history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:戦艦大和

戦艦大和が「大和」と名付けられたのはなぜでしょう?大和とは日本の別名で、世界最大最強の戦艦を造るのだから、満を期して日本そのものを指す名前にしようという理由で「大和」と言う名がついた?

実は違います。日本海軍は、明治38年(1905)8月に「大日本帝国海軍艦艇の命名基準」を定め、戦艦、空母などの種類ごとに、名前に一定の法則を持たせることを決めました。

戦艦の場合は、江戸期までの旧国名です。戦艦大和の「大和」は大和国(今の奈良県)が由来だとされております。大和と同じタイプの艦である「武蔵」は武蔵国(今の東京・埼玉・神奈川の一部)から撮られました。他にも、長門、陸奥、信濃、伊勢など。

あと「扶桑ふそう」という名前の戦艦もあります。「扶桑」とは、中国の伝説で、東方の海にあるそこから太陽が登るとされた大木のこと。そこから転じて、日本は扶桑国という異称もあるのですね。日本には扶桑国という言い方もあるなんて知りませんでした。ちなみに、扶桑社という出版の会社がありますね。この会社の由来も「扶桑国」からとったのでしょうか?

空母の場合は、天城、大鳳、蒼龍など空を飛ぶ動物(架空のが多い)からとっております。

重巡洋艦だと山の名前、例えば、足柄、妙高、愛宕といった具合に。

大和の話に戻りますが、大和国は我が国最初の朝廷が置かれた土地であり、日本の歴史上重要な土地でした。また戦争中は日本の民族の誇りを込めて「大和魂」という言葉も流行りました。そこに、巨大さや強さ、連合艦隊旗艦という重要な役割も相まって、「大和」=日本の象徴というイメージが持たれたのかもしれません。

*参考文献

徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19





1 沈み行く大和
 大和は左舷を徹底的に敵から攻撃され、艦体に穴が開き、そこから海水が入って、どんどん艦体は傾いたのです。大和は注水システムがあって、例え左舷がやられても右舷に水を入れてバランスを保つのです。が、もはやその注水システムが機能しないほどになったのです。こうなると大和は沈むだけ。それで「戦闘中止、総員、最上甲板へ退避せよ」という退去命令が午後2時20分ごろに出たのですが、船は沈む一方。逃げたくても逃げられない状況です。


「ドアや何かでは全然出られん。水が入ってきて閉まってるもの。傾いているし。天蓋てんがいの窓からは水がザブーンと入ってくる。それに逆らって、窓から1人ずつ押し上げて外に出して、ほれ行けほれ行けって。そのときはザーザー水が入ってきた。まるで滝登りやね」
『戦艦大和 乗組員たちが見つめた 生と死』(NHK取材班)より P170


だから、逃げるのを諦める乗組員も少なくなかったようです。大和と運命を共にしようって。なんとか生きようと思った者もいれば、大和と死のうと思った者もいた。あるいは、その両方を頭の中で何度もぐるぐる回った者もいたと言います。そうこうしているうちに水はどんどん入っていき、乗組員たちを飲み込んでいく。


「なんぼもがいてもアカン。ああ、苦しいわ、水飲んで死ぬのは本当に。鼻から水は入る、口から入る、もう息ができへん。あんまり苦しいから自分で舌をかみ切って死のうと思っても、かみ切れん。いっぺん、やってごらん。そんなもん簡単にいけへんで。そのうち気が遠くなって、目の奥が真っ暗になって、お母さんの面影がすーっと浮かんできた。」
『戦艦大和 乗組員たちが見つめた 生と死』(NHK取材班)より (P173)


死を覚悟した習慣、お母さんの面影が浮かんだとうい証言は多かったと言います。「お国のために死にます」と言って戦地に行った人たちも最後にすがろうとしたのは、やはりお母さんだったようです。それでも、なんとか生きようと必死な乗組員は甲板までたどりつき、そこから海にザブーンと飛び込んだそうです。しかし、中にはなかなか飛び込もうとしない兵もいたのです。


若い兵隊がしゃがんどった。海に飛び込まないで。僕が『おい、お前ら、飛び込むぞ』って言うてもね、起き上がらんの。手を降るんじゃがね。今から思うとその兵隊らはね、水泳ができなかった。昔の海軍ちゅうのはみんな水泳やりおったですが、終戦間際の若い兵隊なんか、訓練の中に水泳なんか全然ないじゃけ。そいで山から出たような兵隊、水泳ようせなんだよね。あれはほんとかわいそうやった」
『戦艦大和 乗組員たちが見つめた 生と死』(NHK取材班)より P178



