history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 平成と令和

選挙が近くなり、選挙カーをあちこち見かけるようになりました。日頃から熱心に駅前で演説をしている議員さんも、普段は演説やらない議員さんも、どちらも頑張っています。僕が見たところ、普段演説をやらない人ほど一生懸命頑張っている感じがするw、そりゃ「“あの人は選挙の時だけお願いします“だから」なんて思われたくないから。いい方は悪いが、選挙は議員さんの就活みたいなものですからね。

さて、世襲議員はとりわけ悪く言われます。苦労を知らないからだとか、無能だとか、ひ弱だとか、庶民の気持ちがわからないとか。戦後まもない頃の議員さんは生粋の叩き上げが多く、そうした人たちが日本を立て直したと言っても過言ではありません。昔の議員さんは本当に迫力というか威厳がありました。田中角栄元総理にせよ、岸信介元総理にせよ、後藤田正晴さんにせよ、すごかった。国会議員どころか市議クラスですら、威厳というか、古武士のような風格が感じられる人が多かった。また苦労をしているせいか人の気持ちがわかる面もあった。実は僕の親戚にも市議さんがいたのですが、気さくでいい感じの人でした。でも、人生の甘いも酸いも知っている苦労人で人の気持ちがわかる人でした。

野中広務さんも、ネットとかでメッチャ叩かれているが、よくも悪くも迫力を感じる人でした。また苦労人だけあって、弱者にも目を向けている面もあった。野中さんの著作もよませてもらいました。彼はネットでは売国奴と叩かれているけれど、日本のことを彼なりに一生懸命考えていたんだなって思いましたよ。議員を引退してから、野中さんは、地元を散歩することを日課としていたそうです。そして公園のホームレスと会話していたのだそうです。ある日、あるホームレスに説教をした後、ホームレスにポケットマネーを渡したと言います。「その日から公園にきていない。やっと故郷に帰ったんだろう」と、自分のことのように喜んだとか。

さて、世襲議員についてですが、これは一概に悪いとは僕は思いません。元自民党の大物議員だった古賀誠さんは「親に勝る政治家もいる」と言ったほど。あと、ある保守系言論人が「世襲議員の方が、幼い頃から、陳情に聞いている人を見ていたりしているから意識が高い」と言っていましたっけ。幼い頃から政治の世界を肌で感じていることは大きいということでしょう。また、その人は「世襲を批判したところで、市民活動上がりだとかタレント議員が増えても困る」みたいなこともおっしゃっていたなあ。歴史上、古くは藤原不比等、戦国武将、たとえば武田信玄、織田信長、北条氏康etc、江戸時代の徳川家光はもちろん、徳川吉宗だって世襲と言えば世襲。さらに大正や昭和に活躍した牧野伸顕は大久保利通の子。牧野の娘の夫が吉田茂。吉田茂も世襲議員みたいなものですね。世襲が悪いわけじゃないです。

ただ、古賀誠さんは世襲議員を一概に悪いとは思わないが、近年の世襲議員は「故郷をもっていない」とおっしゃっております。「世襲議員というのは、大体、都会の生まれ(とりわけ東京生まれ)が多く、郷土の土とか、郷土の風を知らない、おじいちゃんや父ちゃんの地盤があって、本人はそこの土と水で育っていない」と古賀さんおっしゃるのです。例えば、公共事業って何かと叩かれるけれど、あれも地方を活性化させる一環なのですね。河川を整備しなければ、増水や氾濫で災害に遭う。道路もなければ救急車も間に合わない。まさに命に関わる問題ですよね。僕も日本の各地をちょくちょく旅行に行くけれど、荒れ果てた田畑や地方のシャッター街とか見るたびに、地元の政治家は何やっているんだって思いますもの。また僕は以前に某世襲議員の地元に旅行しまして、タクシーの運ちゃんにその政治家の名前を出したら急に不機嫌になったっけ。地元に帰るのは選挙くらいで何もしないって。「憲法改正する・しない」も大事かもしれないが、その前に地元のことをもっと見てほしいと。李登輝元総統も同じこと言ってたなあ。「日本の政治家は東京しか見ていない」って。つまり、東京の生まれのためにどうしても東京を視点にして日本を見るところがあると。東京がどんどん発展する一方で他の都市や地方が疲弊していく。そんな状況が続いているのです。



