※ この記事はウィキペディアとラジオ中国語講座のテキストを参考にして書きました。



1 劉慶邦(リュウ・チンバン)さんのインタビューより

 以前に、ラジオ中国語講座の応用編で『信』(手紙)という小説を題材にして学習をしておりました。この小説の作者は劉慶邦(リュウ・チンバン)さん。

彼は1951年に河南省沈丘(かなんしょうしんきゅう)の農村に生まれ、農民として炭鉱労働者として働いた後、記者・編集者などをやって、そして小説家になったです。

そして、中国語講座のテキストのコラムに劉慶邦さんのインタビューについてふれられていました。

2 木の皮や草まで食べた
 その劉慶邦さんがあるインタビューで木の皮や雑草まで食べてえをしのいだと語りました。賞味期限しょうみきげん切れのコンビニ弁当が山のように捨てられるような今の日本では想像もつきません。それくらいきびしく悲さんな生活を劉慶邦さんはされたのでしょう。

劉慶邦さんがまだ子どものころの中国、だいたい1959年から1961年にかけて、大躍進政策(だいやくしんせいさく)が行われました。

3 失敗しっぱいだった大躍進政策
 大躍進政策とは、アメリカやイギリスに追いつけ、追いこせとばかりに農業や工業の生産力を大幅おおはばにアップさせましょうというものです。

しかし、当時の指導者だった毛沢東(もう・たくとう)が中心になって行われたその政策(計画経済)はムチャクチャなものでした。経済はかえって混乱し、天災もかさなって多数の餓死者がししゃを出したそうです。金正日と同じようなことを毛沢東らはやってきたのでしょう。

餓死した数はおよそ2000万人〜5千万人といわれていますが、はっきりした数字はわかりません。でも、少なくともヒトラーが行ったホロコーストの犠牲者ぎせいしゃ数をはるかに上回るといわれております。

この大躍進政策の失敗の責任を取って毛沢東は失脚しっきゃくしてしまいます。しかし、毛沢東は権力の座をねらっていました。やがて文化大革命(ぶんかだいかくめい)とよばれる混乱の最中に毛沢東は再び表舞台おもてぶだいに現れるのです。


4 評価が分かれる毛沢東

 大躍進政策そして文化大革命などの失態しったいのため、中国では毛沢東は評価は人によって分かれます。英雄だとあがめている人もいる一方で、父のように厳しい人、あるいはおにのような人だとおそれられています。

映画監督の陳凱歌(チェン・カイコー)さんのように、毛沢東をきらっている人も少なくありません。

一方、周恩来(しゅう・おんらい)は母のようにやさしい人だと中国人から尊敬されているそうですね。

学校の歴史の授業などではヒトラーのホロコーストはふれられていましたが、大躍進運動については全くというほどふれられません。そのせいもあってか、僕が大躍進運動のことを知ったのはわりと最近のことです。