history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 鎌倉時代

1 護良たちに起きた奇跡
護良親王モリヨシシンノウ楠木正成クスノキマサシゲたちの奮戦もむなしく幕府は倒れそうにもありません。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウも無事隠岐島オキノシマから生還したし、護良側に味方する武将が続々現れたけれど、それでも幕府に到底及びません。その戦力差は明らかでした。千早城に立てこもっている楠木も幕府の猛攻撃に長くはえきれぬ状況だったのです。

護良はあせりました。このままでは幕府に勝てない。幕府の方が勢力が上だ。護良ピンチ。そんな後醍醐や護良たちに奇跡が起こったのです。それは幕府側の有力武将の戦死および裏切りです。

まずは名越高家ナゴエタカイエの戦死です。名越は北条一門の有力だ武将でした。その名越は元弘ゲンコウ3年の4月27日、名越は赤松円心アカマツエンシン久我縄手コガナワテ(京都市伏見区)というところで戦いました。この時名越高家は流れ矢に当たって戦死してしまったのですね。これは幕府軍にとって大きな痛手した。

さらに幕府側だった足利高氏アシカガタカウジ(後の尊氏)が裏切り、後醍醐に味方したのです。それは元弘3年5月7日のこと。実は後醍醐は高氏に綸旨を高氏にだしていたのですね。それに高氏が応えた高氏。これが後醍醐が高氏を信頼するようになる理由のひとつなんですね。

ともあれ高氏が後醍醐側についたことは非常に大きかったのです。足利家も軍事力を持っていましたし、高氏をしたう武将たちはたくさんいましたから。高氏は、京都に攻め寄り幕府の六波羅探題ロクハラタンダイを攻撃。

さらに翌月の5月7日には新田義貞も倒幕のために挙兵。新田は幕府と関東各地で死闘を繰り広げました。新田義貞はその勢いに乗って5月21日に鎌倉に突入。幕府側もついに鎌倉幕府は滅びたのです。



2 ライバル高氏

 ロック原短大じゃなかったw六波羅探題を滅ぼした高氏は京都に奉行所を開設し、全国から京都にやってきた武将たちに着到状チャクトウジョウ (*1)や軍忠状グンチュウジョウ(*2)に承認の判を押す作業をしたり、京都の治安維持も行いました。え?高氏にそんな権限があるのかって?

幕府が滅んでも後醍醐天皇はすぐに京都に戻ったわけじゃなく、まだ鳥取県の船上山センジョウサンにいます。新政府の組織や制度もまだでき上がっておりません。京都は事実上の無政府状態だったのです。後醍醐が京都にもどるまでの間、高氏が仕切ったのは別に不自然なことではないのです。

そんな最中、高氏と護良がぶつかったのです。護良の家来に殿宝印良忠トノノホウインリョウチュウという坊さんがいましたが、その良忠の手のもの二十人が京都の土蔵を打ち破って財宝を運び去ったのですね。これは良忠が悪いというより、良忠の配下の兵は統制が取れておらずチンピラみたいな配下が少なくなかったのです。それで高氏は彼らをとらえ、首をはね、その首を六条河原ロクジョウカワラにさらしたのですね。

しかし、なぜか護良はこのことを激怒。これが護良と高氏の争いの始まりだと言われております。

3 尊氏を優遇
 後醍醐は元弘3年6月5日に京都に戻り、新しい体制を作るための準備に入りました。まず後醍醐は、皇太子を阿野廉子アノレンシの産んだ恒良親王ツネヨシシンノウでした。

後醍醐は高氏に昇殿ショウデンを許し、鎮守府大将軍チンジュフダイショウグンに任命。さらには官位を与えたり(正三位まで与えられた)、名前も高氏から尊氏タカウジと改名をしました。尊氏の「尊」は後醍醐の本名の「尊治」からとったもの。さらに尊氏は武蔵国(*3)や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。尊氏は雑訴決断所(※4)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※5)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。

実はこれ、後醍醐が尊氏を個人的に気に入っていたというより、尊氏の力に頼らざるを得ない現実があったからだと思われます。朝廷は独自の軍事力がなく、いたとしても野武士や僧兵ばかりでしたから。後醍醐はマキャベリストですから、仮に後醍醐が尊氏を内心嫌っていたとしても、足利の軍事力、尊氏の器量に甘えておいた方が得だと思ったのかも。

尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良から見て尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。しかも我が子である自分を差し置いて。で、護良はどうしたか。それはまた次回。


※1 合戦などで軍勢催促を受けて、または自主的に参戦した際に所定の場所に到着した旨を上申する文書。合戦における手柄を証明するものだった。
※2 合戦後に参戦したものが自身や一族の戦功などをかきあげて上申した文章。この軍忠状の内容に基づき論功行賞が行われた。
*3 今の東京都と埼玉県と神奈川県の一部

※4 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※5 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



* 参考文献



一方で家来だった村上彦四郎が犠牲になったことを触れました。今日はその続きです。護良は吉野から高野山へ落ち延びました。それは後日、幕府側の二階堂貞藤ニカイドウサダフジは護良が死んでいないことを知りました。二階堂は高野山に押し寄せ「護良はどこだ出てこい!」と言って尋ねました。




このとき、高野山のお坊さんたちは護良をかくまっていたのですね。護良は高野山の大塔のはりに隠れていたのですね。結局、二階堂たちは護良を探し出すことができませんでした。実は元々高野山は護良には非協力的だったのですが、吉野山落城後は護良に協力的だったのです。

護良は機内キナイをあちこち転々としながら、ゲリラ活動を行いました。そのゲリラ活動をしながら、護良は令旨リョウジを各地に発給していました。これは護良を語る上で欠かせない言葉です。令旨とは、親王や皇后などが出す文章で、従者が主人の意思を奉じて従者の署名で発給する形式のものです。

平たくいえば、天皇の子供や皇后が出した手紙です。それも内容はだいたい命令です。令旨の内容は、護良は武将たちだけでなく、お寺や神社、武装商人にまで呼びかけ、鎌倉幕府をやっつけろという内容がメイン。

さらに令旨の内容をさらに詳しくみてみると「北条高時は在長官人時政の子孫に過ぎない」とまで書いてあったのです。北条高時は時の執権でまさに鎌倉幕府の最高権力者。今で言えば、「菅総理だって、元々は農民の子孫」っていうようなもの。護良が時の権力者が地方の下級役人に過ぎなかったと宣伝することによって、北条氏の権威を失落させようとしたのです。そんな北条なんて恐るるに足らぬから戦えということでしょう。

もちろんこのように幕府と戦えもそうですが、お寺に対しては祈祷や供養をお願いなどもありました。

令旨は護良の直筆ではなく、護良の従者である四条隆貞シジョウタカサダらが護良の意思を奉じて発給する形式を取っています。この時代はパソコンも印刷もコピー機もなかった時代ですからね。手書きの文書を複数書くのは大変だったと思います。

実は護良は吉野で挙兵する前(*1)から令旨を出していたのですが、最も盛んに令旨を発給したのは元弘3年。護良は武将たちに決起を促していたのです。その範囲も機内だけでなく、新潟や九州までほぼ全国にわたったといいます。

後醍醐天皇が隠岐オキに流されどうすることもできなかったから、父の代わりに護良が各地の武将たちに倒幕の呼びかけをしていたのです。


どうすることもできないと言っても、父の後醍醐も1332年(元弘2)8月に、出雲<rt>イズモ国の鰐淵寺ガクエンジに念願成就の祈祷キトウ綸旨リンジを出しております。綸旨とは、天皇が出す命令書のこと。護良が出したのは令旨。綸旨と令旨、似たような言葉ですが、意味合いは全く違います。後醍醐が隠岐島に閉じ込められていましたが、それでも綸旨を出したのは、後醍醐が護良に呼応したからだと思われます。護良と後醍醐は連絡を取り合っていたようです。



そして、護良の呼びかけに赤松円心アカマツエンシン(則村)も護良の令旨に応じたと言います。赤松円心は、護良の家来だった赤松則祐アカマツノリスケの父親です。赤松則祐は護良の令旨を持参し、父のいる播磨の国に行ったそうです。そして、赤松円心も挙兵をします。赤松円心は、京の六波羅を攻めます。赤松軍の勢いは凄まじく京まで上り詰めますが、しかし六波羅の反攻も凄まじく、赤松軍は山崎まで追いやられます。山崎といえば、のちに明智光秀と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が戦った場所であり、今はサントリーのビール工場があります。赤松軍は京に登っては六波羅軍に山崎まで押し戻されということを繰り返したのですね。さすがの赤松でも六波羅に苦戦を強いられております。




