history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:源頼朝

戦が終わり、平和な時代になったらなったらで色々問題が出てきます。まず、鎌倉幕府は御恩と奉公という間柄で、御家人たちに忠誠を誓わせる一方で、褒美として土地などを与えてきたのです。だから、御家人たちはどこかの国みたいにカルト的な忠誠を誓わせたわけじゃないのです。貰えるものがなければ、幕府に不満を持ってしまうのです。戦争があったときは、負けた方の領地を御家人にあげることができましたが、戦争がなければ土地も与えられず、御家人の不満も出てきます。「俺たちにタダ働きさせるんじゃねえ!鎌倉殿はひでえやつだ」って。与えるパイがなければ、それまでなんです。与えるパイが少なくなると、その今度は親戚同士で揉めるのですね。俺のだ、俺のだって。そうなると訴訟も多くなります。

与えるパイもそうですが、戦争があったときは、共通の敵がいたので、一致団結して戦うことができたのです。が、平時になると、共通の敵がいなくなります。すると起こりやすいのが内紛です。「Zガンダム」でも、ジオンという敵がいなくなり(残党がいるものの)、地球連邦軍がエゥーゴとティターンズという二つの軍閥に分かれ内戦を起こしてしまうのですね。

今「鎌倉殿の十三人」やってますが、頼朝というトップの元、北条以下、有力な御家人たちがひしめき合っているのです。仲良くやるのが1番なのですが、それぞれが幕府の実権を握ろうと虎視眈々としていて、最悪、御家人同士が相争うこともあるのです。そんなことにならないように頼朝は御家人同士のパワーバランスに気を遣っていたのです。

また、戦争がなくなれば、武士の存在価値が薄れていくのですね。幕府もいわゆる軍事政権。世界の歴史を振り返ってみても軍事政権で成功した例はあまりないのですね。平和になると軍人の政治から、官僚の政治に変わらなきゃいけない。統治システムが必要になります。その統治システムで1番いらないのが武力、もっと言えば暴力です。今まで戦しかやらなかった人たちに、いきなり刀を捨てろと言われても困ってしまうのです。武家でも北条義時のような人なら問題ないのですが、そんな人ばかりじゃない。結局、京都から公家や官僚を招いて、幕府の運営にあたらせると。公家はこうした官僚的な仕事が強いですからね。こうなると武士は肩身が狭くなります。

そんな最中、頼朝に次男、千幡が生まれます。のちの源実朝です。その乳母夫(後見人)に北条時政が選ばれました。これは千幡に北条家が後ろ盾になるということです。一方、頼朝の嫡男の頼家の乳母夫に比企能員ヒキヨシイエがいました。頼家の後ろ盾に比企家。頼朝の死後、跡目を巡って比企と北条が対立する危険性があります。それで頼朝は、比企の娘と北条義時を結婚させたのです。

これで、幕府も安泰と思って起きたのが、曽我騒動。頼朝はどう動くか。なんと、頼朝は事件の後、御家人たちの大粛清を行います。御家人や武士団たちの所領を没収したり、有力な御家人を無理やり出家させたり。さらに弟の源範頼もターゲットになったのです。罪状は、曽我兄弟の敵討ち事件直後、頼朝が死んだという知らせが鎌倉に伝わったのです。その時、範頼が北条政子に「私がいるから大丈夫」と語ったと。頼朝は死んでいないのに、範頼は死んだと勘違いしたのですね。範頼としては野心というより、鎌倉幕府を守らなきゃという使命感からきた行動だと思うんですよ。でも、頼朝はそうとらなかった。自分に対する裏切りとしか思わず、範頼を幽閉の上、暗殺。

甲斐源氏の御家人、安田義資も首を刎ねられます。理由は永福寺の供養の最中に女官に恋文を渡したからだとか。永福寺は、頼朝が奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため建立した寺院であり、その供養の際の義資の態度が、安田一族の粛清の口実にされたと思われます。

