history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 鎌倉時代

後醍醐天皇ごだいごてんのうが鎌倉幕府を倒すべく立ち上がりました。元徳3年(1331)4月末、後醍醐天皇はクーデター計画をたてましたが、事前にそのクーデター計画が秘密がもれてしまい失敗してしまいます。そして、その年の8月(※1)に後醍醐天皇を逮捕しようと、幕府が動きました。その情報を護良は事前にキャッチし、父の後醍醐に伝えたといいます。護良は比叡山が持っている独自の情報網を活用して、幕府の動向をつかんだのです。それで、後醍醐はその報を受け、自分の家臣を影武者として比叡山ひえいざんに派遣し、護良もそれに同行しました。そして後醍醐一行は南部方面へと向かったといいます。後醍醐は笠置城かさぎやま(※2)にたてこもり、幕府と戦おうとしたのです。

そして、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題ろくはらたんだい(※3)が軍勢を派遣し比叡山へ向かったのです。比叡山の僧兵たちは、自分たちの目の前にいる天皇を守るべく立ち上がったのです。その目の前にいる天皇が替え玉だと知らずに。護良も一緒に戦いました。

護良と比叡山の僧兵たちが六波羅軍を引き付けておくすきに、後醍醐は笠置山にたてこもりながら、幕府に不満を持っている武将たちと合流し、軍勢を整えるという戦法です。護良もなかなかの策士ですね。

比叡山の僧兵たちは、いまの滋賀県大津市の唐崎からさきの浜で六波羅の軍勢を撃破したのですね。すごいですね。六波羅軍といえば武士集団。それに立ち向かったのが僧兵。武士が僧兵に負けたというのだから。逆にいえば、それくらい当時の僧兵たちが強かったということでしょう。もちろん、護良の活躍もあったと思われますが。

勝ったのはよかったものの、そのあとでトラブルになったのですね。実は、比叡山にいるのが後醍醐天皇ではなく、替え玉だってことが、僧兵たちの間にばれてしまったのですね。僧兵たちは「はかられた」と言ってみんな退散してしまいます。護良たちは「これは、やべえ」って比叡山を降りてしまい、後醍醐のいるか笠置山に逃げ延びます。

そして、すぐさま護良は河内かわちの国の楠木正成くすのきまさしげの館に入ったといいます。楠木正成といえば南朝側の名将とされております。『ガンダム』に例えればランバ・ラルのような方でしょうか。大河ドラマの『太平記』では金八先生こと武田鉄矢さんが演じられていたのが印象的でした。そこで護良と楠木の間でどんな会話が交わされたのでしょうね?

しかし、ここでも護良はすぐに離れてしまい、奈良の般若寺はんにゃでらにしばらく潜伏せんぷくしたのです。興福寺一条院こうふくじいちじょういんの僧、好専こうせんが500人もの兵を連れ、護良を捜索そうさくしたのですね。なぜ好専が護良を探しているのか僕もよくわからないのですが、坊さんでも護良の味方ではないことは確かでしょう。この時の護良には従者が一人もおらず、一度は自害も覚悟していたといいます。そんな時、護良はひらめきます。仏壇ぶつだんの前のからびつが3つあり、そのうちの一つの中に身を潜め、あえてフタを開けたまま隠れたといいます。その唐びつのなかには経典がいっぱい入っていて、その中に護良はまぎれて隠れたのですね。護良はその時心の中で呪文を唱えていたといいます。

僧兵たちは護良が隠れていそうなところをあれこれ、さがしますが、護良がかくれている唐びつの中を探そうとしません。フタがあいているし、唐びつのなかには経典しかないから、わざわざ探す必要はないと僧兵たちは思って、その場を去ったのですね。

しかし、護良はそれで油断しませんでした。「あいつら、しつこいからまた探しに来る」って。それで護良は唐びつの中から出て、すでに兵が確認した(さっき護良が隠れていたのとは別の)唐びつに身を潜めました。案の定、僧兵たちは戻ってくるなり、今度は護良がさきほどまで隠れていたフタの空いていた唐びつをさがしました。その中には護良はいません。あきらめて僧兵たちは去っていきました。こうして護良は命拾いしたのです。頭いいですね。その時、護良は「神仏の助け」と涙を流して喜んだとか。



一方の父の後醍醐天皇は笠置城に立てこもっていたのですが、幕府軍にあえなく敗れてしまい、後醍醐は隠岐島おきのしまに流されてしまうのです。父が島流しにあい、護良はどう動いたか。当然、護良は父に代わって自分が頑張らなきゃとメラメラと燃えたのですね。




