history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 鎌倉時代

北条時頼といえば、鎌倉幕府5代執権です。彼は20代で執権の地位に立ちましたが、彼が執権になってそうそうクーデータ未遂事件が起こるのですね。いわゆる宮騒動と呼ばれるものです。

鎌倉幕府は将軍と執権がおりまして、将軍は君臨すれども統治せずの立場で、執権が政治の実権を握っていたのです。源頼朝の時代はともかく、執権、つまり北条氏が権力を握っていたのです。頼朝の直系は3代で途絶えているので、幕府は摂関家から将軍をお迎えしていたのです。北条時頼の時代の将軍は、九条頼嗣でした。しかし、九条頼嗣はまだ若く、前将軍だった九条頼経が大きな顔をしていたのですね。そこへ御家人の名越氏が、御家人の三浦氏や九条頼経をそそのかし、クーデターを起こそうとしたのです。しかし、それは執権時頼が反乱の兆候を捉え、事前に取り押さえることができたから、大きなことにならなかったのです。歴史学者の磯田道史さんは北条氏のことを「地獄耳に千里眼の北条氏」とおっしゃっていたのですが、そうした北条氏の情報網はすごいなって。

おそらく名越氏と九条頼経らは、軍勢を集めているうちに北条に嗅ぎつけられたのでしょうね。軍勢を集めるとなると時間もかかるし、軍を集めるとなると、大掛かりな話になりますからね。やるんだったら、もっと秘密裏にやって、北条時頼を油断させて、暗殺するというやり方の方が良かったのでしょうが、名越氏はそれをしなかったのでしょうね。

また、北条時頼の抜け目のないところは三浦氏を味方につけたのですね。それで三浦氏と名越氏は仲違いさせることに成功したのですね。この宮騒動の結果、名越氏は流罪。九条頼経は鎌倉から追放され京都に送還されたのです。

しかし、時頼を悩ませる事件が翌年に起こります。宝治元年ホウジガンネンにおこた宝治合戦。これは安達景盛と三浦泰村の争いです。この事件の背景は安達氏と三浦氏の権力争いが背景にありました。

安達氏は北条時頼の母方の実家で、本来なら外祖父として権力を握れる立場なのですが、意外とそれほど権限はなく、三浦氏の方が大きな権力を持っていたのですね。三浦氏は人事に大きな発言力を持っていたと言います。三浦氏は名門であるし、宮騒動の時にも北条時頼に味方しましまたからね。三浦氏の専制ぶりに安達氏は不満を抱いていたのです。こうした三浦氏と安達氏の両家の対立に時頼は心を痛めておりました。

また、三浦氏当主である三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったのですが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍だった九条頼経の京都送還に同行し、九条頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていたとか。

だから、時頼は三浦氏を非常に警戒したのですね。実際、三浦氏は武具を集め、兵を集め、北条氏を倒そうとしているという噂も流れたとか。

時頼は三浦泰村邸に使者を派遣しました。泰村は「自分は、ありもしない噂を流され迷惑している」と答えたそうです。しかし、三浦館内に武具が揃えられていたのですね。三浦家は戦いの準備をしていたのです。時頼は悩んだことでしょう。鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、時頼は自分の腹心である平盛綱を泰村邸に送り、和平の義を成立させました。長期間の緊張を強いられていた泰村はこの和議を喜び、この直後に湯漬けを食して吐き戻したとか。


これで鎌倉も平和になると思いきや、その事を知った安達景盛は、三浦氏に戦いを挑んだのです。平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜いて、武装した安達の軍勢が館から出撃し、若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を襲ったのですね。奇襲を受けた泰村は仰天し舘に立て籠もって迎撃の構えを取りました。合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ始めて鎌倉に密集し、事態はめちゃくちゃになったのですね。

さらに悪いことに、それまで中立の立場だった北条時頼までも安達氏に味方してしまったのですね。三浦氏の館を攻め込まれ、三浦泰村は戦う意志を失ったのです。三浦光村は最後まで戦うべしという感じでしたが、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして、三浦泰村は弟の光村に法華堂へ来るように命じたのです。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かったのです。法華堂は源頼朝が祀られていたのです。三浦氏いや当時の御家人たちにとっては源頼朝は神様のような存在でしたから。


三浦泰村は死ぬ間際にこういったと言います。

「北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、私の父である三浦義村は他の一族の多くを滅ぼし、その罪は深い。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたといいます。

そして三浦氏にまつわるものたち500人余りが自害したとか。


それではクイズです。鎌倉幕府の成立は何年でしょうか?