曽我事件を期に、鎌倉に不満を持つものや嫡男の頼家に歯向かいそうな御家人を粛清したのですね。そして、頼朝が最も気になったのが北条時政。北条時政は女房の政子の父であり、鎌倉幕府の功労者。粗末に扱うわけにはいきません。しかし、曽我兄弟の弟の五郎元服した時の烏帽子親だったのが時政だったのです。五郎に時政の一字を与えています。しかも敵討ちの際は時政は協力したという噂もあったほど。そんな時政に頼朝は不信感を抱いています。でも、結局頼朝は時政を粛清することなく、それ以降も重んじたのです。さらに遠江の領地も与え、時政は伊豆、相模、遠江の3カ国の守護になれたのです。時政はまだまだ幕府のために必要だと頼朝は判断したのでしょう。

*この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

910509A5-8278-467D-B0D0-73084E0B58A4


09D9FDEF-2359-4C85-8D2E-E4E82D8D6FD8


AA5D66A7-8058-4890-975D-988374DA51B1


皆さんにクイズです。上の三人の肖像画、それぞれ誰か言ってください。


え、馬鹿にするなって?

上から聖徳太子、源頼朝、足利尊氏だろっ!!


って声が聞こえそうですが、正解はなんとも言えません。実はこの三つの肖像画、本当は誰なのかわからないのです。一番上の聖徳太子の肖像画ですが、僕が高校までの教科書には聖徳太子ってはっきり書いてありましたし、かつての1万円の肖像画もまさにこの絵でした。ところが最近の教科書には「伝聖徳太子」とあるのです。つまり、聖徳太子の肖像画だと言われているが、はっきりはわからないということ。この肖像画は別人の可能性もあるのです。この肖像画は実は本人の死後100年経ってから描かれたもの。つまり、目の前の聖徳太子本人を見て描いたものではないのです。そのため、聖徳太子の風貌を正確に描かれたわけじゃないのです。

二番目は源頼朝だと言われておりますが、これも「伝源頼朝像」とあるのです。それどころか、この肖像画は足利尊氏の弟の足利直義の可能性もあるというのです。

三番目の肖像画は足利尊氏だと言われておりますが、その可能性は低そうなのです。そのポイントはこの武将の絵の上にある花押です。この花押は尊氏の息子の足利義詮のものですが、息子の花押が父の絵の上に描かれることはまずありえないというのです。さらに、この肖像画の武将というのが品がないのです。とても征夷大将軍とは思えない。だらしなくのばした髪、モジャモジャのヒゲ、折れた弓矢を見る限り、これはもっと位が下の武将かもしれないと。もしかしたら尊氏の家臣の高師直の可能性があると。もちろん、この肖像画が尊氏の可能性も低いかもしれないが、ゼロではないのですね。


1 秀衡に対する頼朝の要求


源平の合戦で平家を倒した源頼朝みなもとのよりともは東北に目を付けました。けれど、イキナリ東北に攻めこんだりはしません。まずは東北のリーダーである藤原秀衡ふじわらのひでひらに圧力をかけてきます。

それは、陸奥むつ(東北)から都(京にいる朝廷ちょうてい)に献上けんじょう(※1)する馬と金は自分が仲介rt>ちゅうかいしよう」との手紙を秀衡ひでひらに送った事です。この書状を読んだ秀衡はおどろいたようです。なぜなら、奥州おうしゅう藤原家は(京都)の朝廷に馬や金を誰の仲介もなしに直接献上けんじょうをしていたのです。

そうやって朝廷と奥州藤原家は仲良くしてきたのですが、その間に源氏が横やりを入れてきたのです。これは秀衡を頼朝よりも下位に位置付けるもので、秀衡にとって大変失礼なことだそうです。

以前に大河ドラマの『ほむら立つ』を見たのですが、このドラマでも秀衡が頼朝からの手紙を見て、「頼朝のおそろしいまでの野望がすけてみえる」と言って、激怒げきどするシーンが出てきます。


それでも頭のいい秀衡は頼朝との争いをけるために、頼朝の言われるまま馬と金を鎌倉へ届けたようです。けれど、そうした頼朝の高圧的な態度に秀衡は鎌倉殿かまくらどの(頼朝)が東北にせめて来るぞ」と確信したようです。


そして、今度は源義経を差し出せと頼朝は秀衡に要求します。「義経は、頼朝の許可なく朝廷から官位を受けた、その罪状は重い。義経をかくまったものは朝敵とみなす」という主張です。すでに頼朝は、諸国に総追捕使そうついぶし、国地頭を設置する勅許をえていたのです。朝廷の認証を得ていた、つまり頼朝は朝廷の信頼を得ていたのです。頼朝に逆らうことは朝廷に逆らうのと同じみたいな図式がすでに出来上がっていたのです。