戦争も末期になると水泳訓練もロクにしてもらえないまま、戦場に送り込まれた者も少なくなかったのです。中には、海軍に入って初めて海を見たという少年兵もいたほど。自分の意思で大和に残った者もいれば、逃げたくても逃げきれなかった者もいたということでしょうね・・・

2 大和爆発
 大和を離れ、海で一人一人がバラバラに漂っていました。中には渦に巻き込まれた者も。しばらくすると、バーっとあたりが明るくなりました。海面もオレンジ色に光っている。海を漂う乗組員たちは皆驚きました。そして大きな爆発音。そう、大和が爆発したのです。大和の火薬庫が爆発し、煙も高く立ち上ったのです。大和は沈み、巨大な船体は大きな火の玉と化したのです。その爆発が、乗組員たちの運命を変えたのです。

噴煙と共に一度立ち上った大和の破片が、海へと落ちてきたのです。その破片が海に浮かんだ乗組員たちのところにも、それが降ってくるのだから、たまりません。うまく避けれれば良いのですが、運が悪い者は、頭にそれがゴツんとぶつかって、そのまま亡くなったのですね・・・

そうかと思えば、逆に大和が命を救ったケースもあるのです。


「何かの拍子に吹き上げられたんやろうね、大和が爆発した時に。私の心臓は止まっていたはずだけど、それが動いているんだから。大和が最後に爆発した爆風で、心臓が活を入れられて動き出したんじゃないかな。大和が私を助けてくれた、という結果になったんだろうね。一回死んでいたのに」
『戦艦大和 乗組員たちが見つめた 生と死』(NHK取材班)より P182


アンビリバボーな話ですね。他にも、おぼれて海に沈んでいたところを爆風で押し上げられ助かったものや、海に浮かぶ大和の破片に捕まって助かった者、破片からイカダを作って、イカダに乗って助かった者たちもいたとか。実際、大和の乗組員の多くは「大和の爆風に助けられた」と証言しているようです。

八杉康夫さんは、水泳が達者だったのですが、力尽きて泳げなくなったようです。その時思わず言った言葉が「助けてくれ!」。その言葉を発した瞬間、八杉さんは「しまった!」と思ったそうです。いくら生死をさまような思いをしているとはいえ、自分は帝国軍人の端くれ。命乞いをするのは恥ずかしと。すると八杉さんのすぐ後ろに川崎克己さん(後射長)がいたのです。八杉さんは「こりゃ、怒られるぞ」と思ったようです。しかし、川崎さんは「落ち着いて、落ち着いて、そうら、そうら。いいか落ち着くんだ」と優しく声をかけ、自分が捕まっていた丸太を八杉さんの方へ押し流してくれたのです。

八杉さんは必死で捕まったそうです。川崎高射長は「もう大丈夫だぞ。お前は若いから、頑張って生きろ」とエールを送ってくれたのです。八杉さんは「ありがとうございました」と言い、丸太に捕まりながら大声でしばらく泣いたそうな。それから川崎高射長は、いつの間にかいなくなったと言います。

3蜘蛛クモの糸
 やがて、八杉さんは駆逐艦クチクカンによって救われたのですが、その時の光景がまさに地獄絵。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』さながらだったようです。

助かった大和の乗組員たちは即席でイカダを作って、そのイカダに乗っていたのです。すると海の彼方から駆逐艦が近づいてきたのです。

駆逐艦がイカダに近づきました。駆逐艦からロープが何本か降ろされました。「ようやく助かるのか」と安心したのも束の間、それは地獄の争いになったのです。ロープに最初の人が捕まり、引き上げ始めると、その男の腰や足に別の兵がつかまって、引きずり下ろそうとする。みんな、我先に助かろうとするんです。引きずり下ろされた者は、そのまま海の中に消えていったのです。

階級も年齢もへったくれもなく、皆ロープを奪い合うのです。「どけえ!俺のだ!」という怒号が飛び交いめちゃくちゃだったようです。その光景を見た17歳の八杉康夫さんは「これが人間の本質だったのか」と衝撃を受けたのです。日頃厳しい訓練を受け心身ともに鍛えられているはずの帝国軍人もいざとなったら自分が可愛い。八杉さんは呆れるを通り越して、「こんなところにいたら、殺されてしまう」と恐怖感さえ覚えたと言います。