  1. 1192年

  2. 1180年

  3. 1183年

  4. 1184年

  5. 1185年

  6. 1190年

  7. 4192年



明らかに違う7番以外は、どの年号も正しいとも間違いともいえないのです。ちなみに4192年とは「良い国」ですw


僕が習ったのが「いい国つくろう鎌倉幕府」で「1192年」でしたが、現代の教科書では1185年と書かれた教科書が多いのです。もちろん、鎌倉幕府の成立年は諸説があって、どれが正しくて、どれが間違いとはいえないのです。そんな話をしていきたいと思います。続きを読む

今日は楠木正成のお話を。俳優の高橋英樹さんがご出演されている歴史番組で楠木正成を取り上げていまして、冒頭で若い女性アナウンサーが「足利尊氏は知っているが、楠木正成はあまりよく知らない」と。若い世代だとそうでしょうね。でも、ある程度年配の方だと楠木正成を知っている方も多いかと思います。戦前は教科書に取り上げられて、天皇を守った忠君とされていたのです。逆に足利尊氏が天皇に反逆した悪者だと言われていたのです。さらに戦時中、全国各地の小学校などに楠木正成の像、いわゆる楠公像が設置されたのですね。要するにお前たちも楠公のように天皇につくせということでしょう。戦前・戦中は皇国史観でしたからね。もっといえば紙幣の肖像画にも楠木正成は描かれていました。

それが戦後になって皇国史観が否定され、楠木正成はGHQから軍国主義の象徴として否定されたのです。学校にあった楠公像は撤去され、教科書でもまともに取り上げられなくなりました。だから楠木正成を知らないという若者がいても不思議じゃないのです。

しかし、楠木正成がタブー視されても人々の心に残りました。楠木のことは、絵本や歌舞伎の題材にもなりました。

千早城の戦いなどの楠木正成の活躍ぶりに、高橋英樹さんは子供心にワクワクして、穴まで掘ったと番組でおっしゃっていました。高橋英樹さんは1944年生まれで、戦後教育を受けた世代ですが、その世代でも楠木正成はよく知られていたのですね。

楠木正成は元々は河内にいた地方の武士で、地元の人々から慕われていたのです。平和な時代ならば、楠木正成は平凡で普通の暮らしだけど、幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、楠木がいた時代はまさに大乱世でした。時の天皇の後醍醐天皇が野心を抱き、幕府を倒そうとしていました。しかし兵をもたない天皇が強力な軍隊を持つ幕府に敵うはずがありません。そこで天皇が目をつけたのが楠木正成。

楠木正成が後醍醐に謁見すると、後醍醐は意外な話をするのです。後醍醐は「夢を見た」と。その夢の内容というのが、後醍醐が不思議な場所に来て、そこには大きな木があったというのです。しばらくすると2人の子供が出てきて、その子供たちが「陛下が座るところは、この木しかありません」と告げたと。その木は南側にあったのです。木という漢字と南という漢字をドッキングさせると「楠」という漢字になります。それで後醍醐は楠木こそ自分を助けてくれる人間だと神様が教えてくれたと思ったのでしょう。

その話を聞いた楠木は感激し、「少ない兵力でも知略を尽くせば、幕府に勝てる」と力強く後醍醐に言いました。

もっとも、この夢の話は「太平記」に出てきたことで、本当に後醍醐がこんな夢を見たかどうかはわかりません。おそらく、後醍醐があちこちの武士たちに声をかけたが断られ、たまたま楠木に声をかけたらOKしてくれたという話だと思います。



