history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 戦国時代

忍者が活動するうえで必要なものは何だと思いますか?敵の情報を入手することです。もちろん、ただ情報を入手するだけでは意味がありません。その敵の情報を正確にクライアントに伝える必要があるのですね。伝えるといいましても、カメラなりレコーダーましてネットなどなかった時代。それじゃあ、耳にした情報や得た情報をメモして報告すれば済むことじゃんと思いますが、メモを取っている間に、敵に見つかってしまうこともある。

たとえば、くノ一という女性の忍者がいるのですが、彼女たちは大名の奥女中、商家であれば下女として忍び込むのですね。そうやってスパイ活動をするのですが、いちいちメモなんてしていたら、大名なり商家の旦那から何やっているんだって怪しまれますよね。

あるいはそうしたメモが関所なので発見されたらもとも子もありません。そこで手にした情報をしっかり記憶しておく必要が出てきます。そうして忍者たちは独自の記憶術を編み出したといわれております。しかし、記憶するといいましても、覚えるのは大変です。特に数字は大変ですね。

まず忍者は覚えなくてはいけないことを何かに置き換えて記憶する連想記憶術を使いました。覚えにくい数字は人間の身体や食べ物に置き換えたとか。たとえば1がいも、2が煮梅にうめ、3がさんしょう、4がシイタケという具合に。数字を覚えるのはいつの時代も大変ですが、こうした身近なものに置き換えて記憶をしたのですね。なるほど、これは現代でも語学や資格の勉強でも応用できますね。

さらに絶対忘れてはならないことは、不忘術ふぼうじゅつという秘術を用いました。これは大切なことを思いながら、自らの身体に傷をつけるという記憶術。たとえば、何か覚えたいことを覚えているときに、小刀で自分の指を傷つけてみるとか。

普通の記憶は脳の海馬という部分に記憶されるそうです。しかし恐怖をともなう記憶は大脳にある偏桃体へんとうたいと呼ばれる部分に記憶されるそうです。こくした偏桃体の働きによって恐怖の記憶というのはいつまでも離れないというのです。人間って基本的に忘れる生き物ですが、なぜか恐怖経験というのはいつまでも残っているものなのですね。いじめられた経験とかパワハラを受けた経験とか。いわばトラウマですね。忍者は自傷行為をやって、そのときついた傷をみて、「あ、あの時、あの殿様はこんなことを言っていたな」って記憶がよみがえってくると。これはかなり強引なやり方ですね。下手すりゃ恐怖体験だけが記憶に残り肝心なことを忘れてしまう危険性もあるし、実際にこのやり方でどれだけ覚えられたか疑問ですが、ともあれ忍者は自分のミッションを成し遂げるためには、自ら傷つけることもいとわなかったのですね。

Amygdala

(赤い部分が偏桃体)

参考文献
イラスト図解 忍者
日東書院本社
2012-11-30

忍者の服装と言えば、↓


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ですよね。黒い装束、黒い頭巾に身を固めていると。しかし、忍者は年がら年中このような服装をしていたけじゃないんですね。忍者が年中、装束を着ているイメージを抱いてしまうのは、『忍者ハットリくん』の影響かなw昼間っから黒い装束なんてしていたら返って目立ちますもんねw自分は怪しいものだと言っているようなもの。黒装束はあくまで夜に屋敷や城に忍び寄るときに使うのですね。忍者も普段は町人や農民とまったく変わらぬ姿をしていたのですね。忍者は隠密の仕事がない時は、農民として農作業をしていたといいますから。

ともかく忍者は今でいうスパイや探偵みたいなもの。敵の情報を探るのが商売です。その敵の情報を探るために、変装もしたのです。いわゆる七方出しちほうでです。虚無僧こむそう、出家、山伏、商人、放下師ほうかし猿楽師さるがくし、常の形の七種類。