※1 1331年の8月9日に「元弘げんこう」と改元された。
※2  京都府笠置町にあった城
※3 1221年の承久の乱後に置かれた幕府の出先機関。主に朝廷の監視が任務。
  


※ 参考文献   





      

1 護良、比叡山で修行
 梶井門跡かじいもんせきに入室した護良親王もりよししんのうは、尊雲法親王そんうんほうしんのうと称されました。護良はそこで承鎮法親王しょうちんほうしんのうの弟子になりました。承鎮は、承久の乱を起こして鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇ごとばじょうこう曽孫ひまごです。つまり承鎮にとって後鳥羽上皇はひいおじいちゃんに当たります。しかも、当然、承鎮のおじいちゃんの順徳天皇ジュントクテンノウ(後鳥羽上皇の息子)という人がモーレツなほどのアンチ幕府。鎌倉幕府に対する憎しみみたいな感情があったのです。

さらに護良が入室した房(※1)の祖師というのが澄覚法親王チョウカクホウシンノウという皇族で、この澄覚というのが後鳥羽上皇の孫なのですね。澄覚もまた鎌倉幕府が嫌いだったはず。護良が梶井門跡に入ったときには、澄覚は亡くなっていたので、直接会ったことはありませんが、澄覚のスピリッツは脈々と受け継がれていったはず。

護良にとって、倒幕に命をかけた後鳥羽上皇の親族たちの影響は大きかった。そうして、幕府への反感や憎しみが芽生えたのではないかと。



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(梶井門跡の関係者の家系図)

2 文武両道だった護良
そして、護良が取り組んだのが武芸のけいこでした。仏教の勉強そっちのけで、朝から晩まで僧兵を相手に武芸のけいこをしていたとか。だから、護良は筋骨たくましい体格だったようです。幕府を倒すためには自分が立ち上がらなければだめだと護良は思ったのでしょうね。

護良は武器の扱い方も免許皆伝めんきょかいでんだったとか。特に弓の得意だったいわれております。また身体能力も高く、7しゃく屏風びょうぶを飛び越えたとか。7尺と言ったら、180センチないしな200センチくらいだといわれております。すごいですね。まさにアスリートです。



また、運動神経だけでなく頭もよく、一を知れば十を知ることができて、特に兵法を熱心に勉強したとか。護良親王はまさに文武両道。勉強もスポーツもできて、しかも護良の顔立ちはやや丸顔で切長の鋭い目。イケメンだったみたい。また人間性も良かったようで比叡山の僧侶からも慕われていたのです。まさに、何をやらせても万能な『ドラえもん』に出てくる出木杉くん。


護良は二十歳の時に天台座主てんだいざすに任命されました。これってすごいことなんですよ。二十歳で比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじのトップってことですから。天台座主になっても、仏教の勉強そっちのけで武芸ばかりやるものだから、比叡山のお坊さんたちは護良を「不思議な門主」って護良のことを言っていたのですね。

とはいえ、護良は全く仏教も知らないで、天台座主になれないと思います。


たとえば、後醍醐天皇が比叡山に行幸ぎょうこうしたのですが、その際大講堂供養が行われました。座主の護良親王が、法語をとなえ施主せしゅ(※2)の幸福を祈願する呪願師じゅがんしをつとめたのです。ちなみに、その供養の導師(※3)を護良の異母弟の尊澄法親王そんちょうほうしんのうがつとめました。のちに護良が部下とともにゲリラ戦をしていた時も病人を法力でなおしたり、鎌倉幕府滅亡後に護良が土牢つちろうに閉じ込められいたときは法華経をよんでいたといいます。



3 護良の欠点
出木杉くんみたいなカンペキ人間な護良親王ですが、、そんな彼にも欠点がありました。なんだと思われます

実は護良親王は気性が激しいところがあったのです。怒り出したらその炎🔥が燃え出しブレーキがきかなくなり暴走してスタンドプレーをやらかすような。ちょうどΖガンダムに出てくるカツのような感じだったのでしょう。カツと出木杉くんを足して二で割ったのが護良というところでしょうか。しかし、その気性が後に彼にとって命取りになるのですね

気性もそうですが、護良は政治力がなかったのです。それが後にライバルとなる足利尊氏との差なんですね。護良は頭は良かったのですが、政治力と頭の良さはまた違いますからね。護良がいくら何でもできたって一人では天下を握れませんからね。もし護良に竹下登元首相のような政治力があったら、間違いなく護良は尊氏に代わって天下を取っていたでしょう。ましてや、太平記の時代は本当にカオスで、ある意味戦国時代よりひどい時代でしたから、余計護良にはツライ時代だったと思います。