それでも、秀衡は頼朝の要求を拒否。秀衡も「けっきょく鎌倉殿は東北の地が欲しいのだ。もはや鎌倉殿との戦いは避けられなくなった」と思ったのかもしれません。「どうせ戦争になるのなら、戦のうまい源義経みなもとのよしつね殿を味方につけて、鎌倉殿と戦おう」と秀衡は思ったのかもしれません。

2 絶大な院宣いんぜんの効力 
 秀衡が亡くなった後、秀衡の後をついた藤原泰衡ふじわらやすひらに義経引き渡しを強く要求したのです。それでもなかなか聞き入れない泰衡に頼朝はしびれを切らします。それで、義経の身柄差出を命じる院宣を出すの院宣いんぜん(※2)をだしてくれと頼朝は後白河法皇にたのんだのですね。義経身柄拘束みがらこうそくの院宣に驚いた泰衡は義経を討ったのですね。このままでは自分が朝敵になったら大変だと思ったから。

軍勢を動かすには、高貴な人のおすみ付き、たとえば天皇や上皇のだした文書が不可欠でした。こうした天皇や上皇のお墨付きの文書がないまま、戦争を起こせば、それこそ朝敵になってしまいます。逆に言えば天皇や上皇のお墨付きをもらえば、暴力でもなんでも訴えてもよいのです。この時代、武士とはいえ、ほしいままに武力を行使こうしすることは許されなかったのですね。

義経の首を頼朝に泰衡は差し出しましたが、それで頼朝は東北侵略をあきらめません。今度は藤原泰衡追討の院宣をだせと後白河法皇ごしらかわほうおうに頼朝は迫ります。

しかし、後白河上皇は、藤原泰衡追討の院宣をだすのを渋っていたのですね、「理屈に合わない」ということで。はっきり言って藤原泰衡追討ついとうは頼朝の奥州征服が目的であることが見え見えでしたから。それでも頼朝は泰衡追討の院宣を待たずに、東北にせめて来たのですね。

その時入れ知恵をしたのが大庭景能おおばかげよしという人物。彼は頼朝に言いました。「そもそも泰衡は、源頼義みなもとのよりよし公の家臣だった藤原清衡の子孫。奥州藤原氏は源氏の家臣の家柄なのです。主人が家臣を討つのにどうして朝廷のお許しがひつようでしょうか」と。


3 奥州の地を手に入れたい

 平氏を討滅した源頼朝は、鎌倉政権を安定させるべく、潜在的せんざいてきに脅威である奥州藤原氏を打倒する必要がありました。頼朝はどうしても東北の地を手に入れたかったのです。

また、源平の合戦で領地りょうちをもらえなった武士たちに、広大な奥州の地を分け与えることができるし、東北でとれる金や馬(東北は馬の産地でもある)も頼朝にとって魅力的みりょくてきだったのでしょう。

そして何よりも頼朝いや源氏にとって東北の地は因縁いんねんの土地であったことも大きいのです。その因縁いんねんというのが、前九年・後三年の役ぜんくねん・ごさんねんのえきです。

前九年・後三年の役は人物の関係が複雑で僕もうまく説明できないのですが、どちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆こうりゅうした原点ともいえる戦いでもありました。源氏の東北への勢力拡大は源氏の先祖からの悲願でもあったようです。ご先祖様が成しとげられなかった東北征服せいふくを頼朝は成しとげたいと思ったのかもしれません?





※1お寺や仏像の修理などをするための寄付金きふきんを集める事
  • ※2 皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。 天皇の発する宣旨に相当する。 院庁下文よりも私的な形式。




  • ※ 参考文献





    あと、ウィキペディアも参考にしました。





    みなさんは、歌舞伎かぶきの「勧進帳かんじんちょう」という演目をご存じでしょうか。平家を倒した後、源頼朝みなもとのよりとも源義経みなもとのよしつねは対立をするようになります。源頼朝に追われた源義経たち一行が山伏の姿をして(※1)東北の平泉へ向かいました。その途中とちゅう、今の石川県にあった安宅あたかの関を守っていた富樫 泰家とがし やすいえ「ちょっと待て!お前は義経じゃないのか!?」と足止めされてしまいます。