いろいろな姿に変えて、敵の情報を探ったのですね。その変装した姿は、敵はもとより、親兄弟にも見抜かれることが大事なのです。まず、虚無僧こむそう。虚無僧とは髪をのばしたお坊さんで、尺八を吹いて旅から旅を歩いておりました。深編笠ふかあみがさを頭からかぶって顔を隠していたので素顔をバレずに済んだのですね。

出家はお坊さんのこと、山伏とは山奥で厳しい修行をしている人のことで、超自然的な能力を持っていると信じらておりました。山伏は全国を旅していたので、山伏の姿をしていれば、怪しまれずに済みました。



放下師とは今でいう曲芸師みたいなものです。小唄を歌いながら、曲芸や手品をやったのですね。

猿楽師とは猿回しの事ではありません。猿楽は能楽の一種で、こっけいな踊りをしたり、ものまねをしたり。とくに戦国時代、大名たちは能を非常に好みました。娯楽があまりない時代でしたからね。それで、大名たちはこぞって猿楽師は能役者を招いたといいます。猿楽師に化けた忍者はたやすく敵地に入り込めたのです。能役者の観阿弥、世阿弥も実は忍者じゃないかって説もあるようですね。

こりゃ大変ですね。芸も素人はだしの学芸会レベルのものだったら、敵のスパイだってばれちゃうし。また、楽器の演奏だって簡単じゃありません。僕も昔、楽器をかじったことがありますから。下手だとすぐばれちゃうし、ちょっと演奏を聞いただけで技量を見抜ける人は戦国時代や江戸時代にもいたでしょう。そうした人に「あ、こいつ演奏うまいけれど、やはり素人だな」って見抜かれたらアウトですから。それなりの演奏の実力がないと無理でしょう。

お坊さんにばけるなら読経のスキルも必要だし、商人に化けるなら商品知識もなくてはなりません。商人のなかでも薬売りは忍者にとって打ってつけの変装だったのです。薬を介して庶民や武士の懐に近づき、情報を探ったのですね。誰だって病気はつらいです。そんな時に薬を売ってくれる商人が近づいてきたら、心を許すでしょう。それで優しくされたら、なおさらでしょう。そうした時に人は聞いてもいないことまでペラペラしゃべってしまう。

ちなみに甲賀の里は忍者の里でもありますが、薬の里でもあります。忍術から派生したといわれる製薬技術が「甲賀の薬売り」を生み、現在でも甲賀は薬の生産地として有名です。

ほかにも漢籍などの教養や、方言もマスターしなくてはいけない。大変ですね。あと、病人やけが人のふりをして、敵の懐にしのぶこともしたのですね。

最後に「常の形」とありますが、これは何でしょう?いわゆる普段着、つまり農民や侍、町人と全く変わらぬ姿をするということ。なんだ変装じゃないじゃんって思われますが、まあ普段着が一番怪しまれませんからね。ただ服装を変えただけでは怪しまれる可能性があるので、顔を変えるために眉をかきなおしたり、髪形を変えたり、歯に金属をかぶせたり、すると印象が変わるのだとか。

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(忍者の七方出 お坊さんと虚無僧)

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(忍者の七方出 芸人の姿)

※ おまけ
甲賀は薬の里と言いましたが、それくらい甲賀の忍者と薬は関係が深いのです。甲賀の薬の歴史を学べる「甲賀市くすり学習館」という施設もあるくらいです。



よく、伊賀と甲賀は仲が悪いといわれております。特に『忍者ハットリくん』をみた世代はモロそうおもうでしょう。主人公のハットリくんが伊賀忍者で、ハットリくんのライバルのケムマキは甲賀忍者で小憎たらしいキャラでしたね。ハットリ君だけでなく、映画や小説とかでも伊賀忍者と甲賀忍者がライバル同士みたいな描き方をされております。でも、結論からいいますと、

