history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 戦国時代

今日は、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ったという巌流島ガンリュウジマ巌流島のお話。実は、言い伝えられている巌流島の決闘ケットウは結構ウソがあるのです。今日はその辺のお話をします。まず、武蔵が書いた「五輪書」。名著ですね。兵法だとか勝つための極意が書かれた名著で日本だけでなく、世界でも読まれております。僕もチラッと読んだことがあります。この五輪書にはなんと、巌流島の戦いのことが全く書かれていないのですよ。不思議ですね。もしかしたら巌流島の戦い自体がなかったのか???流石にそれはありません。なぜ、書かれていないのか、それはのちに話します。



  1. 佐々木小次郎は若くてイケメンだった?
    佐々木小次郎役といえば、若くてイケメンのイメージがあります。僕のなかで記憶に残っている佐々木小次郎役といえばTOKIOの松岡昌宏さんでしょうか。

    佐々木小次郎は有名な剣士で、ツバメ返しという技を使っていたと。巌流島にある武蔵と小次郎の銅像を見ても、確かに小次郎はイケメンでかっこいいです。しかし、巌流島の戦いが、いつ行われたか、はっきりしないのです。また、佐々木小次郎は小倉藩コグラハンの剣術師範だったといいますが、小倉藩には佐々木小次郎という名前の人物はいなかったといわれております。言い伝えでは、この決闘は小倉藩公認で、小倉藩の役人が見守る中、二人の決闘が行われたといいますが、実際は違うそうです。また巌流島は小倉藩の領地ではありません。

    武蔵の血糖じゃなかったw決闘のことを書き記した小倉碑文コクラヒブンには、武蔵の対戦相手は「兵術の達人、巌流」とあるだけ。「佐々木」と書いていないのです。『沼田家記』という文献には「小次郎」とあります。武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』という本のの注釈には「岩流小次郎」とあります。他の文献には苗字ミョウジが佐々木ではなく、津田だったり、渡辺だったり。それどころか、多田市郎という名前だったという文献まであるとか。いづれにせよ、武蔵の対戦相手の名前はよくわかっていないのです。

    ともあれ、僕のブログでは武蔵の対戦相手は、小次郎とさせていただきます。また、小次郎が、若くてイケメンではなく、おじいちゃんだったという説まであるとか。小次郎が若くてイケメンのイメージがついたのは吉川英治の小説の影響が大きいとか。


  2. 宮本武蔵は遅刻した?
    伝説では宮本武蔵は約束の時間から2時間たってやっと武蔵がやってくりなり、小次郎は怒り出したと。実は武蔵は、わざと遅刻して、小次郎をイライラさせて冷静さを失わせたと。これも一つの策ですね。といいたいところですが、これは真っ赤なウソですwあれは物語を面白くさせるための作り話。武蔵はちゃんと約束の時間を守ったといいます。

    しびれを切らした小次郎が、刀のサヤを投げ捨てて、それを見た武蔵が「小次郎、敗れたり」といったそうです。なぜ、武蔵が「小次郎敗れたり」というセリフを言ったかというと、それは「勝つつもりならば大事なサヤを捨てはしないはず」だから。

    けれど、小次郎が本当に刀のサヤを捨てたか、どうか、これも史実かどうか怪しいところ。作り話である可能性の方が高そうです。
  3. 船のカイで刀を作った?
     はい、これも作り話w船の櫂から木刀を作ったといいますが、それはありません。武蔵はちゃんと事前に木刀を用意しておりました。対戦する小次郎は真剣だったのです。真剣とはここではマジメという意味ではありません。本物の刀です。小次郎が刀なのに、武蔵は木刀。武蔵の方が不利ですよね。しかし、これも武蔵の計算があります。

    一つは軽いから。木刀は真剣に比べると軽いそうです。軽くて動きやすいというメリットがあるのです。真剣は持ったことがないのですが、見た目よりずっと重いそうです。

    二つめの理由は小次郎を殺したくないから。武蔵は小次郎の頭をごつんと木刀で叩きました。小次郎は倒れてしまいましたが、幸いにして小次郎は息を吹き返したのです。武蔵から見たら、勝負に勝てればそれで良い、小次郎ほどの剣士を殺すのは惜しいというのがあったのでしょう。