また今の議員さんって世襲関係なく、どこか軽い感じの人が目立つんだよなあ。みんながみんなそうではないが。これは申し訳ないが、マスコミにも責任がると思うんですよね。マスコミって良くも悪くも軽薄な人が好き。記事にしやすいから。だから、そういう候補者をどんどん取り上げる。口が重かったり、古武士風の人は記事やネタにしづらいから嫌われやすい。だから普段から地道にコツコツやって地元に慕われている人でも派手さがないとマスコミはまともに取り上げてくれない。議員さんだって、当選したいから、実績を訴えるよりもマスコミに取り上げてもらって有名になった方が票を取りやすい。地道にコツコツやるよりも、ちょっと変わったことをしたり、パフォーマンスに走ったりする。もちろんパフォーマンスも優れた政治家の才覚という意見もあるから、一概に批判はできませんが。

※1『安倍三代』(青木理著 P174)

*参考文献及び参考サイト

安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05



https://diamond.jp/articles/-/249108?page=4

よくネットで後藤田正晴さんが、生前に安倍晋三元首相を批判し、「安倍晋三だけは総理にしちゃいかん」といったと拡散されておりますが、結論から言えば、

そんなことは一切言っていません。ガセネタです。

後藤田さんが批判したのは菅直人元首相。後藤田さんは生前、「菅だけは絶対に総理にしてはいかん」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」とおっしゃっていたそうです。つまり、ネットでは菅直人さんのところを安倍晋三さんに変えられて、後藤田さんが「安倍だけは総理にするな」と言っていると広まってしまったのですね。

確かに運動家とか革命家は壊すのは得意かもしれないが、作ったり、みんなをまとめたりすることは不得手かもしれない。そういう意味では後藤田さんは慧眼ケイガンかもしれません。


後藤田さんが安倍元総理のことをどう思っていたのか、僕は知りませんが、安倍元総理の祖父である岸信介のことは、その能力を高く評価しておりました。ただ、戦争に対する反省がないという点は残念だったと。また、後藤田さんは、「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者が日本の首班になることに対しては疑問があったとのこと。

安倍晋三元総理を批判したのは、後藤田正晴さんではなく、父親の安倍晋太郎さんだとネットで言われております。安倍晋太郎はかつて晋三さんに「お前には政治家として最も大事な情がない」と言ったとか。まるで実の息子を政治家としてではなく、人間的にも嫌うような言い方ですね。ただ、こちらも本当かどうかはわからないです。安倍晋太郎は放任主義で、無理をして政治家になる必要はないし、好きなことをやった方がいいという考え方だったそうです。若き日の安倍晋三さんが政治に興味を持ち自分でやりたいと言い始め、それで安倍晋太郎さんが外務大臣になった時、安倍晋三さんに「秘書官になれ」といったとか。

ただ、安倍晋太郎さんと安倍晋三さんでは親子でも政治的スタンスは違うことは確か。安倍晋太郎さんは「オレは岸信介の娘婿はじゃない。安部寛の息子なんだ」が口癖で、戦時中に戦争に反対した父親の寛を誇りにしていたそうですし、安倍晋太郎はバランス感覚に優れ、強引なこととか、無理をするとか、自分の主張を強調することがなかったとのこと。強い人たちだけの味方では決してなかったし、かといって弱い人たちだけのことを考えていたわけでもない。全体を眺めながら舵取りをする政治家だったそうです。安倍晋太郎はタカ派の多い清和会のリーダーでしたが、右の考えに流されるタイプではなかったそうです。戦争を経験していることもあって、リベラルな考え方を持っていた。