伊賀と甲賀は対立していません。

むしろ、伊賀と甲賀は地理的に近く、ときに協力することもあったようです。僕はそれを伊賀の人に実際に聞いたから間違いありません。メディアとりわけアニメの影響って大きいですね。僕もこの年になるまで、伊賀と甲賀は仲が悪いってイメージがなかなか消えなかったものw戦国時代、伊賀も甲賀も大名がおらず、それぞれ伊賀と甲賀の地侍たちが中心となって自治運営をしていたのです。自分たちの土地は自分らで守ろうと。地侍たちは一国、一郡規模で連合し合い、そうした自治組織を「伊賀惣国一揆」そして「甲賀郡中惣」と呼び、互いに同盟し合って仲が良かったといいます。


もちろん、甲賀と伊賀が敵味方それぞれの大名に就くこともありましたし、後述する天正伊賀の乱におきましても、伊賀を攻める信長に甲賀の者がついたという記録もあります。が、基本的に両者が対立することはほとんどなかったといいます。江戸時代は幕府から、伊賀忍者も甲賀忍者も家臣として召し抱えられ、それぞれ伊賀衆、甲賀衆とよばれました。

忍者というのは今で言う探偵みたいなもの。伊賀の忍者も、甲賀の忍者もそれぞれの大名たちに雇われていたわけですから、敵味方に別れることもあれば、同じ主君に仕えることもある。大名というクライアントに従っただけだから伊賀も甲賀も恨みっこなしだと思われてます。

伊賀が本当に憎んでいたのは、甲賀ではなく織田信長じゃないでしょうか。信長は伊賀の地をせめたことがあります。1581年の天正伊賀の乱では伊賀の地に三万もの軍勢をおくり、神社仏閣を壊したり、人々を惨殺したりとそれはそれは大変だったようです。城戸弥左衛門きどやざえもんという伊賀の忍者がいたのですが、彼は天正伊賀の乱を遺恨に思い、琵琶湖湖畔にて、信長を鉄砲で撃ち殺そうとしたくらいです。失敗に終わったものの(※1)、それくらい信長が伊賀の人たちの反感を買ったことは間違いないでしょう。

その天正伊賀の乱については、映画化もされました。でも、伊賀の人は優しいですね。僕が伊賀のある喫茶店に入って、お店の人に「伊賀に来たのは2回目で、一回目は信長と伊賀の人が戦った激戦地に訪れた」って話をしたら嫌な顔一つせず、信長が通ったルートとか詳しく教えてくれました。

忍びの国
マキタスポーツ
2021-08-01




(以下、伊賀のものたちと信長が戦った激戦地の写真↓)

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※1 城戸弥左衛門は信長を殺し損ねたものの、なんとその翌日には菓子折りをもって信長の目前に現れ、「私が信長殿を撃ち殺そうとした犯人を捕まえて見せる」といったとか。おそらく、城戸は、すきをみて信長を殺そうとしたが、うまくいかなかったのかと。その後、城戸弥左衛門は捕らえられてしまうが、策をもってうまく逃げることができた。ところが、最後は逃げきれず自殺をしたと。

※ 参考サイト
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story042/

今日は、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ったという巌流島ガンリュウジマ巌流島のお話。実は、言い伝えられている巌流島の決闘ケットウは結構ウソがあるのです。今日はその辺のお話をします。まず、武蔵が書いた「五輪書」。名著ですね。兵法だとか勝つための極意が書かれた名著で日本だけでなく、世界でも読まれております。僕もチラッと読んだことがあります。この五輪書にはなんと、巌流島の戦いのことが全く書かれていないのですよ。不思議ですね。もしかしたら巌流島の戦い自体がなかったのか???流石にそれはありません。なぜ、書かれていないのか、それはのちに話します。



  1. 佐々木小次郎は若くてイケメンだった?
    佐々木小次郎役といえば、若くてイケメンのイメージがあります。僕のなかで記憶に残っている佐々木小次郎役といえばTOKIOの松岡昌宏さんでしょうか。