    その小次郎ですが、武蔵に敗れた後、武蔵の弟子たちにボコボコにされ死んでしまうのですね。これは武蔵の命令か?違います。これは武蔵の父親が差し向けだといいます。晩年、武蔵が書いた「五輪書」に決闘のことが書かれていないのは、自分は小次郎と正々堂々と戦いたかったのに、結果的にダマシうちみたいになったことを恥じているのかもしれないと?なぜ、決闘のことを「五輪書」に書かなかったのか武蔵本人じゃないとわからないですけれど、武蔵にとっては苦い経験だったと思います。




*この記事はBS・TBSの「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。

1 幼名 景虎
 羽生結弦さん、すばらしかったですね。録画で見たのですが、4回転半ジャンプ認定されて良かった。4回転半ジャンプをやったのは羽生さんが初めて。まさに歴史的瞬間でした。また、フィギュアスケートで銅メダルの宇野昌磨さん、銀メダルの鍵山優真さん、おめでとうございます!

さて、羽生さんの演技で流れていた曲は「天と地と」。これは大河ドラマ「天と地と」のテーマ曲です。上杉謙信が主人公で石坂浩二さんが演じられました。僕は大河ドラマ好きだったので昔からこの曲を知っていたのですが、まさか羽生さんの演技で流れて、びっくりしました。羽生さんに上杉謙信が乗り移ったなんて意見もありますが、本当にそれは感じましたね。羽生くんの顔がすごく怖かった。いい意味で。いつもは王子様のイメージですが、今回はまさに軍神という感じで、迫力がありました。

今日は、その上杉謙信のお話です。

上杉謙信は元々は「上杉」という苗字ではなく、「長尾」と言いました。父、長尾為景ナガオタメカゲ、母 虎御前トラゴゼンの二人の間から生まれました。幼名は虎千代トラチヨ。謙信は大人になってからの名前です。虎千代は幼い頃から、わんぱくで、チャンバラ遊びをしては相手を泣かせていたと言います。しかし虎千代は弱いものイジメをしたことがなく、いつも泣かせていたのは年上の子。虎千代は母から「観音様から慈悲ジヒの心を持つのですよ」と教えられたのです。母は虎御前は観音様を信仰し、そんな母の教えを虎千代は守っていたのです。 7歳になった虎千代は父から突然「寺に入れ」と命じられます。虎千代は不満に思ったが、父の言いつけを守り寺で修行をしたのです。

なぜ寺に入れられたのかというと、虎千代には長尾晴景ナガオハルカゲという兄がいました。長尾家の跡取りは晴景と決まっていたのです。家督争いをさせないために弟の虎千代を出家させたのです。というのは、表向きの理由。

むしろ、父は虎千代を守るために寺に入れたと言われております。実は、長尾為景は越後の守護代でしたが、守護の上杉房能ウエスギフサヨシを殺し、同族の上杉定実ウエスギサダザネを新しい守護にしたのです。しかし、定実は名ばかりの守護で、長尾為景が実権を握っていたのですが、為景は敵も多かったのですね。いつ、長尾家が狙われるかわからない。家督を継いだ晴景にもしものことがあったときのための保険です。また、晴景も病弱だったので、余計でしょう。

2 生涯の師
一方、いやいや寺に入れられた虎千代ですが、そこで生涯の師に会います。 天室光育テンシツコウイクという曹洞宗の僧侶です。虎千代は天室から仏法だけでなく兵法も学んだようです。天室は虎千代に物事の道理や儒教に基づいた道理、そして義の心を教えたと言います。虎千代のわんぱくぶりは健在でしたが、そうした天室の教えは虎千代の心に焼き付いたと言います。生涯の師って大きいですよね。良き師匠に巡り会えたことは幸運です。

ある日、兄弟子二人と虎千代はケンカしていたそうです。天室はケンカを止めました。虎千代は天室に応えました。「兄弟子と相撲スモウをとっていた。相撲は一対一でやるものだが、それを兄弟子は二人がかりで襲ったので、卑怯ヒキョウな振る舞いと思い、懲らしめた」と。それをきいた天室は、「子供ながら筋が通っている」と感心したそうです。


そんな虎千代が楽しみにしていたのは、兵法遊び。城の模型と兵士に見立てた駒を使って遊ぶ、今でいえばシュミレーションゲームみたいなもの(例えば「ファイアー・エムブレム」)です。