早速、楠木正成は後醍醐のために立ち上がりました。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に立て篭もり、幕府と戦ったのです。後醍醐に呼応して、楠木は河内の赤坂に城を築いて立て籠ったのです。しかし楠木に味方したは、わずか五百人。これに対し幕府は、鎌倉だけでなく、京にある出先機関の六波羅探題と合わせて数万の兵士を派遣したのです。その中には足利高氏もいたのです。高氏はこの頃は幕府側だったのです。結局、笠置山に立てこもった後醍醐は負けてしまい、隠岐に流されてしまいます。

一方の楠木は幕府の大軍相手に善戦をしたのです。赤坂城は山城だったのですが、城から丸太やら岩を落としたり、奇想天外なゲリラ戦で立ち向かったのです。最後に楠木は城に火を放ち、退散したのです。赤坂城が炎上し、幕府側は楠木が死んだと思ったのです。その後、1年間、楠木は身を隠していたのです。


しばらく身を隠していた楠木は再び兵をあげ北条勢が占領していた赤坂城を取り戻したのです。今度は金剛山に千早城をつくり、楠木軍は千早城に立てこもりました。死んだと思っていた楠木が現れたことに幕府は驚いたのです。さらに後醍醐天皇の息子の護良新王が吉野で挙兵。幕府は衝撃を受け、楠木正成と護良親王に賞金首をかけます。

金剛山は険しい山でそこに築かれた千早城は深い谷に囲まれた、守りの硬い山城でした。正成はヨロイを着せたワラ人形で敵をおびきよせ、上から石を落としたり、熱湯や、おしっこやウンチ💩wまで投げたと言います。ばっちいぃな。そうやって幕府の大軍を苦しめたのです。楠木正成がこのように籠城したのは自らが幕府軍に勝つためではなく、あくまで時間稼ぎ。全国に鎌倉幕府に不満を持っている武将たちはたくさんいる。自分達が粘り強く幕府と戦えば、そういった武将たちも反旗を翻すと。楠はそれを待っていたのです。

元弘3年(1333)には隠岐に流された後醍醐天皇は地元の豪族の力を借りて島を脱出。そして全国の武士たちに幕府討伐の綸旨を出したのです。それは幕府側にいた足利高氏にも声がかかりました。そして、綸旨を受けた足利高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻撃。同じ頃、新田義貞も鎌倉を攻撃。これで鎌倉幕府はほろんだのです。それから楠木正成は、天皇の護衛役を命じられたのです。

そして後醍醐天皇は自ら政治を行いました。いわゆる建武の新政です。しかし、あまりに性急な政治改革だった上に朝令暮改を繰り返したので、世の中は混乱し、人々の不満が高まったのです。さらに恩賞も公家には厚く、武士には薄くという不公平なものだったのです。これには武士たちも怒ったのですね。足利高氏は優遇された方で、尊氏という名前も後醍醐からもらったのです。が、後醍醐は尊氏を警戒し、征夷大将軍も護良親王に命じたほど。強力な軍事力を持つ尊氏が幕府を開くことを恐れたのです。

北条氏の残党を討伐するために尊氏は鎌倉に派遣されましたが、戦の後、京に戻らず、天皇の許可もなしに味方に恩賞を与えたのです。そのことに怒った後醍醐は、新田義貞を派遣し、尊氏を討伐しようとしたのです。それは建武2年(1335)のこと。

尊氏は新田軍を撃破、逃げる新田を追い京に上ったのです。しかし、大軍を率いて東北からやってきた北畠顕家の応援を得て、新田義貞、楠木正成らの軍勢が総攻撃。たまらず尊氏は九州に逃げ延びたのです。

延元元年(1336)、尊氏は西国の武士たちを味方につけた上に、光厳上皇から新田討伐の院宣を得たのです。光厳上皇は持明院統で大覚寺等の後醍醐とは対立していたのです。この上皇の院宣で尊氏は朝敵ではなくなったのです。そして、尊氏軍は京に登ろうとしたのです。後醍醐大ピンチです。