また、安倍晋太郎さんは答弁で先の大戦について、このように述べられました。

「私もやはり、第二次大戦は日本を亡国の危機に陥れた、大変誤った戦争であると思っております。国際的にも、この戦争が侵略戦争であるという厳しい批判があるわけであります。政府としても、そうした批判に対しまして十分認識をして、これに対応していかなきゃならない。これがこれからの、そしてこれまで日本が歩んできた世界平和を求める基本的な姿勢でなければならぬし、今後ともそうでなければならない」(*1)


*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05



*1 『安倍三代』P164より





1 静かになった電車 騒がしくなった街
 近年、暴行事件が芸能界でもスポーツ界でも話題になりますね。昭和や平成の初期なら特に問題にならなかったことが、今問題になっているのですね。会社でもパワハラやセクハラが問題視されていますが、それまでの昭和のやり方が現代社会に合わなくなっているのでしょう。昭和は良くも悪くも、ゆるい時代でした。それがいい面でもあり、悪い面でもあったのですが。

ここ20年で変わったといえば、通勤電車。20年くらい前は、電車の中で怒鳴り声をたびたび聞いたり、喧嘩ケンカの光景もよく見かけました。前にどこかのリーマンがカバンで相手を思いっきりひっぱだいている光景を見かけ僕もびっくりしましたっけ。ケンカの原因は、新聞があたったと言うのは序の口で、ひどい時は目があっただけで喧嘩なんてこともありました。ひどい時は一週間に一回はケンカの光景を見かける有様。ケンカが原因で電車が止まることもしばしばでした。今はコロナ禍なのでしょうが以前ほど喧嘩を見かけません。

とはいえ、そういうケンカがなくなったわけじゃないのです。この間、バスに乗っていたら、外から怒鳴り声が聞こえたのですね。窓から覗いていたら、道で60代後半くらいのおじさんが、すれ違い様に怒鳴り合っているのですね。おそらく、「邪魔だ、どけ!」って感じでしょう。あと、駅でも60歳くらいのおじさんが高校生に怒鳴っていました。何が原因か全く不明。その光景を、ベンチに座っていた80歳くらいの女性2人が「最近、お年寄りが怒りっぽくなりましたね」って呆れてました。若い人よりいまは中高年の方がお元気みたいです。

2 乱闘が無くなった
 変わったといえば野球の世界も変わりましたね。昔は乱闘ラントウがよくあったけれど、最近はほとんど見かけません。今じゃ自チームだけでなく、敵のチームの選手とも仲がよくsnsで交流をするような時代ですからね。そんな和気あいあいとした雰囲気ふんいきじゃ、そりゃあ中田翔選手は浮いちゃいますね。時代の流れですね。

でも、昔は中田選手みたいな人、そんなに珍しいタイプではなかった。今より血の気が多い選手が多く、武勇伝も数多くあり良くも悪くも面白い時代でした。

星野仙一さんなんて典型でした。選手の顔が変わるくらい殴ったとか。今なら大騒ぎになりますね。あと、乱闘といえば、星野さん。一期目の中日監督時代(1987〜1991)の動画を見て、驚きましたよ。星野さんがマジでこわいのw星野さんが怖いのは前から知っていたけれど、まさかこれほどとは。画面でも伝わってきますもの。星野さんがイライラしていて、椅子イスをトントン叩いている。それで選手はおろか、コーチさえ「触らぬ神にタタリなし」みたいな感じで星野さんに近づかず、目線すら合わせない。普通、誰かしらコーチが監督のとなりにいるものなのですが。

唯一、落合博満さんだけが星野さんのとなりに座るのです。とは言っても落合さんは星野さんと一切会話をしない。これは、落合さんが星野さんをしたってっているとうより、選手たちが不要に怒られないように自らがたてになっていたのですね。星野さんは、怒っても大丈夫そうなタフな人しか叱らなかったと言いますが、僕が中日の選手だったら、あのピリピリした雰囲気だけでめまいがします。

3 荒くれ者を抑えるには
逆にいえば、そのくらいやらないとチームがまとまらなかったのかもしれない。中日は昔から野武士集団と言われ、荒くれ者が多かったのですね。

例えば、一塁から走塁をしようチョロチョロとしているチームメイトに目がけバットを投げつける選手も、かつて中日にいました。要するに、自分のバッティングに集中できないから走塁でチョロチョロするなと。今だったらSNSで叩かれますね。