3 家督を継ぐ
しかし、虎千代に哀しい知らせが入ります。1536年、父が亡くなったのです。兄の晴景は家督を継ぎ、守護代となり、春日山城の城主にもなりました。しかし、虎千代は寺での修行を続けました。そして天文12年(1543)に長尾晴景は、虎千代に「力を貸してほしい」と頼まれ、14歳となった虎千代は元服し、名を景虎と名乗ります。その当時の越後は内乱状態だったのです。為景が亡くなってから、こころぞとばかりに長尾平六らが立ち上がり内乱を起こしたのです。その内乱鎮圧のため、景虎は立ち上がったのです。この時景虎は14歳。栃尾城トチオジョウの戦いです。

天文12年(1543)10月、景虎は栃尾城に入りました。その時、長尾平六は景虎を14歳の子供だと侮りました。長尾平六はまるでネコがねずみを痛ぶるように景虎が篭っている栃尾城攻めを繰り返したのです。それでも景虎は動揺しません。戦局が動いたのは翌年の天文13年(1544)1月23日。平六軍の激しい攻撃に景虎の家臣たちもあせりますが、景虎は「汝ら老功の勇士たりと言えども、戦術に練達レンタツせず。今は兵を出すべき時節にあらず。しばし敵勢を耐えよ」と戒めるのです。この景虎の命令に疑問を抱く家臣もいました。しかし景虎には策がありました。景虎は自軍を二つに分け、片方を平六軍と正面から戦わせる一方で、もう一つの軍を平六軍の背後から襲撃シュウゲキしたのです。挟み撃ちをされた平六軍はたまりません。見事、景虎は勝利を収めたのです。

こうして景虎の人気は高まります。一方の病弱の晴景に代わって守護代になってほしいと願う者も出てきます。景虎は毘沙門天ビシャモンテンの化身じゃないかって声も上がります。まして、当時は関東の北条氏康や甲斐の武田信玄が力をつけており、越後まで攻めてくるという雰囲気だったから。まさに越後の国存亡の危機。この危機を救えるのは景虎しかない。そして、守護の上杉定実と兄晴景の要請を受け、景虎は守護代になり、兄は隠隠居インキョしたと言います。

しかし、守護代となった景虎は兄の晴景を立てることを忘れず、国の運営などの政策は晴景の許可を得て行ったと言いますし、自分は兄の病気が治るまでのワンポイント守護代だという認識があったそうです。そんな折、守護の上杉定実が亡くなります。定実には跡取りがいませんので、守護職がいなくなりました。それで、景虎は定実の代わりに実質的な越後の統治者として越後国を守ろうとしたのです。

そんなおり北信濃の領主、村上義清ムラカミヨシキヨが景虎のところへやってきます。甲斐の武田氏に領地が奪われ、景虎に助けを求めたのです。景虎は「見捨てるわけにはいかん」と快諾。景虎は川中島で武田軍と戦ったのです。天文22年(1553)から永禄7年(1564)の間に5度も景虎の軍と武田軍は戦ったのですが、結局決着がつかなかったと言います。1度目の戦いが終わった天文22年(1553年)9月、景虎は京に向かいました。景虎は前の年に朝廷から 従五位下弾正少弼 ジュゴイゲダンジョウショウヒツという位をもらい、その返礼として京に訪れたのですね。その際、時の天皇や将軍に会いました。遠方からわざわざ天皇に会いにきたということで、御剣と天盃を賜ったと言います。さらに「住国並びに隣国の敵を討伐トウバツせよ」との勅命までも天皇から受けたと言います。これは天皇が武田との戦いを正義の行いと認めたようなものです。

また、永禄4年(1561年)閏3月16日には、関東管領カントウカンレイ上杉憲政ウエスギノリマサから関東管領の職を譲られ、上杉の家督までも継いだと言います。それから景虎は上杉正虎ウエスギマサトラと名乗ります。ちなみに謙信は本名ではなく、法号です。元亀元年(1570)に法号「謙信」を称したそうです。法号とは出家したものに付けられる名前のこと。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。



