(この記事は2023年3月19日に加筆修正をしました)
今年は終戦から70年という節目の年を迎えます。今年最後のエントリーは戦後70年企画ということで、日系アメリカ人の戦中と戦後について簡単ではありますがお話をします。日系アメリカ人の人たちの苦労はそれは大変なものだったようです。
とくにパールハーバー以降、アメリカ大陸の太平洋岸諸州にいた日系人たちはアメリカ人たちに目の敵にされてしまいます。ジャップと呼ばれ差別されたのです。中にはアメリカ生まれ、アメリカ育ちの日系人だっていたのに、髪は黒、肌の色が黄色ということで差別されたのですね。日系人は太平洋戦争間もなくしてルーズベルト大統領の命令により、臨時の収容所に強制的に移され、やがて山間部や砂ばく地帯につくられた施設に収容されました。その収容所の数は10か所。彼らは家や仕事、そして何よりもアメリカ国民としての意識を失ったのです。『敵と呼ばれても』の著者のジョージ・タケイさんは、強制収容所に入れられた時のことをこう語られております。
監視塔から機関銃が我々に向けられ、6台の戦車が周囲を護衛していた。船上で使われる高価な兵器が罪のないアメリカ国民を脅かすために使われた。
収容所内にいた日系二世の若者たちは偏見の目で見られる一方で、1944年以降、徴兵の対象になったのです。これを日ごろバカにしているアメリカ人たちの見る目を変えるチャンスと思う若者がいる一方で、アメリカ人としての権利が奪われている状況では徴兵に応じられないと、それを拒否する若者もいました。
一方のハワイにいる日系人は人数が多くハワイでは不可欠の働き者だったので、合衆国はハワイの日系人たちを収容所にいれることはしなかったといいます。そして、ハワイ在住の日系人にも徴兵されるようになります。
日系人の部隊は激戦地であるイタリア戦地に送られました。そのため犠牲になった日系人も少なくありませんでした。まさに使い捨ての兵士として使われたのです。それでも彼らは信じていました。大統領の言った「この国では肌の色や国籍や宗教によって誰も差別されない」という言葉を。それで日系人は戦ったのです。アメリカのため、そして自分たちの平等のため。
日系人の部隊はいくつにも分かれていましたが、特に勇敢に戦った部隊は表彰状が贈られました。
そんな日系人たちの活躍にこたえるかのように最高裁で、合衆国に忠実な日系人の強制収容所に入れるべきではないという判決が出ました。それは1944年のこと。それから強制収容所も徐々に閉鎖されたといいます。それでも、アメリカ人の日系人を見る目は厳しかったのです。強制収容所を出された日系人に渡されたのはアメリカのどこにでもいける片道切符と、25ドルの現金でした。たった25ドルでは生活もろくにできません。渡された切符も青春18きっぷのような期間中、乗り放題の切符ではなく片道切符とはひどい話です。一度、駅から降りたら、その切符は使えないのだから。
戦後になってトルーマン大統領が「あなた方は敵と戦っただけでなく偏見とも戦って勝った」と讃えました。
議員として長く活躍してきたダニエル・イノウエという人がいたようですが(僕も本を読んではじめてしりましたw)、かれも戦争で奮戦し負傷した勇士でした。
(陸軍少尉時代のイノウエ。ウィキペディアより)
日系人が忠誠なアメリカ人として認められるためには、このような命をかけた戦場での奮戦が必要だったし、あるいはアメリカ人として忠誠を尽くす必要があったのです。
今年の春先に「紅白が生まれた日」というドラマを放送したのですが、その時ミュージシャンの星野源さん演じる日系人がGHQとして働きつつも、日本人としての心が捨てられず、悩むシーンが描かれておりましたっけ。自分には日本人の血が流れているのにアメリカ人として働かなくてはならない、そんな矛盾した心境に悩む日系人も多かったと思います。
一方で、食料不足で悩む日本国民のために、食料などの援助物資を送る運動を日系人たちが盛んに送る運動もしていたといいます。
私事になりますが、僕の母が小さいころに、GHQで働く日系人にケーキだとかお菓子だとかをいくつももらったという話も聞いたことがあります。
第二次世界大戦後のアメリカでは反日感情が薄くなり、差別の壁は低くなりました。そうして日系二世、三世たちは多くは教育の機会を得て、次第に社会的地位を得るようになりました。
そして戦時中に日系人という理由だけで収容所に強制収容した不当性をアメリカ議会に認めさせ、補償を得ることができるようになりました。
議会は日系人強制収容所の根本的不正義をはっきりみとめ、生存する被害者に二万ドルを補償することを定めた日系人補償法が可決し、時の大統領のレーガン大統領の署名も得ました。それは1988年のことです。
※ おまけ
今年もあとわずかになりました。来年もみなさまにとって良いお年になりますように。今年の干支である羊の動画をどうぞ。