80年代の中日にもベンチに乱闘要員がひかえていて、乱闘になると真っ先に飛び出すの。今、そんな人いませんよね。というか今時のおとなしい監督さんじゃ舐められてしまいますね。

荒くれ者を抑えるには、同じくらいの荒くれ者を重しにすると良いと言います。星野さんだからこそ、まとめられたのでしょう。

もっとも昔は中日に限らず荒くれ者が多かったし、監督は星野さんに限らず厳しい監督が多く鉄拳制裁テッケンセイサイが当たり前の時代だったのですが。

その星野さんが楽天に来た時にはすっかり好々爺コウコウヤになっていて、「今の選手はあんまり怒ると落ち込む。時代に合わせないとな」なんておっしゃっていた時は我が耳を疑いましたね。もちろん、楽天時代の星野さんはモノに当たっていたと言いますし、厳しい監督だったことは確かなのですが。それでも、中日時代(初期)と比べるとコーチも星野さんと会話していたし、中日時代よりずっと近寄りやすい雰囲気。人間って変わるものだなって。驚きました。というか、選手の質が変わったのも多々あるのでは。

4 よくもわるくも昔は元気だった
 実は僕はボランティアをやっていて、結構色々な年齢の人とご一緒するのですが、60歳くらいの男性が自分が高校の時、よその高校まで集団でなぐり込みに行ったという武勇伝ブユウデンを語られていました。

武勇伝といえば、僕の母校もそんな話がありました。僕の時代にも不良はいたけれど、よその学校まで集団で殴り込みに行ったなんて話はありませんでした。でも、僕の10歳くらい先輩の代だと、他校との喧嘩は当たり前だったと言います。さらに、後輩は朝早くに学校に来て、最寄駅モヨリエキから校門までずらっと並んで、先輩たちを「押忍オス!」って出迎えたなんて話もあったとか。まさにリアル男塾。そんな時代があったんだって、びっくりしましたよ。

それから僕より10歳後輩たちの情報もネットで知ったのですが、すっかりおとなしくなって、へたすりゃ引きこもりの一歩手前の生徒も珍しくないと。僕の時代にもそんな子はクラスに1人か2人くらいだったのに。同じ学校なのに、こんなに生徒の質も変わるのだなって。世代の違いってあるのだなって。

喧嘩もそうですが、学生運動や労働争議もすごかったですね。学生運動の動画も見せてもらったのですが、本当に日本かよって思いましたもの。学生が火炎瓶カエンビンを持って暴れているのですよ。青春時代に学生運動やら喧嘩やらやっていた人からしたら、今の若い子を見るとて歯痒はがゆくて仕方がないだろうなって。逆に今の若い子からしたら、そういう大人がけむたいだろうなって。

ジェネレーションギャップを埋めるのはなかなか難しいようで。





沖縄オキナワサミットが開催されたのが2000年。早いものですね。あれから20年以上もたつのか。沖縄サミットも昨日の出来事かと思っていたけれど、歴史の教科書にのるような話になったのですね。実は、開催地が沖縄にすんなり決まったわけではなかったのです。2000年のサミット会場は札幌サッポロ千葉、横浜、福岡などが名乗りをあげ、沖縄は一番不利だったのです。それが逆転したのは、沖縄サミットを決めた小渕恵三元総理の英断だったのです。それは1999年4月のことでした。ある新聞は「久々に政治をみた」と評価しました。小渕元総理も沖縄サミットが決まった際「沖縄の長い歴史の痛み」と言及されたとか。

沖縄サミットの際、テーマソングを小室哲哉さんにつくってほしいとお願いしたのが、小渕元総理でした。また、小渕元総理は「ぜひ安室奈美恵さんに歌ってもらいたい」という注文も同時に入れたといいます。安室さんは沖縄のご出身。この上ない人選だと思われます。