赤松の他にも九州の武将や四国の武将たちも立ち上がりました。こうして護良は令旨でもって味方を増やして、幕府に立ち向かったのです。

また、護良自身も十津川トツガワや吉野、宇陀ウダなど地元の野武士を7000人も集めたといます。その野武士たちが、幕府側の兵糧を遮断シャダンしたと言います。そのため幕府軍は食べるものもなくなり、少しづつ退散し始めたと言います。

護良は比叡山ヒエイザンにも令旨を送っていました。3月28日に比叡山は蜂起ホウキし近隣の豪族を含め1万6千もの大軍勢が六波羅に押し寄せたと言います。しかし、比叡山軍は烏合ウゴウの衆。すでに六波羅と戦っている赤松と連携も取れず、結局、六波羅軍に負けてしまいます。


そして元弘3年 ウルウ二月には後醍醐が隠岐島オキノシマを脱出します。後醍醐は本州に戻るなり、名和長利ナワナガトシに迎えられ、伯耆ホウキ船上山センジョウサンに立て篭もります。後醍醐が戻ってきたところで、これで倒幕運動がさらに盛り上がるかと思いきや、幕府軍はまだまだ圧倒的な強さを持っていました。護良はどうなるのか。それはまた次回。

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(相関図 肖像画はWikipediaより引用)


1 記録に残っている中で護良が出した令旨で一番古いのが元弘2年6月6日、熊野三山宛に令旨を書いていたのです。護良が吉野に立てこもる半年ほど前のこと。また、同じ月の末に護良の令旨を所持する竹原八郎が伊勢国に入り、幕府の屋敷を襲ったという。


※ 参考文献


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(このエントリーに出てくる主な登場人物の相関関係)

今回の記事は色々な人物が出てくるので、今日の記事に出てくる主な人物の相関関係を図にしてみました。南北朝の動乱は色々な登場人物が入り乱れるので、ややこしいので、こういった相関関係を把握しないと後でわからなくなるのですね。僕は南北朝の動乱を描いた「太平記」(子供向け)を読んでいるのですが、子供向けの内容でさえ、物語に色々な人が出てきて頭がこんがらがるもの。そういう意味で「太平記」と「Zガンダム」は似ているなって。今日は護良親王が絶体絶命のピンチになってしまうというお話し。昔、山口百恵さんの曲に「絶体絶命」って曲がありましたが。余談はこれくらいにして、本題に入りますw


前回の記事で、護良親王もりよししんのうが奈良の般若寺ハンニャデラで身をひそめたことを触れました。般若寺を後にした護良は山伏ヤマブシに姿を変え、後から護良の元へかけつけた九人の武士たちともに紀伊国熊野キイノクニクマノ方面を目指したのです。その九人というのが光林房玄尊コウリンボウゲンソン赤松則祐アカマツソクユウ木寺相模コデラノサガミ岡本三河房オカモトノミカワボウ武蔵房ムサシボウ片岡八郎カタオカハチロウ矢田彦七ヤダヒコシチ平賀三郎ヒラガノサブロウ村上彦四郎ムラカミヒコシロウです。

この頃、護良は還俗ゲンゾク(*1)をしました。護良はそれまでお坊さんの肩書だったのですが、それを捨ててしまったのですね。

熊野三山は霊山として名高く、参拝する人も少なくなかったのです。それで、護良一行は参拝者に紛れこみ、鎌倉幕府打倒のチャンスを待っていたのですね。ところが、熊野三山の別当(*2)である 定遍僧都ジョウヘンソウズが完全に幕府よりだったので、仕方なく護良一行は十津川トツガワ へ向かったのです。