    佐々木小次郎は有名な剣士で、ツバメ返しという技を使っていたと。巌流島にある武蔵と小次郎の銅像を見ても、確かに小次郎はイケメンでかっこいいです。しかし、巌流島の戦いが、いつ行われたか、はっきりしないのです。また、佐々木小次郎は小倉藩コグラハンの剣術師範だったといいますが、小倉藩には佐々木小次郎という名前の人物はいなかったといわれております。言い伝えでは、この決闘は小倉藩公認で、小倉藩の役人が見守る中、二人の決闘が行われたといいますが、実際は違うそうです。また巌流島は小倉藩の領地ではありません。

    武蔵の決闘のことを書き記した小倉碑文コクラヒブンには、武蔵の対戦相手は「兵術の達人、巌流」とあるだけ。「佐々木」と書いていないのです。『沼田家記』という文献には「小次郎」とあります。武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』という本のの注釈には「岩流小次郎」とあります。他の文献には苗字ミョウジが佐々木ではなく、津田だったり、渡辺だったり。それどころか、多田市郎という名前だったという文献まであるとか。いづれにせよ、武蔵の対戦相手の名前はよくわかっていないのです。

    ともあれ、僕のブログでは武蔵の対戦相手は、小次郎とさせていただきます。また、小次郎が、若くてイケメンではなく、おじいちゃんだったという説まであるとか。小次郎が若くてイケメンのイメージがついたのは吉川英治の小説の影響が大きいとか。


  2. 宮本武蔵は遅刻した?
    伝説では宮本武蔵は約束の時間から2時間たってやっと武蔵がやってくりなり、小次郎は怒り出したと。実は武蔵は、わざと遅刻して、小次郎をイライラさせて冷静さを失わせたと。これも一つの策ですね。といいたいところですが、これは真っ赤なウソですwあれは物語を面白くさせるための作り話。武蔵はちゃんと約束の時間を守ったといいます。

    しびれを切らした小次郎が、刀のサヤを投げ捨てて、それを見た武蔵が「小次郎、敗れたり」といったそうです。なぜ、武蔵が「小次郎敗れたり」というセリフを言ったかというと、それは「勝つつもりならば大事なサヤを捨てはしないはず」だから。

    けれど、小次郎が本当に刀のサヤを捨てたか、どうか、これも史実かどうか怪しいところ。作り話である可能性の方が高そうです。
  3. 船のカイで刀を作った?
     はい、これも作り話w船の櫂から木刀を作ったといいますが、それはありません。武蔵はちゃんと事前に木刀を用意しておりました。対戦する小次郎は真剣だったのです。真剣とはここではマジメという意味ではありません。本物の刀です。小次郎が刀なのに、武蔵は木刀。武蔵の方が不利ですよね。しかし、これも武蔵の計算があります。

    一つは軽いから。木刀は真剣に比べると軽いそうです。軽くて動きやすいというメリットがあるのです。真剣は持ったことがないのですが、見た目よりずっと重いそうです。

    二つめの理由は小次郎を殺したくないから。武蔵は小次郎の頭をごつんと木刀で叩きました。小次郎は倒れてしまいましたが、幸いにして小次郎は息を吹き返したのです。武蔵から見たら、勝負に勝てればそれで良い、小次郎ほどの剣士を殺すのは惜しいというのがあったのでしょう。

    その小次郎ですが、武蔵に敗れた後、武蔵の弟子たちにボコボコにされ死んでしまうのですね。これは武蔵の命令か?違います。これは武蔵の父親が差し向けだといいます。晩年、武蔵が書いた「五輪書」に決闘のことが書かれていないのは、自分は小次郎と正々堂々と戦いたかったのに、結果的にダマシうちみたいになったことを恥じているのかもしれないと?なぜ、決闘のことを「五輪書」に書かなかったのか武蔵本人じゃないとわからないですけれど、武蔵にとっては苦い経験だったと思います。




*この記事はBS・TBSの「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。

1 幼名 景虎
 羽生結弦さん、すばらしかったですね。録画で見たのですが、4回転半ジャンプ認定されて良かった。4回転半ジャンプをやったのは羽生さんが初めて。まさに歴史的瞬間でした。また、フィギュアスケートで銅メダルの宇野昌磨さん、銀メダルの鍵山優真さん、おめでとうございます!