閑話休題、安室奈美恵さんといえば、浜崎あゆみさんや宇多田ヒカルさんと並び90年代を代表する歌姫です。「Don't wanna cry」とか「CAN YOU CELEBRATE」とか。また、彼女は歌だけでなくファッションセンスも抜群で、彼女の影響を受けた少女たちは「アムラー」とよばれました。


その後、楽曲は完成したが小渕元総理が急に亡くなられたことを受け、明るかった曲調をこの楽曲の曲調に変え、作り直したといいます。どうりで、この曲はどこか悲し気な感じがすると思いましたね。この曲は沖縄サミットを祝う曲でもありますが、小渕元総理への追悼ツイトウの意味も込められているのかなと思いました。そして、この曲は沖縄サミット本番でも歌われました。

あと、沖縄サミットといえば2000円札も発行されました。守礼門の絵がプリントされているやつですね。2000円札を作ろうと考えたもの小渕元総理です。でも、最近2000円札ってみませんね。僕も前に持っていましたが。ちなみに2000円札は今も使えるそうです。でも、今の若い子は2000円札わかるかなあ?たとえば客がコンビニに行って2000円札を若い店員さんに渡したら、若い店員さんが目を白黒させて、偽札じゃないのという目で客をみるなんて光景もこの先あるかもしれない???

小渕元総理が亡くなったので、沖縄サミットには後継の森喜朗元総理が出席されました。アメリカからはクリントン元大統領が、イギリスからはブレア元首相が出席しました。ロシアからはプーチン大統領が出席しました。各国の首脳たちが変わっていく中で、いまだに権力を握り続けているプーチンは恐ろしいなと改めて思います。

サミットに出席した首脳たちは以下の通り。


日本         森喜朗(議長・日本国内閣総理大臣)
フランス       ジャック・シラク(フランス共和国大統領)
アメリカ合衆国    ビル・クリントン(アメリカ合衆国大統領)
イギリス       トニー・ブレア(イギリス首相)
ドイツ        ゲアハルト・シュレーダー(ドイツ連邦首相)
イタリア       ジュリアーノ・アマート(イタリア首相)
カナダ        ジャン・クレティエン(カナダ首相)
ロシア        ウラジーミル・プーチン(ロシア連邦大統領)
欧州連合      ロマーノ・プローディ(欧州委員会委員長)


沖縄は基地の問題とか色々抱えておりましたが、サミットの主な議題は「IT革命」でした。今では当たり前の「IT」ですが、2000年当時はまだ「IT」もまだまだ普及したばかりだったのですね。だから「IT」を「いっと」と読み間違えちゃいますよねw


それから、各国首脳に贈答用として琉球リカちゃんの別注モデルサミットリカちゃんがそれぞれに贈られたといいます。たいていは伝統玩具が贈られるようですね。日本であれば駒だとか、羽子板だとか、凧だとかそんなところでしょうか。しかし、そうではなく、リカちゃん人形のような商用玩具が贈られるのは異例の事だったといいます。




※ この記事はウィキペディアを参考にして書きました。

きょうは、平成最後の日です。僕は40年生きておりますが、今の時点で人生のほとんどを平成という時代にいきてきました。昭和から平成になったのは僕が中学生の時です。たしか、あの時は昭和天皇陛下が亡くなったときで、平成天皇のご葬儀の日には雨が降っていたのも覚えております。平成最後の東京も雨がふっております。「平成」と書かれた色紙を掲げたのはいまは亡き小渕恵三元総理でした(当時は官房長官)。平成になって、僕もいろいろなことがありましたが、もうすぐその平成が終わるのかと思うと寂しい気分です。

さきほど、天皇陛下の退位のお言葉をきかせてもらいました。陛下の平和への思い、そして全世界が平和になることを願っていることがひしひしと伝わってきました。

きょうはフランス革命のお話の続きをしようかと思いましたが、それは新しい令和の年になってから書かせてもらいます。きょうは僕が個人的に印象に残った平成のニュースを5つあげます。僕が思いついた順で書かせてもらいますので、あくまでも、順番はニュースの重要性とは一切関係ありません。あらかじめご了承ください。