十津川までの道のりは険しいものでした。何しろ山岳地域に入らなくてはならない上に、道も整備されておりません。さすがの護良一行も疲れ果て、汗はダラダラ流れるし、足はガクガク、ワラジには血がにじむほどでした。しかも食べ物もろくにないから腹は減る。何しろ車も自転車さえもない時代でしたからね。それでもみんな弱音をはかず、互いにこしを押し、足を引っ張り合いながらじゃなかったw、手を引っ張り合いながら、どうにか十津川にたどり着きました。

十津川に入った一行は、現地の武士である戸野兵衛トノヒョウエの妻が病にふしていたので、護良が加持祈祷カジキトウを行い、千手陀羅尼センジュダラニも唱えたと言います。すると、妻の病気はたちまち良くなったと。兵衛は感激し、護良の味方になったのですね。また、兵衛のおじの竹原八郎も護良に協力するようになったにです。それから半年ばかり護良一行は、十津川に滞在していたのです。護良に訪れたつかの間の平和な日々でした。しかし、それから半年たって護良が十津川にいるといううわさが広まったのです。護良をつかまえたものは賞金を与えるというおふれまで出たのです。護良はお尋ね者になったのです。こうなると護良は十津川にいられません。護良は十津川を後にしました。

「太平記」によると、護良一行が十津川から逃げる途中で、荘園の役人に引き止められ、護良一行が持っていた大事な錦の御旗(※3)を取られてしまうのですが、遅れてやって来た村上彦四郎が、その役人から錦の御旗を取り戻すというお話が出てきます。






護良一行に、またしてもピンチが訪れます。今度は幕府側の玉置浩二さんじゃなかったw玉置荘司タマキショウジの軍勢に囲まれてしまいます。

護良、絶体絶命。護良はもはやこれまでと部下に「自分は自害するから、面の皮を剥ぎ、鼻を切って誰の首かわからなくして捨てよ。」とまで言ったとか。死を覚悟していたのですね。そこへ紀伊国の住人の野長瀬六郎ノナガセロクロウと野長瀬七郎の兄弟が3000騎を率いて護良を助けたのです。護良は絶体絶命のピンチを切り抜けたのです。よかったですね。

そして護良は吉野入りを果たし、挙兵をしたのです。吉野に立てこもった護良はどうなったか。そのお話はまた次回取り上げます。


*1 度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。
*2 紀州熊野三山(本宮,新宮,那智)を統轄,管理した首長。
*3 この旗は天皇方であることの印であり、これを奉ずることで逆賊(天皇にそむくもの)ではないという証になる。




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(村上彦四郎の像)


* 参考文献






後醍醐天皇ごだいごてんのうが鎌倉幕府を倒すべく立ち上がりました。元徳3年(1331)4月末、後醍醐天皇はクーデター計画をたてましたが、事前にそのクーデター計画が秘密がもれてしまい失敗してしまいます。そして、その年の8月(※1)に後醍醐天皇を逮捕しようと、幕府が動きました。その情報を護良は事前にキャッチし、父の後醍醐に伝えたといいます。護良は比叡山が持っている独自の情報網を活用して、幕府の動向をつかんだのです。それで、後醍醐はその報を受け、自分の家臣を影武者として比叡山ひえいざんに派遣し、護良もそれに同行しました。そして後醍醐一行は南部方面へと向かったといいます。後醍醐は笠置城かさぎやま(※2)にたてこもり、幕府と戦おうとしたのです。

そして、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題ろくはらたんだい(※3)が軍勢を派遣し比叡山へ向かったのです。比叡山の僧兵たちは、自分たちの目の前にいる天皇を守るべく立ち上がったのです。その目の前にいる天皇が替え玉だと知らずに。護良も一緒に戦いました。

護良と比叡山の僧兵たちが六波羅軍を引き付けておくすきに、後醍醐は笠置山にたてこもりながら、幕府に不満を持っている武将たちと合流し、軍勢を整えるという戦法です。護良もなかなかの策士じゃなかったw策士ですね。

比叡山の僧兵たちは、いまの滋賀県大津市の唐崎からさきの浜で六波羅の軍勢を撃破したのですね。すごいですね。六波羅軍といえば武士集団。それに立ち向かったのが僧兵。武士が僧兵に負けたというのだから。逆にいえば、それくらい当時の僧兵たちが強かったということでしょう。もちろん、護良の活躍もあったと思われますが。