    それで、義経の家来だった弁慶べんけい機転きてんかせ、勧進帳(※2)の巻物を読み上げるのです。その巻物は白紙なのですが、弁慶は勧進帳の内容を暗記していたので、すらすらと読み上げるのです。しかし、富樫はまだ怪しみます。


    それで弁慶はなんと義経をぼうでひっぱだくのです。「お前が義経に似ているから疑われたじゃないか!」って。それで富樫が「もうよい、そなたたちが義経ではない事はようわかった」と、疑いの目が晴れて義経一行は通ることができたと言うのです。もちろん、弁慶は義経に対して、棒でたたいた事を泣いてわびたそうです。普通だったら怒りますよね。でも、義経はそんな弁慶のとっさの機転と彼の忠義をねぎらったそうです。

    一方の富樫は、山伏の一行の正体が義経達だと知っていながら、弁慶の主君を思う心に感服して関所を通ることを許したというのが、「安宅の関」のエピソードです。感動的なエピソードですね。といいたいところですが、この話は作り話みたいです。

    でも、義経が割とスムーズに東北へ行けたのはまぎれもない事実。当時は関所なんてなかったという意見もあれば、義経一行は船で東北に行ったという説もあります。それどころか、頼朝はわざと義経を東北へ行かせるために、義経の東北行きを見逃したのではないかって仮説をたてる人もいるくらい。 義経が藤原家に,げ延びれば、義経をつこともできるし、奥州の地も手に入れることができるという、頼朝にとってまさに一石二鳥な話ですしね。

    ※1 修験道しゅげんどうの行者。金剛づえ・ほら貝などを持ち、特定の山に登って修行するひとたちのこと。
    ※2 お寺に寄付をつのるお願いが書いてある巻物。弁慶が読み上げた勧進帳の内容は、奈良の大仏再建するための寄付のお願い

    (この記事はウィキペディアを参考にして書きました。また2022年7月8日に加筆修正しました)


    1 曽我兄弟の仇討ちとは
     
     日本で仇討あだうちといえば、大石内蔵助オオイシクラノスケ他、赤穂浪士アコウロウシの討ち入りが有名ですね。、吉良邸キラテイに討ち入りにいく前に、お参りしたお墓があります。そのお墓にに眠っているのが、曽我兄弟そがきょうだいです。兄弟は実の父のカタキを取ったです。彼らの壮絶な人生は、のちに『曽我物語』に書き残され、歌舞伎や能でも取り上げれられ、曽我兄弟の仇討アダウちは多くの人に知られるようになりました。曽我兄弟の仇討ちは武家社会において、仇討ちの模範と言われたため、赤穂浪士たちもそれにあやかって、曽我兄弟の墓へお参りしたそうです。大石内蔵助は、曽我兄弟の墓に生えているコケを削り取って、それを袋に入れお守りにしていたそうです。

    曽我兄弟のあだ討ちは、鎌倉時代の始まりころに起こりました。曽我十郎祐成(そが じゅうろうすけなり)曽我五郎時宗(そが ときむね)の兄弟が父親のカタキである工藤祐経(くどうすけつね)を討った事件です。工藤祐経とは時の鎌倉幕府の将軍、源頼朝の側近でした。


    曽我兄弟の父親の名前は、河津祐泰(かわづのすけやす)。彼は領地をめぐる争いで、工藤祐経に暗殺されてしまいます。

    領地をめぐる争いとは、一言で言えば身内同士の土地をめぐるです。今の時代でも、身内同士の財産争いってありますね。それで父のカタキと立ち上がったのが、曽我兄弟なのです。と言いたいのですが、実は、この曽我兄弟の仇討ちの真相は違うんですね。曽我兄弟の本当のターゲットは源頼朝なんですね。これは案外知られていないことですが、歴史学者の間では常識だそうです。