また、護良が修業時代に赤松則祐あかまつそくゆうとの縁がつながったことは大きい。則祐は赤松円心アカマツエンシンの息子です。赤松氏は播磨国はりまこく(※4)西部を本拠とし、のちに室町幕府の播磨守護になった武家です。則祐もこのとき出家していて比叡山に入っちたのですね。それで赤松則祐と護良はこの時意気投合したのですね。倒幕の際、護良が機内近国で粘り強いゲリラ戦を展開できたのも、赤松のもっていたネットワークが大きかったといわれております。




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護良の像。怖え、メッチャ怒ってるやん。性格がキツそうだw)




*1 お坊さんが寝泊まりをするところ
*2 一周忌や四十九にちなどの法要を行う当主のこと。
*3  法要の際、中心となって儀式をとりしきる僧のこと
*4 いまの兵庫県南西部




※ 参考文献




鎌倉時代末期から南北朝の時代まで活躍した護良親王モリヨシシンノウ。彼はさながらジェットコースターのような生き様で、28歳で亡くなったのですね。今日から数回に渡って護良親王のことを取り上げます。
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1 秀衡に対する頼朝の要求


源平の合戦で平家を倒した源頼朝みなもとのよりともは東北に目を付けました。けれど、イキナリ東北に攻めこんだりはしません。まずは東北のリーダーである藤原秀衡ふじわらのひでひらに圧力をかけてきます。

それは、陸奥むつ(東北)から都(京にいる朝廷ちょうてい)に献上けんじょう(※1)する馬と金は自分が仲介rt>ちゅうかいしよう」との手紙を秀衡ひでひらに送った事です。この書状を読んだ秀衡はおどろいたようです。なぜなら、奥州おうしゅう藤原家は(京都)の朝廷に馬や金を誰の仲介もなしに直接献上けんじょうをしていたのです。

そうやって朝廷と奥州藤原家は仲良くしてきたのですが、その間に源氏が横やりを入れてきたのです。これは秀衡を頼朝よりも下位に位置付けるもので、秀衡にとって大変失礼なことだそうです。

以前に大河ドラマの『ほむら立つ』を見たのですが、このドラマでも秀衡が頼朝からの手紙を見て、「頼朝のおそろしいまでの野望がすけてみえる」と言って、激怒げきどするシーンが出てきます。


それでも頭のいい秀衡は頼朝との争いをけるために、頼朝の言われるまま馬と金を鎌倉へ届けたようです。けれど、そうした頼朝の高圧的な態度に秀衡は鎌倉殿かまくらどの(頼朝)が東北にせめて来るぞ」と確信したようです。


そして、今度は源義経を差し出せと頼朝は秀衡に要求します。「義経は、頼朝の許可なく朝廷から官位を受けた、その罪状は重い。義経をかくまったものは朝敵とみなす」という主張です。すでに頼朝は、諸国に総追捕使そうついぶし、国地頭を設置する勅許をえていたのです。朝廷の認証を得ていた、つまり頼朝は朝廷の信頼を得ていたのです。頼朝に逆らうことは朝廷に逆らうのと同じみたいな図式がすでに出来上がっていたのです。

それでも、秀衡は頼朝の要求を拒否。秀衡も「けっきょく鎌倉殿は東北の地が欲しいのだ。もはや鎌倉殿との戦いは避けられなくなった」と思ったのかもしれません。「どうせ戦争になるのなら、戦のうまい源義経みなもとのよしつね殿を味方につけて、鎌倉殿と戦おう」と秀衡は思ったのかもしれません。

2 絶大な院宣いんぜんの効力 
 秀衡が亡くなった後、秀衡の後をついた藤原泰衡ふじわらやすひらに義経引き渡しを強く要求したのです。それでもなかなか聞き入れない泰衡に頼朝はしびれを切らします。それで、義経の身柄差出を命じる院宣を出すの院宣いんぜん(※2)をだしてくれと頼朝は後白河法皇にたのんだのですね。義経身柄拘束みがらこうそくの院宣に驚いた泰衡は義経を討ったのですね。このままでは自分が朝敵になったら大変だと思ったから。

軍勢を動かすには、高貴な人のおすみ付き、たとえば天皇や上皇のだした文書が不可欠でした。こうした天皇や上皇のお墨付きの文書がないまま、戦争を起こせば、それこそ朝敵になってしまいます。逆に言えば天皇や上皇のお墨付きをもらえば、暴力でもなんでも訴えてもよいのです。この時代、武士とはいえ、ほしいままに武力を行使こうしすることは許されなかったのですね。