勝ったのはよかったものの、そのあとでトラブルになったのですね。実は、比叡山にいるのが後醍醐天皇ではなく、替え玉だってことが、僧兵たちの間にばれてしまったのですね。僧兵たちは「はかられた」と言ってみんな退散してしまいます。護良たちは「これは、やべえ」って比叡山を降りてしまい、後醍醐のいるか笠置山に逃げ延びます。

そして、すぐさま護良は河内かわちの国の楠木正成くすのきまさしげの館に入ったといいます。楠木正成といえば南朝側の名将とされております。『ガンダム』に例えればランバ・ラルのような方でしょうか。大河ドラマの『太平記』では金八先生こと武田鉄矢さんが演じられていたのが印象的でした。そこで護良と楠木の間でどんな会話が交わされたのでしょうね?

しかし、ここでも護良はすぐに離れてしまい、奈良の般若寺はんにゃでらにしばらく潜伏せんぷくしたのです。興福寺一条院こうふくじいちじょういんの僧、好専こうせんが500人もの兵を連れ、護良を捜索そうさくしたのですね。なぜ好専が護良を探しているのか僕もよくわからないのですが、坊さんでも護良の味方ではないことは確かでしょう。この時の護良には従者が一人もおらず、一度は自害も覚悟していたといいます。そんな時、護良はひらめきます。仏壇ぶつだんの前のからびつが3つあり、そのうちの一つの中に身を潜め、あえてフタを開けたまま隠れたといいます。その唐びつのなかには経典がいっぱい入っていて、その中に護良はまぎれて隠れたのですね。護良はその時心の中で呪文を唱えていたといいます。

僧兵たちは護良が隠れていそうなところをあれこれ、さがしますが、護良がかくれている唐びつの中を探そうとしません。フタがあいているし、唐びつのなかには経典しかないから、わざわざ探す必要はないと僧兵たちは思って、その場を去ったのですね。

しかし、護良はそれで油断しませんでした。「あいつら、しつこいからまた探しに来る」って。それで護良は唐びつの中から出て、すでに兵が確認した(さっき護良が隠れていたのとは別の)唐びつに身を潜めました。案の定、僧兵たちは戻ってくるなり、今度は護良がさきほどまで隠れていたフタの空いていた唐びつをさがしました。その中には護良はいません。あきらめて僧兵たちは去っていきました。こうして護良は命拾いしたのです。頭いいですね。その時、護良は「神仏の助け」と涙を流して喜んだとか。



一方の父の後醍醐天皇は笠置城に立てこもっていたのですが、幕府軍にあえなく敗れてしまい、後醍醐は隠岐島おきのしまに流されてしまうのです。父が島流しにあい、護良はどう動いたか。当然、護良は父に代わって自分が頑張らなきゃとメラメラと燃えたのですね。




※1 1331年の8月9日に「元弘げんこう」と改元された。
※2  京都府笠置町にあった城
※3 1221年の承久の乱後に置かれた幕府の出先機関。主に朝廷の監視が任務。
  


※ 参考文献   





      

1 護良、比叡山で修行
 梶井門跡かじいもんせきに入室した護良親王もりよししんのうは、尊雲法親王そんうんほうしんのうと称されました。護良はそこで承鎮法親王しょうちんほうしんのうの弟子になりました。承鎮は、承久の乱を起こして鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇ごとばじょうこう曽孫ひまごです。つまり承鎮にとって後鳥羽上皇はひいおじいちゃんに当たります。しかも、当然、承鎮のおじいちゃんの順徳天皇ジュントクテンノウ(後鳥羽上皇の息子)という人がモーレツなほどのアンチ幕府。鎌倉幕府に対する憎しみみたいな感情があったのです。

さらに護良が入室した房(※1)の祖師というのが澄覚法親王チョウカクホウシンノウという皇族で、この澄覚というのが後鳥羽上皇の孫なのですね。澄覚もまた鎌倉幕府が嫌いだったはず。護良が梶井門跡に入ったときには、澄覚は亡くなっていたので、直接会ったことはありませんが、澄覚のスピリッツは脈々と受け継がれていったはず。