 
1 東日本大震災
 あれほどの震災は僕は体験したことがないですね。平成の世になって阪神大震災、熊本震災、北海道の震災など震災が多かったですが、東日本大震災の被害は甚大なものでした。

たくさんの方が亡くなられたことにも心が痛みますし、僕の遠い親戚も福島の小高に住んでいて、いまも避難生活をしております。だからこの震災は一言とは思えないのですね。東京も相当揺れましたもの。テレビをつけてもほどんど震災のニュース。CMもすべてACジャパンのものに変えられてしまいました。あの「あいさつの言葉」のCMはいまも印象に残っています。「ぽぽぽぽーん」でしたっけ。

僕も震災から数年たって、なんども東北に行かせていただきました。実際、テレビやネットで取り上げられている状況とは違うなと思いました。奇跡の一本松の周辺はがれきの山。人もほとんど歩いておりません。コンビニもプレハブ店舗でした。

気仙沼もいったのですが、町はそれなりに復興をしていたものの、港にいくと、やはりがれきの山。津波の被害はこれほどひどいのかと思いました。原発事故のあった周辺には人が住んでいない状況でした。

風評被害もひどいもので、僕が福島の道の駅(原発事故からあった後から離れている)にも野菜が大量に売れ残っていました。福島産の野菜は美味しいのですよ。作り手の真心が感じられて。また、福島からの避難民の人たちが避難先で「放射能がうつる」とかいじめられていた事も問題になりました。


2 世界の情勢
 日本の出来事ではないのですが、あれはインパクトがありました。あの時僕は中学生でしたが、ベルリン市民が壁を壊すシーンは今も覚えております。今の若い子にとっては歴史の教科書のお話かもしれませんが、僕はこどものころはドイツは西ドイツ、東ドイツに分かれておりました。

さらにドイツの首都ベルリンは、これまた特殊で、ベルリンは連合国の合意でアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって周辺地域とは別に分割占領されました。ベルリンの街は東ドイツにありながら、ベルリンの街が西側(アメリカ側)と東側(ソ連側)に分かれていたのです。その東陣営と西陣営を隔てていたのがベルリンの壁でした。日本に例えるなら東京が23区がアメリカの領地、多摩地域が北朝鮮のように別の国みたいにわかれてしまったのです。(おっと、べつに多摩地域が北朝鮮だといっているわけじゃありません。誤解しないでくださいw)

同じベルリン市民でありながら、西と東で隔てられ、壁の向こうには親戚や友人がいるのに会えない。それで壁を乗り越え、親戚や友人に会おうとしたら、警察につかまったり、下手すりゃ殺されたりしたのです。そんな理不尽な状況が何年も続いたのです。

あのころはまだ冷戦の時代で、ソ連とアメリカがにらみ合っていた時代でした。ソ連にゴルバチョフが書記長に就任してから、雪解けムードにはなっていたのですが、それまで日本はソ連の核の恐怖にマジでおびえていたのですね。中国の脅威だとか、北朝鮮の脅威だといわれておりますが、1980年代もソ連脅威論が叫ばれていたそうですよ。実際、ソ連はアメリカのみならず日本にもミサイルを向けていたそうですし。

そのソ連が1991年に崩壊してしまうのですね。今にして思えば、ベルリンの壁崩壊もソ連崩壊の序曲だったのですね。

ベルリンの壁崩壊やソ連崩壊と同じく海外のニュースですが、これも印象に残っております。ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む映像に僕は衝撃を受けました。そして、崩れていくワールドトレードセンターのビル。あの建物はアメリカ人にとっても心の支えでもありました。あのテロ事件で亡くなった人もすくなくありません。

9・11事件以降、アルカイダなどテロリストをやっつけろみたいな空気が生まれたのですね。アメリカでも愛国心が叫ばれるようになり、ネオコンとよばれる勢力が台頭してきました。この事件が2年後のイラク戦争の呼び水となり、日本でも自衛隊を海外に派兵しようという動きもでてきました。あのころ2ちゃんねるも右翼的な発言やコメントがあふれていましたっけ。イラクの人質へのバッシングにも驚きました。それだけ世界全体が不穏な空気になっていったのでしょう。