義経の首を頼朝に泰衡は差し出しましたが、それで頼朝は東北侵略をあきらめません。今度は藤原泰衡追討の院宣をだせと後白河法皇ごしらかわほうおうに頼朝は迫ります。

しかし、後白河上皇は、藤原泰衡追討の院宣をだすのを渋っていたのですね、「理屈に合わない」ということで。はっきり言って藤原泰衡追討ついとうは頼朝の奥州征服が目的であることが見え見えでしたから。それでも頼朝は泰衡追討の院宣を待たずに、東北にせめて来たのですね。

その時入れ知恵をしたのが大庭景能おおばかげよしという人物。彼は頼朝に言いました。「そもそも泰衡は、源頼義みなもとのよりよし公の家臣だった藤原清衡の子孫。奥州藤原氏は源氏の家臣の家柄なのです。主人が家臣を討つのにどうして朝廷のお許しがひつようでしょうか」と。


3 奥州の地を手に入れたい

 平氏を討滅した源頼朝は、鎌倉政権を安定させるべく、潜在的せんざいてきに脅威である奥州藤原氏を打倒する必要がありました。頼朝はどうしても東北の地を手に入れたかったのです。

また、源平の合戦で領地りょうちをもらえなった武士たちに、広大な奥州の地を分け与えることができるし、東北でとれる金や馬(東北は馬の産地でもある)も頼朝にとって魅力的みりょくてきだったのでしょう。

そして何よりも頼朝いや源氏にとって東北の地は因縁いんねんの土地であったことも大きいのです。その因縁いんねんというのが、前九年・後三年の役ぜんくねん・ごさんねんのえきです。

前九年・後三年の役は人物の関係が複雑で僕もうまく説明できないのですが、どちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆こうりゅうした原点ともいえる戦いでもありました。源氏の東北への勢力拡大は源氏の先祖からの悲願でもあったようです。ご先祖様が成しとげられなかった東北征服せいふくを頼朝は成しとげたいと思ったのかもしれません?





※1お寺や仏像の修理などをするための寄付金きふきんを集める事
  • ※2 皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。 天皇の発する宣旨に相当する。 院庁下文よりも私的な形式。




  • ※ 参考文献





    あと、ウィキペディアも参考にしました。





    みなさんは、歌舞伎かぶきの「勧進帳かんじんちょう」という演目をご存じでしょうか。平家を倒した後、源頼朝みなもとのよりとも源義経みなもとのよしつねは対立をするようになります。源頼朝に追われた源義経たち一行が山伏の姿をして(※1)東北の平泉へ向かいました。その途中とちゅう、今の石川県にあった安宅あたかの関を守っていた富樫 泰家とがし やすいえ「ちょっと待て!お前は義経じゃないのか!?」と足止めされてしまいます。

    それで、義経の家来だった弁慶べんけい機転きてんかせ、勧進帳(※2)の巻物を読み上げるのです。その巻物は白紙なのですが、弁慶は勧進帳の内容を暗記していたので、すらすらと読み上げるのです。しかし、富樫はまだ怪しみます。


    それで弁慶はなんと義経をぼうでひっぱだくのです。「お前が義経に似ているから疑われたじゃないか!」って。それで富樫が「もうよい、そなたたちが義経ではない事はようわかった」と、疑いの目が晴れて義経一行は通ることができたと言うのです。もちろん、弁慶は義経に対して、棒でたたいた事を泣いてわびたそうです。普通だったら怒りますよね。でも、義経はそんな弁慶のとっさの機転と彼の忠義をねぎらったそうです。

    一方の富樫は、山伏の一行の正体が義経達だと知っていながら、弁慶の主君を思う心に感服して関所を通ることを許したというのが、「安宅の関」のエピソードです。感動的なエピソードですね。といいたいところですが、この話は作り話みたいです。

    でも、義経が割とスムーズに東北へ行けたのはまぎれもない事実。当時は関所なんてなかったという意見もあれば、義経一行は船で東北に行ったという説もあります。それどころか、頼朝はわざと義経を東北へ行かせるために、義経の東北行きを見逃したのではないかって仮説をたてる人もいるくらい。 義経が藤原家に,げ延びれば、義経をつこともできるし、奥州の地も手に入れることができるという、頼朝にとってまさに一石二鳥な話ですしね。

    ※1 修験道しゅげんどうの行者。金剛づえ・ほら貝などを持ち、特定の山に登って修行するひとたちのこと。
    ※2 お寺に寄付をつのるお願いが書いてある巻物。弁慶が読み上げた勧進帳の内容は、奈良の大仏再建するための寄付のお願い

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