そんなところへ、ふっと八杉さんが振り返ると、そこになんと川崎高射長がいたのです。川崎高射長は「行け、行け」という仕草をしたのです。その時の彼の目は優しかったと言います。そして、彼は大和が沈んだ方向へ向かって海中へ消えていったそうです。「助かるのにどうして」。八杉さんは呆然と見ていたのです。

川崎高射長は大和を空からの攻撃から守る責任者でした。「自分は大和を守れなかった」という責任から、若い八杉さんたちの無事を見届け、自ら死を選んだのです。川崎高射長も、その気になれば助かったのに。「頑張って生きろ」と言ってくれた人が目の前で生きることを拒否したのです。そのことが17歳の八杉少年にとって大きな衝撃だったようです。


* 参考にしたもの
徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19

















また、この記事は、BS・TBSの「THE 歴史列伝」やNHK のDVD「巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」を参考にして書きました。

1 マリアナ海戦
1944年(昭和19)、日本はマリアナ諸島に対するアメリカ軍の攻勢を撃破する「あ号作戦」を発令し、大和ホテル、武蔵御殿と揶揄された大和と武蔵にも活躍の場が与えられます。大和や武蔵が前衛艦隊になり、機動部隊を護衛する役割を果たすことが決められました。

しかし、このマリアナ沖海戦も日本の負け戦。のちにマリアナの七面鳥撃ちと呼ばれたこの戦いで日本機動部隊は約480機の艦載機のうち426機も失ってしまいます。大損害です。ミッドウェーや数々の戦いで優秀なパイロットを失い、マリアナ沖海戦の時には、短期の養成によって投入された飛行隊員が数多くいたそうです。十分な訓練を受けないまま実戦に出すのですから、損害を受けます。

だから、このマリアナ沖海戦で、日本の戦闘機部隊を、戦艦部隊が撃墜するという事件も起こります。敵味方不明の変態が、大和に接近した時、見張りをして居た者が、あせったのです。編隊は味方識別のための翼を振る「バンク」もしない。見張りをしたものも区別ができず困っていたところを、ヤマトではない別の艦が発砲を始めた。数機が落ちていく。その翼をよく見たら日の丸があったのですね。

これや軍法会議ものですね。バンクをしてたら、こんなことにはならなかった。また、敵の艦隊を発見できないほど、日本軍のパイロットの精度が低くなったのですね。

幸い、大和はこの時自分の味方を攻撃しませんでした。大和の乗組員は「ひどい話です。でも大和が撃たなかったのは、せめてもの救いでしたよ」

どんなに性能の良いメカでも、人間の使い方次第ってことでしょう。


ともあれ、マリアナ海戦以降、事実上日本の空母機動部隊は活動停止を余儀なくされるのです。、

2 武蔵が沈んだ
 1944年(昭和19)10月に米上陸隊がフィリピンのレイテ島に上陸。フィリピンまで取られたら、いよいよ日本がやばくなる。海軍も必死になります。これを阻止すべく日本海軍連合艦隊は残る戦力をほど出勤させました。いわゆるレイテ沖海戦です。

戦力が低下し、しかも戦闘機の搭乗員も訓練不足。それで空母機動部隊が「おとり」となってアメリカの艦隊を引きつけ、その合間を縫って大和がレイテ湾に行きアメリカの輸送船団を攻撃するというもの。その空母機動部隊を率いるのが小沢治三郎オザワジサブロウ中将。そして大和の艦隊を率いてレイテ奪還の命を受けたのが栗田健男クリタタケオ中将。


しかし、栗田率いる艦隊の船はどんどん沈められ、武蔵まで沈められてしまいます。武蔵は大和ほどの対空装備がなく被弾。アメリカ軍は武蔵に攻撃の的を絞りました。無数の魚雷と空襲を受けながらも武蔵は耐えました。その強靭ぶりにアメリカ軍も驚いたほど。しかし、その武蔵も力尽きて、24日の午前7時半に沈没。大和の乗組員だった人は、「武蔵がなぜ沈むんだろうか」とか「次は自分達の番だろうか」って不安がったとか。武蔵は大和とほぼ同じ性能でした。その戦艦が沈んでしまうのだから、大和の乗組員たちもショックだったろうし、不吉なものを感じたと思います。

ちなみに武蔵の艦長だった猪口敏平イノグチトシヒラ中将は俳優の六平直政さんのお母様の親戚だそうです。猪口もまた航空機に対する戦艦の無力さを山本五十六同様訴えていました。また、猪口は砲術の第一人者でもありました。射撃の腕は相当だったといいます。しかし、その腕を発揮するような戦況はなく、レイテ沖の海戦にて、武蔵と運命を共にしたのです・・・