護良にとって、倒幕に命をかけた後鳥羽上皇の親族たちの影響は大きかった。そうして、幕府への反感や憎しみが芽生えたのではないかと。



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(梶井門跡の関係者の家系図)

2 文武両道だった護良
そして、護良が取り組んだのが武芸のけいこでした。仏教の勉強そっちのけで、朝から晩まで僧兵を相手に武芸のけいこをしていたとか。だから、護良は筋骨たくましい体格だったようです。幕府を倒すためには自分が立ち上がらなければだめだと護良は思ったのでしょうね。

護良は武器の扱い方も免許皆伝めんきょかいでんだったとか。特に弓の得意だったいわれております。また身体能力も高く、7しゃく屏風びょうぶを飛び越えたとか。7尺と言ったら、180センチないしな200センチくらいだといわれております。すごいですね。まさにアスリートです。



また、運動神経だけでなく頭もよく、一を知れば銃じゃなかったw十を知ることができて、特に兵法を熱心に勉強したとか。護良親王はまさに文武両道。勉強もスポーツもできて、しかも護良の顔立ちはやや丸顔で切長の鋭い目。イケメンだったみたい。また人間性も良かったようで比叡山の僧侶からも慕われていたのです。まさに、何をやらせても万能な『ドラえもん』に出てくる出木杉くん。


護良は二十歳の時に天台座主てんだいざすに任命されました。これってすごいことなんですよ。二十歳で比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじのトップってことですから。天台座主になっても、仏教の勉強そっちのけで武芸ばかりやるものだから、比叡山のお坊さんたちは護良を「不思議な門主」って護良のことを言っていたのですね。

とはいえ、護良は全く仏教も知らないで、天台座主になれないと思います。


たとえば、後醍醐天皇が比叡山に行幸ぎょうこうしたのですが、その際大講堂供養が行われました。座主の護良親王が、法語をとなえ施主せしゅ(※2)の幸福を祈願する呪願師じゅがんしをつとめたのです。ちなみに、その供養の導師(※3)を護良の異母弟の尊澄法親王そんちょうほうしんのうがつとめました。のちに護良が部下とともにゲリラ戦をしていた時も病人を法力でなおしたり、鎌倉幕府滅亡後に護良が土牢つちろうに閉じ込められいたときは法華経をよんでいたといいます。



3 護良の欠点
出木杉くんみたいなカンペキ人間な護良親王ですが、、そんな彼にも欠点がありました。なんだと思われます

実は護良親王は気性が激しいところがあったのです。怒り出したらその炎🔥が燃え出しブレーキがきかなくなり暴走してスタンドプレーをやらかすような。ちょうどΖガンダムに出てくるカツのような感じだったのでしょう。カツと出木杉くんを足して二で割ったのが護良というところでしょうか。しかし、その気性が後に彼にとって命取りになるのですね

気性もそうですが、護良は政治力がなかったのです。それが後にライバルとなる足利尊氏との差なんですね。護良は頭は良かったのですが、政治力と頭の良さはまた違いますからね。護良がいくら何でもできたって一人では天下を握れませんからね。もし護良に竹下登元首相のような政治力があったら、間違いなく護良は尊氏に代わって天下を取っていたでしょう。ましてや、太平記の時代は本当にカオスで、ある意味戦国時代よりひどい時代でしたから、余計護良にはツライ時代だったと思います。

また、護良が修業時代に赤松則祐あかまつそくゆうとの縁がつながったことは大きい。則祐は赤松円心アカマツエンシンの息子です。赤松氏は播磨国はりまこく(※4)西部を本拠とし、のちに室町幕府の播磨守護になった武家です。則祐もこのとき出家していて比叡山に入っちたのですね。それで赤松則祐と護良はこの時意気投合したのですね。倒幕の際、護良が機内近国で粘り強いゲリラ戦を展開できたのも、赤松のもっていたネットワークが大きかったといわれております。




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護良の像。怖え、メッチャ怒ってるやん。性格がキツそうだw)




*1 お坊さんが寝泊まりをするところ
*2 一周忌や四十九にちなどの法要を行う当主のこと。
*3  法要の際、中心となって儀式をとりしきる僧のこと
*4 いまの兵庫県南西部




※ 参考文献




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