その時、正成は後醍醐に進言したのです。まず、天皇は都から離れると。海からやってくる尊氏を京に誘き寄せると。そのすきに正成たちが尊氏の水軍を攻撃し、補給をたつ。そして、都にいる尊氏を攻撃すると。しかし、その案を天皇は却下。天皇の側近、坊門清忠など公家たちが「帝が京を逃げたら対面が悪い」と批判したのです。公家たちは軍事を知らなかったのですね。

そして後醍醐は、新田と共に尊氏と戦えと命令するのですね。これはまさに負け戦。楠木正成にとって死刑宣告のようなもの。

死を覚悟した楠木正成は大阪の桜井にて息子に別れを告げたと言います。そして息子を母の元に帰したと言います。かくて新田一万騎と楠木700騎は、摂津の湊川付近で、尊氏の大軍と戦いましたが、この戦で楠木正成は戦死します。

実は楠木正成が世に出て活躍したのは5年くらいしかなく、彼の生い立ちなど詳細なことはわかっていないのですね。それでも、楠木正成の戦いぶりは後の世から高く評価され、人々に語り継がれて行ったのです。

今日は父の日です。父に感謝をする日でありますが、正直僕は子供の頃父が大嫌いでした。今では父にたいして以前のような感情は持たなくなりました。父の誕生日も近いので、プレゼントをしようかなって思ってます。

さて、歴史を振り返ってみると、父と子の対立の話はよくある話なんですよね。宮沢賢治と父、武田信玄と武田信虎、足利義満と足利義持、それから護良親王と後醍醐天皇。


後醍醐は護良がスタンドプレーばかりしていたので、怒って護良を幽閉しました。護良のスタンドプレーは後醍醐には護良の反抗に思えたのでしょう。親に反抗という面では、後醍醐もあんまり護良のことを非難できないのですね。実は後醍醐も父親に反発していたのです。後醍醐の父親は後宇多天皇ゴウダテンノウと言いますが、後醍醐天皇は本来天皇になれる人ではなかったのです。

後醍醐の話をするにあたって、この時代の複雑な事情をお話しします。持明院統ジミョウイントウ(※1)と大覚寺統ダイカクジトウ(※2)と皇室が二つに割れていて、皇位を巡って両者が対立していたのです。持明院統も大覚寺統も元々は兄弟だったのですが、兄弟で天皇の座を争っていたのです。それで両統迭立リョウトウテツリツ(※3)といい、持明院統と大覚寺統の両統が変わりばんこで即位していたのです。大覚寺統の天皇が即位したら、次は持明院統の天皇。その天皇が退位したら今度は大覚寺統という具合に。それも一〇年経ったら天皇は退位して次の天皇にバトンを渡さなきゃいけないのです。

「あれ、こんなに天皇がすぐにコロコロ変わるものなの?天皇は生きていいるうちはずっと天皇の位にあるんじゃないの」と思うのは現代人の感覚。即位から亡くなるまで天皇の位につくというのは明治以降。今の上皇様のように生前退位したのは明治以降では実は初めて。しかし、この時代は10年で天皇の位を降りる、つまり生前退位したのですね。

後醍醐には後二条天皇(大覚寺統)という兄がいました。後二条天皇の後任が、持明院統の花園天皇が即位し、その花園天皇(持)の後任に後宇多天皇(大)は自分の孫の邦良親王クニヨシシンノウ(後二条天皇の子で大覚寺統)に帝位を継がせたかったのです。しかし、邦良親王(大)が8歳と幼かったので、中継ぎとして後醍醐天皇(大)が即位し、邦良親王(大)が成長したら、邦良親王(大)に天皇の座を譲らなければならないのです。

野球に例えれば後醍醐は監督代行みたいなもの。監督が成績不振でシーズン途中で休養し、それでヘッドコーチ等がシーズン終了まで監督の代わりを務め、次の監督にバトンタッチするのが監督代行。オリックスの中嶋聡監督みたいに監督代行からそのまま正規の監督になるケースもありますが、基本的に監督代行はシーズンが終わったら退団します。