    2 それは同じ一族の土地争いから始まった
    事の発端は、工藤佑経と伊東佑親の土地争いでした。工藤は伊東に土地を横取りをされたことをしり、訴訟を起こしたのです。しかし、佑親は有力者たちにワイロを送っていたので、工藤佑経は伊東の土地の半分しか取り戻せなかったのです。しかも、工藤佑経の妻までも伊東佑親は奪ったため、工藤佑経は激しく伊東佑親を憎むようにあり、佑親だけでなく伊東の息子の河津佑泰(三郎)まで殺そうと決意したのです。ちなみに工藤は源頼朝に気に入られていたのですね。一方の伊東は頼朝が伊豆に流罪になっていた時に頼朝を預かっていた平家の下人。当然、伊東は頼朝と敵対するのですね。頼朝が挙兵して平家と戦った時も、伊東は頼朝と敵対。石橋山の合戦でも伊東は頼朝を追い詰めていたのです。この辺から見ても、伊東と工藤は仲が悪かったのでしょうね。


    C7B57842-1114-4B06-B364-BBE499CB1B37


    そして安元2年(1176)10月、伊豆の国で狩りが行われ、伊東佑親・河津佑泰親子も参加しました。そこで工藤は刺客を送り込みました。狩りが終わって帰路に着く二人を刺客が矢を放ちました。伊東佑親は助かったものの、河津佑泰は矢に当たり死亡。河津佑泰(三郎)は幼い二人の息子を残して亡くなったのですね。その伊東佑親は助かったものの、結局、源頼朝に殺されてしまうのですね。

    そして、兄弟の母は、曽我家の当主と再婚しました。二人の兄弟の苗字も河津から曽我になりました。兄弟の母は、夫の仇を忘れ、新しい夫との幸せな日々を過ごしていましたが、兄弟は、工藤並びに頼朝をうち取ろうと武芸の鍛錬をしながら日々を過ごし、そのチャンスを待っていたのですね。兄弟にとって、工藤は父の仇、頼朝は祖父の仇なのですね。

    平家が滅亡した年に、兄は元服し曽我十郎となり、弟は箱根権現に預けられたのです。弟は厳しい修行をしながらも、父の仇である工藤佑経への憎しみを忘れなかったのです。そして箱根の山を無断で降りて、兄の元へ向かったのです。そして弟の方も晴れて元服をし、曽我五郎と名前を変えます。しかし、二人が元服しても、まだ父の仇が取れぬまま。月日はいたずらにすぎるばかり。

    3 仇討ち、そして頼朝暗殺
     そんなおり、源頼朝が大規模な巻狩をするという情報が耳に入ります。これは源頼家のために開かれたものだと言われております。頼朝の正当な後継者は頼家であるというアピールなんですね。

    建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人ごけにんを集め、富士山の裾野すそのあたりを中心として行った壮大そうだい巻狩まきがりをしました。


    曽我兄弟は、富士の狩場に行き、チャンスをうかがっていました。そして、工藤祐経が夜に屋形で寝ているところを兄弟が忍び込み、めった斬りにしたのです。
    こうして、仇の工藤佑経を討ち取った曽我兄弟。本願を成し遂げたと思いきや、騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだのです。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、兄の十郎は殺されてしまいます。弟の五郎は、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の館に押し入ったのです。いよいよ頼朝を殺すために。

    しかし五郎は館の中で五郎は捕まり、源頼朝の前に連れてこられ尋問を受けたのです。五郎は「頼朝に恨みがないわけではない」と本人の前で言ったのですね。頼朝は五郎の話を聞き、感動し助命をしようと考えたのです。五郎は、なまじかの武士よりも勇気があるから家臣に召し抱えようと思ったのでしょう。しかし、幕府の重臣たちの猛反対で、結局五郎は晒し首にされてしまいます。まだ20歳の若さでした。


    工藤祐経を暗殺する際、兄弟が密談をした場所が、こちらのかくれ岩

    DSC02019

    (隠れ岩)

    DSC02020

    (隠れ岩の説明板)


    DSC02011

    (音止の滝  この滝の音がうるさくて話ができなかったそうです。そこで、二人が神にいのったところ、なんと、滝の音が止んだのです。)

    DSC02010

    (音止の滝 その2)


    DSC02021

    (工藤祐経の墓)

    DSC02022

    (説明文)


    * おまけ
    曽我兄弟の父、河津佑泰は相撲の名手でした。伊豆での狩りの時にも余興で相撲が行われました。今では相撲の決め手となっている河津掛けも河津佑泰が編み出した技です。ちなみに柔道では河津掛けは禁じ手だそうです。

    このページのトップヘ