プロ野球でクライマックスシーズンが始まっております。短期決戦なので、ささいなミスが命取りになります。そういう意味では油断大敵ですよね。さて、「油断」という言葉。実はこの言葉が元々は仏教用語からきているという説があります。比叡山延暦寺の根本中堂の中に不滅の法灯ホウトウという灯火があります。西暦788年(延暦7年)に最澄が灯明をかかげて以来、1200年間一度もその灯火が消えることなく輝き続けていると伝わっております。

最澄の「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび(仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすように)」との願いを込めたと伝わっております。

現在も菜種油を燃料にして火を灯しております。毎日、朝夕の2回、燃料の菜種油を絶やさないようにお坊さんが菜種油を注ぎ足し続けているのです。お坊さんがうっかり油を注ぐのを忘れたら、油が切れて火が消えてしまいます。それから「油断」という言葉が生まれたと言われております。

それにしても1200年も続いているのを、守り続けるのは大変なプレッシャーですよね。万が一急なトラブルで火が消えてしまうことだってあるでしょう。そうならないようにバックアップ体制もできているのですね。実は法灯は立石寺(山形県山形市)の天文12年(1543年)の再建の際に分灯されてあるのです。法灯が延暦寺と立石寺で二つあるのですね。パソコンのデータを外付けのHDなどにバックアップするのと同じですね。

実際、織田信長の延暦寺焼き討ちの時、一度消えていたのですね。延暦寺焼き討ちちのあと、立石寺から再度延暦寺に再分灯で戻されたのですね。

* この記事はウィキペディアを参考にしました。

北条早雲は、関東一円に5代も続く巨大勢力の基礎を作り上げた名将です。

明応 2年(1493)、室町幕府の要職についていた早雲は、幕府の出先機関である伊豆の堀越御所を襲撃しました。下克上の先駆けとなった伊豆討入りです。伊豆を手中に収め、最も力を入れたのが民生じゃなかったw民政でした。早雲は年貢の負担を軽くすることで民の心を掴みました。

収穫の半分を年貢として収めさせ、残りの半分を農民のものとした五公五民を、早雲は四公六民に改めました。それで農民の取り分が6割となり、4割だけ年貢として収めれば良いとのことでした。他国の農民は、それをきいて「我らの国も早雲の国になれば良いもの」のと嘆いたそうです。

北条家の歴代当主が使用した印判には、「禄寿応穏ロクジュオウオンと刻まれていたのです。「禄」は財産、「寿」は生命。この4文字の意味は領民の財産と命が守られる政治です。早雲は民の安寧を心より祈ったのです。


* この記事はNHK「英雄たちの選択」を参考にしました。



ちょっと前に、上司と2人飲みで「好きなものを頼め」と言われ、部下がフライドポテトを頼んだら、上司に「いつまで学生気分なんだ」って怒鳴られたという話が2ちゃんねるに出てきました。この話がsns で拡散され、それを受け20代、30代の若手はフライドポテトをとったぐらいで怒る上司を批判し、40歳以上だと「上司の方が正しい。それを怒る部下が悪い」みたいな意見がかなり多かったのですね。

ネットでは部下が悪いみたいなこと書かれてるけれど、部下は悪くない。好きなものを食べて、明日の仕事の活力となるのなら、それでいい。

まあ、この上司が「フライドポテトはカロリーが高いからやめろ」という意味で怒ったのならとても良い上司ですね。おそらく上司もたまたま虫の居所が悪かったのかもしれない。それでつい部下に当たってしまったのかも。


僕もポテト好き。特に酒のつまみにぴったりなんですよ。ポテトで学生気分ならトランプ元大統領が来日し、安倍元総理と居酒屋に入りましたが、トランプさんが真っ先に注文したのはフライドポテトです。トランプさんに面倒向かって、学生気分でいるなって説教できたら、僕はその人を一生尊敬できるw

さらにその話のは続きがあり、その上司は武勇伝まで語り出し、部下もウンザリしたと。部下を怒鳴ったり、そうかと思えば武勇伝を語って自分を強く見せようとしたのですね。いるいるこういう人。僕の職場にもいました。また、知り合いが美容院に勤めていたのですが、先輩のいじめがひどかったそうです。パワハラ当たり前で仕事もロクに教えようとしなかったと。知り合いが辞める時に先輩から言われたそうです。「自分がイジワルしたのは、後輩に抜かれたり、なめられたりするのが怖いから」と。抜かれるのが怖いのなら、部下以上に自分が頑張るべきだし、なめられるのが怖いなら、怒鳴って脅すより、自分が尊敬される先輩になった方が近道だと思いますよ。