中継ぎも大事な役割だと思うのですが、後醍醐はそれに納得できませんでした。後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発したのです。つまり、父の言うことを聞いていたら、自分の子供を天皇にすることもできないし、せっかく自分が手に入れた天皇の地位もやがてはオイの邦良親王に譲らなくてはならないのですから。だからこそ後醍醐は父の後宇多天皇の言いつけに背いたのです。


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※1 後深草天皇から発した皇統。大覚寺統と皇位を争うが、建武の新政により一時衰退。のちの北朝
※2 亀山天皇から発した皇統。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立となる。のちの南朝。
※3 持明院統と大覚寺統の両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇室が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。天皇の在位期間は10年。



今日は新田義貞のお話。新田といえば幕府を滅亡させた功労者の一人です。新田義貞と幕府の戦いといえば、小手指原コテサシガワラ(埼玉県の所沢や小手指あたり)、久米川クメガワ(東京都東村山市あたり)の合戦、そして分倍河原ブバイガワラ(東京都府中市)の合戦です。いづれの合戦も激闘で多くの人が亡くなっております。今日はこの3つの戦いのお話をします。



元弘3年(1333年)5月8日、足利高氏アシカガタカウジが京都の六波羅探題ロクハラタンダイ陥落カンラクさせましたが、新田義貞も挙兵し、鎌倉幕府と戦いました。

義貞が挙兵したのは、護良の令旨に応えたとも、後醍醐の綸旨に応えたとも言われておりますが、やはり幕府への不満が大きいです。実は義貞は楠木正成がこもる千早城攻めに幕府側として参加していたのです。それが病気を理由に領国に帰っていたのです。そこに幕府から戦費調達として銭6万貫を差し出せと命令が下ったのです。義貞はこの要求を突っぱね、逆に戦費を出せと言ってきた幕府の役人を斬ってしまったのです。これに激怒した幕府が義貞追討の命令を発したため、義貞は幕府と戦う決心がついたのです。元々、義貞は内心幕府に不満があったし、足利高氏も幕府を裏切ったので、「じゃあ俺も」って思ったかもしれません。

元弘3年(1333年)5月11日、新田義貞と幕府軍がぶつかったのが小手指河原。この戦いは両軍いり混じる戦いで、朝から夕刻まで続いたと言います。新田軍は300騎が亡くなり、幕府が500騎犠牲になったと言います。結局、両軍の戦いは決着がつかず、新田軍は入間川へ、幕府軍は久米川へ撤退したと言います。

久米川では、新田が先手をとり、数で勝る新田軍が幕府軍を追い詰めたと言います。この久米川の戦いに勝利した新田軍は八国山に将軍塚をつくったと言います。

そして、幕府軍は分倍河原まで逃げたと言います。分倍河原は武蔵国の首府・府中に近く、鎌倉幕府にとっては鎌倉を守るための最後の防衛線でした。そのため、幕府は援軍を送ったと言います。幕府軍も善戦し、一度は新田軍を押し返したと言います。ちなみに新田義貞の軍勢はそのドサクサに紛れて国分寺をもやしたといいます。しかし、そんな新田に相模国の名門の三浦氏などが新田の味方をし、再び新田は幕府軍に立ち向かいます。そして幕府軍は多くの犠牲を出し敗退します。

分倍河原は激戦は凄まじく、かつては心霊スポットとしても有名でした。僕が聞いた話では、分倍河原の合戦場だったところを走る電車の車窓に血まみれの手が映ったとか、周辺のアパートで武将に襲われる夢を見た人がいたとか、、そんな話も僕は聞いたことがあります。僕の知り合いのおばあちゃんが亡くなるまで、分倍河原で戦死した者たちの供養をしてましたっけ。でも、最近は分倍河原で霊をみたという話は聞かないですね。

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(新田義貞)

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(分倍原の合戦場跡)

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(同じく合戦場跡)

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(分倍原の説明板)



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(三千人塚 鎌倉時代後期の墓地。分倍河原の合戦の犠牲者の墓ではないようですし、この石碑も江戸時代に作られたと言います)

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(三千人塚の説明板)


参考文献


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