さて、羽生さんの演技で流れていた曲は「天と地と」。これは大河ドラマ「天と地と」のテーマ曲です。上杉謙信が主人公で石坂浩二さんが演じられました。僕は大河ドラマ好きだったので昔からこの曲を知っていたのですが、まさか羽生さんの演技で流れて、びっくりしました。羽生さんに上杉謙信が乗り移ったなんて意見もありますが、本当にそれは感じましたね。羽生くんの顔がすごく怖かった。いい意味で。いつもは王子様のイメージですが、今回はまさに軍神という感じで、迫力がありました。

今日は、その上杉謙信のお話です。

上杉謙信は元々は「上杉」という苗字ではなく、「長尾」と言いました。父、長尾為景ナガオタメカゲ、母 虎御前トラゴゼンの二人の間から生まれました。幼名は虎千代トラチヨ。謙信は大人になってからの名前です。虎千代は幼い頃から、わんぱくで、チャンバラ遊びをしては相手を泣かせていたと言います。しかし虎千代は弱いものイジメをしたことがなく、いつも泣かせていたのは年上の子。虎千代は母から「観音様から慈悲ジヒの心を持つのですよ」と教えられたのです。母は虎御前は観音様を信仰し、そんな母の教えを虎千代は守っていたのです。 7歳になった虎千代は父から突然「寺に入れ」と命じられます。虎千代は不満に思ったが、父の言いつけを守り寺で修行をしたのです。

なぜ寺に入れられたのかというと、虎千代には長尾晴景ナガオハルカゲという兄がいました。長尾家の跡取りは晴景と決まっていたのです。家督争いをさせないために弟の虎千代を出家させたのです。というのは、表向きの理由。

むしろ、父は虎千代を守るために寺に入れたと言われております。実は、長尾為景は越後の守護代でしたが、守護の上杉房能ウエスギフサヨシを殺し、同族の上杉定実ウエスギサダザネを新しい守護にしたのです。しかし、定実は名ばかりの守護で、長尾為景が実権を握っていたのですが、為景は敵も多かったのですね。いつ、長尾家が狙われるかわからない。家督を継いだ晴景にもしものことがあったときのための保険です。また、晴景も病弱だったので、余計でしょう。

2 生涯の師
一方、いやいや寺に入れられた虎千代ですが、そこで生涯の師に会います。 天室光育テンシツコウイクという曹洞宗の僧侶です。虎千代は天室から仏法だけでなく兵法も学んだようです。天室は虎千代に物事の道理や儒教に基づいた道理、そして義の心を教えたと言います。虎千代のわんぱくぶりは健在でしたが、そうした天室の教えは虎千代の心に焼き付いたと言います。生涯の師って大きいですよね。良き師匠に巡り会えたことは幸運です。

ある日、兄弟子二人と虎千代はケンカしていたそうです。天室はケンカを止めました。虎千代は天室に応えました。「兄弟子と相撲スモウをとっていた。相撲は一対一でやるものだが、それを兄弟子は二人がかりで襲ったので、卑怯ヒキョウな振る舞いと思い、懲らしめた」と。それをきいた天室は、「子供ながら筋が通っている」と感心したそうです。


そんな虎千代が楽しみにしていたのは、兵法遊び。城の模型と兵士に見立てた駒を使って遊ぶ、今でいえばシュミレーションゲームみたいなもの(例えば「ファイアー・エムブレム」)です。