3 謎の反転
それで栗田長官は艦隊を退避させたのです。するとアメリカ艦隊は追撃をしなかったといいます。小沢艦隊がおとりになってアメリカ軍を引きつけたからです。小沢は「最後の一発まで撃って打ちまくれ」と命じたとか。自分たちが死んでまでも、おとりの役目を果たそうとしたのです。しかし、その胸中は複雑でした。戦闘機のパイロットたちは訓練を終えたばかりの若者たち。彼らの命を犠牲にしなくてはならないから。小沢は帽子を取って、飛び立つ若者たちを見送ったといいます。


そんな中、小沢は大和に電報を打ちます。「敵機動部隊ハ北ニ誘致シタ 本隊ヲ攻撃中ナリ」と。しかし当時の通信環境は非常に悪く、小沢の作戦成功の電報はなんと栗田の元に届いていなかったのです。大和はその時周りの状況がわからない状況だったのです。それで突然、栗田は反転を命じ、艦隊は北方へと進路を変え帰投したのです。作戦は成功していたのになぜ?

栗田のこの行動は「謎の反転」とされ今も議論の的となっていたのです。結局、大和は小沢艦隊の犠牲にも関わらず、そのまま引き返してしまったのです。こうしてレイテ沖海戦は幕を閉じたのです。本来なら栗田艦隊はレイテ湾に突入すべきだったのですが、それをしなかったのです。あえて、栗田は大和の乗組員を守るために突入しなかったという見方もできます。確かにレイテ湾に突入するということは特攻と同じで、下手すりゃ乗組員がみな死んでしまいます。

レイテ沖海戦を経験した大和の生還者たちに「引き返したことをどう思うか」と尋ねたら、「あのまま突っ込んでいたら、全滅していた。引き返したのは正解だった」という意見が大半だったといいます。

あと敵の部隊が突然現れたという電報が急に入って、突撃をやめ反転したという説もあります。しかし、その敵の部隊は結局いなかったので、謎の反転の真相は未だ謎のままです。

* 参考にしたもの
徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19














また、この記事は、BS・TBSの「THE 歴史列伝」やNHK のDVD「巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」を参考にして書きました。


戦艦大和の乗組員たちが初めてアメリカ軍の攻撃にさらされたのは、昭和18年(1943)12月25日。まさにクリスマスの日でした。

大和は、この年の12月12日、トラック諸島を後にして横須賀に向かって、20日に横須賀を離れ、トラック諸島に向かっていました。そして運命の25日、トラック諸島に向かう最中にアメリカの潜水艦が、大和を襲ったのです。夜明け前だったので、あたりはまだ暗く、大和も潜水艦の存在に気づいていなかったのです。およそ2万5000メートル離れた地点からレーダーで大和を感知。それから2000メートルの距離から魚雷を四本発射し、そのうちの一本が大和に命中。

寝静まっていた多く乗組員たちは、突然の衝撃と大音響に飛び起きたのです。艦内は大混乱。

上官は「大丈夫。艦は沈みはしないから」とパニクった乗組員たちを、なだめていたのです。

この魚雷は大和の艦の後方、右舷に命中したのです。自動車一台分が入るほどの大きさの穴が開きました。そこから海水がザブザブ入ってきます。それで大和は右舷側におよそ四度傾斜したが、それが大和海水注入システムが働き、左舷にも海水が入り復元したのです。それ以上に大きな被害もなく、大和はその日の午後、悠々とトラック泊地に到着したのです。

大和はこの攻撃で受けた被害を修理するため、翌年の1944年1月10日、再び内地に戻ります。内地で大和の修理をした工員たちは驚いたそうです。自動車が一台入るくらいの大穴なのに、よく沈まずにトラック諸島から日本に戻ってこれたなって。トラック諸島から日本には3000キロ以上離れています。現代でも飛行機で乗り継いで5時間かかるようなところです。普通の船だったら途中で沈んでしまいますね。そう考えるとすごいです。

この一件は、大和の乗組員たちに一種の安心を与えました。

「魚雷を一発受けても、ビクともしないとは、やっぱり大和はすごいね」という意見もあれば、「よくもアメ公のやつ、やりやがったな!次は見てろよ」って意見も。




* 参考にしたもの
徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19














また、この記事は、BS・TBSの「THE 歴史列伝」やNHK のDVD「巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」を参考にして書きました。


このページのトップヘ