1 秀衡に対する頼朝の要求
源平の合戦で平家を倒した源頼朝は東北に目を付けました。けれど、イキナリ東北に攻めこんだりはしません。まずは東北のリーダーである藤原秀衡に圧力をかけてきます。
それは、「陸奥(東北)から都(京にいる朝廷)に献上(※1)する馬と金は自分が仲介rt>ちゅうかいしよう」との手紙を秀衡に送った事です。この書状を読んだ秀衡はおどろいたようです。なぜなら、奥州藤原家は(京都)の朝廷に馬や金を誰の仲介もなしに直接献上をしていたのです。
そうやって朝廷と奥州藤原家は仲良くしてきたのですが、その間に源氏が横やりを入れてきたのです。これは秀衡を頼朝よりも下位に位置付けるもので、秀衡にとって大変失礼なことだそうです。
以前に大河ドラマの『炎立つ』を見たのですが、このドラマでも秀衡が頼朝からの手紙を見て、「頼朝のおそろしいまでの野望がすけてみえる」と言って、激怒するシーンが出てきます。
それでも頭のいい秀衡は頼朝との争いを避けるために、頼朝の言われるまま馬と金を鎌倉へ届けたようです。けれど、そうした頼朝の高圧的な態度に秀衡は「鎌倉殿(頼朝)が東北にせめて来るぞ」と確信したようです。
そして、今度は源義経を差し出せと頼朝は秀衡に要求します。「義経は、頼朝の許可なく朝廷から官位を受けた、その罪状は重い。義経をかくまったものは朝敵とみなす」という主張です。すでに頼朝は、諸国に総追捕使、国地頭を設置する勅許をえていたのです。朝廷の認証を得ていた、つまり頼朝は朝廷の信頼を得ていたのです。頼朝に逆らうことは朝廷に逆らうのと同じみたいな図式がすでに出来上がっていたのです。
それでも、秀衡は頼朝の要求を拒否。秀衡も「けっきょく鎌倉殿は東北の地が欲しいのだ。もはや鎌倉殿との戦いは避けられなくなった」と思ったのかもしれません。「どうせ戦争になるのなら、戦のうまい源義経殿を味方につけて、鎌倉殿と戦おう」と秀衡は思ったのかもしれません。
2 絶大な院宣の効力
秀衡が亡くなった後、秀衡の後をついた藤原泰衡に義経引き渡しを強く要求したのです。それでもなかなか聞き入れない泰衡に頼朝はしびれを切らします。それで、義経の身柄差出を命じる院宣を出すの院宣(※2)をだしてくれと頼朝は後白河法皇にたのんだのですね。義経身柄拘束の院宣に驚いた泰衡は義経を討ったのですね。このままでは自分が朝敵になったら大変だと思ったから。
軍勢を動かすには、高貴な人のお墨付き、たとえば天皇や上皇のだした文書が不可欠でした。こうした天皇や上皇のお墨付きの文書がないまま、戦争を起こせば、それこそ朝敵になってしまいます。逆に言えば天皇や上皇のお墨付きをもらえば、暴力でもなんでも訴えてもよいのです。この時代、武士とはいえ、ほしいままに武力を行使することは許されなかったのですね。
義経の首を頼朝に泰衡は差し出しましたが、それで頼朝は東北侵略をあきらめません。今度は藤原泰衡追討の院宣をだせと後白河法皇に頼朝は迫ります。
しかし、後白河上皇は、藤原泰衡追討の院宣をだすのを渋っていたのですね、「理屈に合わない」ということで。はっきり言って藤原泰衡追討は頼朝の奥州征服が目的であることが見え見えでしたから。それでも頼朝は泰衡追討の院宣を待たずに、東北にせめて来たのですね。
その時入れ知恵をしたのが大庭景能という人物。彼は頼朝に言いました。「そもそも泰衡は、源頼義公の家臣だった藤原清衡の子孫。奥州藤原氏は源氏の家臣の家柄なのです。主人が家臣を討つのにどうして朝廷のお許しがひつようでしょうか」と。
3 奥州の地を手に入れたい
平氏を討滅した源頼朝は、鎌倉政権を安定させるべく、潜在的に脅威である奥州藤原氏を打倒する必要がありました。頼朝はどうしても東北の地を手に入れたかったのです。
また、源平の合戦で領地をもらえなった武士たちに、広大な奥州の地を分け与えることができるし、東北でとれる金や馬(東北は馬の産地でもある)も頼朝にとって魅力的だったのでしょう。
そして何よりも頼朝いや源氏にとって東北の地は因縁の土地であったことも大きいのです。その因縁というのが、前九年・後三年の役です。
前九年・後三年の役は人物の関係が複雑で僕もうまく説明できないのですが、どちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆した原点ともいえる戦いでもありました。源氏の東北への勢力拡大は源氏の先祖からの悲願でもあったようです。ご先祖様が成しとげられなかった東北征服を頼朝は成しとげたいと思ったのかもしれません?
※1お寺や仏像の修理などをするための寄付金を集める事
※ 参考文献
あと、ウィキペディアも参考にしました。