3 家督を継ぐ
しかし、虎千代に哀しい知らせが入ります。1536年、父が亡くなったのです。兄の晴景は家督を継ぎ、守護代となり、春日山城の城主にもなりました。しかし、虎千代は寺での修行を続けました。そして天文12年(1543)に長尾晴景は、虎千代に「力を貸してほしい」と頼まれ、14歳となった虎千代は元服し、名を景虎と名乗ります。その当時の越後は内乱状態だったのです。為景が亡くなってから、こころぞとばかりに長尾平六らが立ち上がり内乱を起こしたのです。その内乱鎮圧のため、景虎は立ち上がったのです。この時景虎は14歳。栃尾城トチオジョウの戦いです。

天文12年(1543)10月、景虎は栃尾城に入りました。その時、長尾平六は景虎を14歳の子供だと侮りました。長尾平六はまるでネコがねずみを痛ぶるように景虎が篭っている栃尾城攻めを繰り返したのです。それでも景虎は動揺しません。戦局が動いたのは翌年の天文13年(1544)1月23日。平六軍の激しい攻撃に景虎の家臣たちもあせりますが、景虎は「汝ら老功の勇士たりと言えども、戦術に練達レンタツせず。今は兵を出すべき時節にあらず。しばし敵勢を耐えよ」と戒めるのです。この景虎の命令に疑問を抱く家臣もいました。しかし景虎には策がありました。景虎は自軍を二つに分け、片方を平六軍と正面から戦わせる一方で、もう一つの軍を平六軍の背後から襲撃シュウゲキしたのです。挟み撃ちをされた平六軍はたまりません。見事、景虎は勝利を収めたのです。

こうして景虎の人気は高まります。一方の病弱の晴景に代わって守護代になってほしいと願う者も出てきます。景虎は毘沙門天ビシャモンテンの化身じゃないかって声も上がります。まして、当時は関東の北条氏康や甲斐の武田信玄が力をつけており、越後まで攻めてくるという雰囲気だったから。まさに越後の国存亡の危機。この危機を救えるのは景虎しかない。そして、守護の上杉定実と兄晴景の要請を受け、景虎は守護代になり、兄は隠隠居インキョしたと言います。

しかし、守護代となった景虎は兄の晴景を立てることを忘れず、国の運営などの政策は晴景の許可を得て行ったと言いますし、自分は兄の病気が治るまでのワンポイント守護代だという認識があったそうです。そんな折、守護の上杉定実が亡くなります。定実には跡取りがいませんので、守護職がいなくなりました。それで、景虎は定実の代わりに実質的な越後の統治者として越後国を守ろうとしたのです。

そんなおり北信濃の領主、村上義清ムラカミヨシキヨが景虎のところへやってきます。甲斐の武田氏に領地が奪われ、景虎に助けを求めたのです。景虎は「見捨てるわけにはいかん」と快諾。景虎は川中島で武田軍と戦ったのです。天文22年(1553)から永禄7年(1564)の間に5度も景虎の軍と武田軍は戦ったのですが、結局決着がつかなかったと言います。1度目の戦いが終わった天文22年(1553年)9月、景虎は京に向かいました。景虎は前の年に朝廷から 従五位下弾正少弼 ジュゴイゲダンジョウショウヒツという位をもらい、その返礼として京に訪れたのですね。その際、時の天皇や将軍に会いました。遠方からわざわざ天皇に会いにきたということで、御剣と天盃を賜ったと言います。さらに「住国並びに隣国の敵を討伐トウバツせよ」との勅命までも天皇から受けたと言います。これは天皇が武田との戦いを正義の行いと認めたようなものです。

また、永禄4年(1561年)閏3月16日には、関東管領カントウカンレイ上杉憲政ウエスギノリマサから関東管領の職を譲られ、上杉の家督までも継いだと言います。それから景虎は上杉正虎ウエスギマサトラと名乗ります。ちなみに謙信は本名ではなく、法号です。元亀元年(1570)に法号「謙信」を称したそうです。法号とは出家したものに付けられる名前のこと。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

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