Twitterで見たのですが、ある上司は怒るどころか、「君たちよく頑張ったね」って部下にフライドポテトや、から揚げをご馳走したそうです。その上司はそれから間も無くして出世したとか。


いづれにせよ、上司だからと言って威張っていたら部下がついて行かないでしょう。厳しくても、欠点があっても高潔な人物なら部下はついていきます。立花宗茂は上司としたらまさに理想の上司でした。立花宗茂は、実父に高橋紹運、養父に立花道雪というサラブレッド。高橋紹運も立花道雪も大友家の柱石を担った人物。そんな2人の薫陶クントウを受けて宗茂は育ちました。そして評判が高く、関ヶ原の時は家康が何度も東軍に味方するように誘ったのです。


立花宗茂は武勇にすぐれ、豊臣秀吉に「当今無双の勇士」と言わしめたほど。しかし、そんな立花宗茂にも逆境が訪れます。立花は石田三成率いる西軍に味方したのですが、

宗茂は直接、関ヶ原で戦ったのではなく。近江の大津城で京極高次と戦ったのです。しかし京極の抵抗が凄まじく、それに手こずって結局、関ヶ原の合戦に宗茂は参加できなかったのです。

結局、関ヶ原の合戦で歯医者じゃなかったw敗者となってしまいます。九州に帰る途中、島津義弘の軍とかち合います。島津も宗茂も西軍ですが、島津と大友は元々敵同士。そして島津軍はボロボロになっている。宗茂の家臣は、今こそ島津義弘をやっつけるチャンスだと進言しますが、宗茂はそれを拒否。昔のことは忘れて、共に九州に帰ろうと島津義弘に伝えたといいます。なんて良い人でしょう!

敗者となった宗茂は領地の柳川をとられ、路頭に迷うのです。しかし、二十数人の家臣は無給で宗茂につき従ったのです。それくらい家臣は宗茂を慕っていたのですね。この時、加藤清正が、宗茂をスカウトしたのですが、宗茂は断ります。それでも清正は、宗茂をしばらく、かくまったと言います。実は宗茂は朝鮮出兵の時に、加藤清正の危機を救ったのですね。それで清正は恩義を感じたのですね。

『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありておごらず。功ありてほこらず。人を用ふる、己にる。善に従ふ。流るるが如し。奸臣カンシンを遠ざけ、奢侈シャシを禁じ、民にするに恩を以てし、士をはげますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記しているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていたのです。というか理想の上司像ですね。

「徳ありて驕らず」、「功ありて誇らず」とは自分がどんなに手柄をたてても、そんな自分の武勇伝をあえて語ろうともしない謙虚な性格だと。そんなところも素晴らしい。

奸臣を遠ざけるというのも素晴らしい。奸臣とは要するにゴマスリ。イエスマン。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる野だいこや、ドラえもんのスネ夫みたいな人。上に立つと、たいていイエスマンを自分の手元に置きたがるものですが、立花はその逆だったのです。なかなか出来ることではありません。

また、宗茂は文禄の役の時に、宗重が自分の袖を家臣に与え、その袖が家臣の家に伝わったといいます。戦いの最中、鎧袖のない家臣に袖を与えたのです。なんと優しいのでしょう。家臣を思いやる宗茂の人間性が伝わってきます。

もちろん、宗茂も人間だから欠点がないわけではないです。浪人時代、米が足りないので家臣が雑炊を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな。」と怒ったと。少々わがままな面がありました。というか、そもそも宗茂は雑炊というものを知らなかったのですね。それと浪人時代、先が見えなくてイライラしてたのかもしれない。

そんな宗茂の器量は、徳川秀忠にも認められ、元和6年(1620)、宗茂は旧領の柳川へ復帰を果たしました。旧領復帰を果たしたのは宗茂ただ1人です。しかも島原の乱では徳川方について一緒に一揆勢と戦ったのです。この時宗茂は70歳を超えていましたが、松平信綱の参謀として活躍したのです。この時代になると幕府にも実戦を知らないものが多く、宗茂の存在はありがたかったのです。

* この記事はNHKの「英雄たちの決断」を参考にして書きました。

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