(新田義貞)

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(分倍原の合戦場跡)

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(同じく合戦場跡)

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(分倍原の説明板)



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(三千人塚 鎌倉時代後期の墓地。分倍河原の合戦の犠牲者の墓ではないようですし、この石碑も江戸時代に作られたと言います)

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(三千人塚の説明板)


参考文献


1 護良たちに起きた奇跡
護良親王モリヨシシンノウ楠木正成クスノキマサシゲたちの奮戦もむなしく幕府は倒れそうにもありません。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウも無事隠岐島オキノシマから生還したし、護良側に味方する武将が続々現れたけれど、それでも幕府に到底及びません。その戦力差は明らかでした。千早城に立てこもっている楠木も幕府の猛攻撃に長くはえきれぬ状況だったのです。

護良はあせりました。このままでは幕府に勝てない。幕府の方が勢力が上だ。護良ピンチ。そんな後醍醐や護良たちに奇跡が起こったのです。それは幕府側の有力武将の戦死および裏切りです。

まずは名越高家ナゴエタカイエの戦死です。名越は北条一門の有力だ武将でした。その名越は元弘ゲンコウ3年の4月27日、名越は赤松円心アカマツエンシン久我縄手コガナワテ(京都市伏見区)というところで戦いました。この時名越高家は流れ矢に当たって戦死してしまったのですね。これは幕府軍にとって大きな痛手した。

さらに幕府側だった足利高氏アシカガタカウジ(後の尊氏)が裏切り、後醍醐に味方したのです。それは元弘3年5月7日のこと。実は後醍醐は高氏に綸旨を高氏にだしていたのですね。それに高氏が応えた高氏。これが後醍醐が高氏を信頼するようになる理由のひとつなんですね。

ともあれ高氏が後醍醐側についたことは非常に大きかったのです。足利家も軍事力を持っていましたし、高氏をしたう武将たちはたくさんいましたから。高氏は、京都に攻め寄り幕府の六波羅探題ロクハラタンダイを攻撃。

さらに翌月の5月7日には新田義貞も倒幕のために挙兵。新田は幕府と関東各地で死闘を繰り広げました。新田義貞はその勢いに乗って5月21日に鎌倉に突入。幕府側もついに鎌倉幕府は滅びたのです。



2 ライバル高氏

 ロック原短大じゃなかったw六波羅探題を滅ぼした高氏は京都に奉行所を開設し、全国から京都にやってきた武将たちに着到状チャクトウジョウ (*1)や軍忠状グンチュウジョウ(*2)に承認の判を押す作業をしたり、京都の治安維持も行いました。え?高氏にそんな権限があるのかって?

幕府が滅んでも後醍醐天皇はすぐに京都に戻ったわけじゃなく、まだ鳥取県の船上山センジョウサンにいます。新政府の組織や制度もまだでき上がっておりません。京都は事実上の無政府状態だったのです。後醍醐が京都にもどるまでの間、高氏が仕切ったのは別に不自然なことではないのです。

そんな最中、高氏と護良がぶつかったのです。護良の家来に殿宝印良忠トノノホウインリョウチュウという坊さんがいましたが、その良忠の手のもの二十人が京都の土蔵を打ち破って財宝を運び去ったのですね。これは良忠が悪いというより、良忠の配下の兵は統制が取れておらずチンピラみたいな配下が少なくなかったのです。それで高氏は彼らをとらえ、首をはね、その首を六条河原ロクジョウカワラにさらしたのですね。

しかし、なぜか護良はこのことを激怒。これが護良と高氏の争いの始まりだと言われております。

3 尊氏を優遇
 後醍醐は元弘3年6月5日に京都に戻り、新しい体制を作るための準備に入りました。まず後醍醐は、皇太子を阿野廉子アノレンシの産んだ恒良親王ツネヨシシンノウでした。

後醍醐は高氏に昇殿ショウデンを許し、鎮守府大将軍チンジュフダイショウグンに任命。さらには官位を与えたり(正三位まで与えられた)、名前も高氏から尊氏タカウジと改名をしました。尊氏の「尊」は後醍醐の本名の「尊治」からとったもの。さらに尊氏は武蔵国(*3)や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。尊氏は雑訴決断所(※4)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※5)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。

実はこれ、後醍醐が尊氏を個人的に気に入っていたというより、尊氏の力に頼らざるを得ない現実があったからだと思われます。朝廷は独自の軍事力がなく、いたとしても野武士や僧兵ばかりでしたから。後醍醐はマキャベリストですから、仮に後醍醐が尊氏を内心嫌っていたとしても、足利の軍事力、尊氏の器量に甘えておいた方が得だと思ったのかも。

尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良から見て尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。しかも我が子である自分を差し置いて。で、護良はどうしたか。それはまた次回。


※1 合戦などで軍勢催促を受けて、または自主的に参戦した際に所定の場所に到着した旨を上申する文書。合戦における手柄を証明するものだった。
※2 合戦後に参戦したものが自身や一族の戦功などをかきあげて上申した文章。この軍忠状の内容に基づき論功行賞が行われた。
*3 今の東京都と埼玉県と神奈川県の一部

※4 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※5 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



* 参考文献



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