※ 参考文献
今年は終戦から70年という節目の年を迎えます。今年最後のエントリーは戦後70年企画ということで、日系アメリカ人の戦中と戦後について簡単ではありますがお話をします。日系アメリカ人の人たちの苦労はそれは大変なものだったようです。
とくにパールハーバー以降、アメリカ大陸の太平洋岸諸州にいた日系人たちはアメリカ人たちに目の敵にされてしまいます。ジャップと呼ばれ差別されたのです。中にはアメリカ生まれ、アメリカ育ちの日系人だっていたのに、髪は黒、肌の色が黄色ということで差別されたのですね。日系人は太平洋戦争間もなくしてルーズベルト大統領の命令により、臨時の収容所に強制的に移され、やがて山間部や砂ばく地帯につくられた施設に収容されました。その収容所の数は10か所。彼らは家や仕事、そして何よりもアメリカ国民としての意識を失ったのです。『敵と呼ばれても』の著者のジョージ・タケイさんは、強制収容所に入れられた時のことをこう語られております。
監視塔から機関銃が我々に向けられ、6台の戦車が周囲を護衛していた。船上で使われる高価な兵器が罪のないアメリカ国民を脅かすために使われた。
収容所内にいた日系二世の若者たちは偏見の目で見られる一方で、1944年以降、徴兵の対象になったのです。これを日ごろバカにしているアメリカ人たちの見る目を変えるチャンスと思う若者がいる一方で、アメリカ人としての権利が奪われている状況では徴兵に応じられないと、それを拒否する若者もいました。
一方のハワイにいる日系人は人数が多くハワイでは不可欠の働き者だったので、合衆国はハワイの日系人たちを収容所にいれることはしなかったといいます。そして、ハワイ在住の日系人にも徴兵されるようになります。
日系人の部隊は激戦地であるイタリア戦地に送られました。そのため犠牲になった日系人も少なくありませんでした。まさに使い捨ての兵士として使われたのです。それでも彼らは信じていました。大統領の言った「この国では肌の色や国籍や宗教によって誰も差別されない」という言葉を。それで日系人は戦ったのです。アメリカのため、そして自分たちの平等のため。
日系人の部隊はいくつにも分かれていましたが、特に勇敢に戦った部隊は表彰状が贈られました。
そんな日系人たちの活躍にこたえるかのように最高裁で、合衆国に忠実な日系人の強制収容所に入れるべきではないという判決が出ました。それは1944年のこと。それから強制収容所も徐々に閉鎖されたといいます。それでも、アメリカ人の日系人を見る目は厳しかったのです。強制収容所を出された日系人に渡されたのはアメリカのどこにでもいける片道切符と、25ドルの現金でした。たった25ドルでは生活もろくにできません。渡された切符も青春18きっぷのような期間中、乗り放題の切符ではなく片道切符とはひどい話です。一度、駅から降りたら、その切符は使えないのだから。
戦後になってトルーマン大統領が「あなた方は敵と戦っただけでなく偏見とも戦って勝った」と讃えました。
議員として長く活躍してきたダニエル・イノウエという人がいたようですが(僕も本を読んではじめてしりましたw)、かれも戦争で奮戦し負傷した勇士でした。
(陸軍少尉時代のイノウエ。ウィキペディアより)
日系人が忠誠なアメリカ人として認められるためには、このような命をかけた戦場での奮戦が必要だったし、あるいはアメリカ人として忠誠を尽くす必要があったのです。
今年の春先に「紅白が生まれた日」というドラマを放送したのですが、その時ミュージシャンの星野源さん演じる日系人がGHQとして働きつつも、日本人としての心が捨てられず、悩むシーンが描かれておりましたっけ。自分には日本人の血が流れているのにアメリカ人として働かなくてはならない、そんな矛盾した心境に悩む日系人も多かったと思います。
一方で、食料不足で悩む日本国民のために、食料などの援助物資を送る運動を日系人たちが盛んに送る運動もしていたといいます。
私事になりますが、僕の母が小さいころに、GHQで働く日系人にケーキだとかお菓子だとかをいくつももらったという話も聞いたことがあります。
第二次世界大戦後のアメリカでは反日感情が薄くなり、差別の壁は低くなりました。そうして日系二世、三世たちは多くは教育の機会を得て、次第に社会的地位を得るようになりました。
そして戦時中に日系人という理由だけで収容所に強制収容した不当性をアメリカ議会に認めさせ、補償を得ることができるようになりました。
議会は日系人強制収容所の根本的不正義をはっきりみとめ、生存する被害者に二万ドルを補償することを定めた日系人補償法が可決し、時の大統領のレーガン大統領の署名も得ました。それは1988年のことです。
※ おまけ
今年もあとわずかになりました。来年もみなさまにとって良いお年になりますように。今年の干支である羊の動画をどうぞ。
※ 参考文献