閑話休題、NHKの「映像の世紀」で「それはニューヨークからはじまった」というセリフがでてきます。これは1920年代におきたニューヨークの株暴落がきっかけで第二次世界大戦が起こったことを、この短いフレーズでまとめたものです。歴史は繰り返すじゃないけれど、その言葉通り、この事件がきっかけで第三次世界大戦が起こるんじゃないかって思わずぞっとしましたね。最近はテロの話は聞きませんが、中東の情勢は不安定なままです。

3 オウム・サリン事件
 オウム真理教によるサリン事件には本当に驚きましたね。あのオウム真理教が、こんなテロ活動を行うなんて・・・僕もあの時予備校生で自宅から予備校にいくのに地下鉄を使っておりました。あの事件が起こったときは予備校が休みだったので、無事だったのですが。

僕がはじめてオウム真理教のことを知ったのは中学生のころです。そう平成元年です。あのとき麻原彰晃がテレビにもちょくちょく出ていました。バラエティー番組にも出てて、変なことを言うおっさんだなぁって思いました。オウムは選挙にもでたのですね。平成元年といえば消費税がはじめて導入された年でしたので、麻原は「消費税廃止」を訴えていました。子供心に「なんか気味の悪い人たちだな」と思っていました。それから、僕の知り合いがオウム真理教の関係者が経営していたラーメン屋に入ったことがあるそうです。そのラーメン屋のラーメンはまずく、しかも食べた後具合が悪くなったとか。変な薬でもはいっていたのではと僕も聞いててぞっとしました。

麻原ひきいるオウム真理教が選挙でぼろ負けしてから、オウムの名前はすっかり聞かなくなって、もう過去の人たちだと忘れていたころに起きたのがあの事件なのですね。一介の宗教団体がサリンという化学兵器をつくれるなんて大変恐ろしいことです。オウムがサリンを製造していた建物があった上九一色村も平成の市町村合併のあおりをうけて、村の名前もなくなってしまったのですね。

麻原彰晃が死刑になったのは去年でした。

4 バブル崩壊
 1991年にバブルは崩壊しました。戦後、日本は驚異的な復興を遂げ、経済においてはアメリカと肩を並べるほどになりました。しかし、それが1991年にガラガラとそれが崩れていったのです。

バブルが崩壊してからの10年間を失われた10年といわれております。しかし、当時学生だった僕には世の中が不景気だって言われてもあまり実感がありませんでしたね。でも、当時の自営業をしていた我が家は大変だったのですね。銀行はお金を貸してくれない、モノが売れない、膨らむのは借金ばかり。父親もいつも青い顔をしておりましたっけ。そして、とうとう借金返済のために家を売る羽目になりましたっけ。

それから、なんどか総理大臣がかわったり、政権交代があったりしたのですが、果たして日本は良くなったのでしょうか?さいきん景気が良くなったというけれど、本当にそうでしょうか?格差も広がっているし、地方にいくとひどいものです。この間も地方のある町へいったのですが、商店街はシャッター街。ほとんどのお店が営業をしていないのです。その町は某議員さんの地盤なのですが、正直「口ではうまいこと言っているけれど、まずは自分の地元の経済をなんとかしなさいよ。まず足元を固めてくれよ」ってマジで思いましたもの。ある海外の政治家は「今の日本の政治家は東京のことしか考えない」といっていたようですが、本当にその通りだと思います。それと贅沢もやめてほしい。議員の特権は自民どころか立民や共産でさえ、まともに追求しないし。

日本のバブル崩壊は三度目の日本の転換期だといわれております。一つ目は明治維新、二つ目は先の戦争の敗戦、そしてバブル崩壊。平成は悲惨な災害もあったり、不景気だったりと暗いこともありましたが、少なくとも国内においては戦争のない平和な時代でもありました。新しい令和が明るく、平和で、天皇陛下がおっしゃるように我が国と世界の人々がみな幸せになるといいですね。

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