history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:あゝ野麦峠

女工さんの話を書いた作品で有名なのは細井和喜蔵(ほそいわきぞう)の『女工哀史じょこうあいし』と、山本茂美(やまもとしげみ)さんの『あゝ野麦峠のむぎとうげ』の2冊。

『女工哀史』の著者は細井和喜蔵。1897年5月9日に生まれ、 1925年8月18日に亡くなっています。享年きょうねん28さい・・・若すぎる

細井和喜蔵は、子どものころから両親と別れ、13歳の時には唯一ゆいいつの保護者だった祖母にも死なれ、学校をやめてから、転々と職を変えて、大阪の紡績工場ぼうせきこうじょうではたらきました。それから『女工哀史』を初め、いくつかの本を出したたのですが、急性腹膜炎きゅうせいふくまくえんにて死去しました・・・

『あゝ野麦峠』の著者は山本茂美さん。長野県出身の作家で、1917年2月20日に生まれ、1998年3月27日に亡くなっています。

両方に共通している点は、仕事とはいえ女工さんたちが大変な思いをした事が書かれています。どちらの本もブラック会社や派遣はけん切りの問題など、今日にも通じるようなお話がたくさんありました。



どちらも工場の悲惨ひさんさを描いていますが、ちがいもあります。『女工哀史』は主に紡績業ぼうせきぎょうを取り上げているのに対し、『あゝ野麦峠』は主に製糸業を取り上げています。はじめは僕も紡績と製糸の区別がつかなかったのですが、いろいろ調べているうちに紡績と製糸はちがうことがわかりました。

紡績産業は原料(綿花や羊毛など)の繊維せんいから糸の状態にするまでの工程で、製糸産業は蚕から糸をとる産業だそうです。

紡績業は、大がかりな機械を使うためか、製糸よりも危険がともなうそうです。『 女工哀史』 にもその描写びょうしゃがでてきます。

一方の製糸業ですが、作業には手順があります。まずカイコのマユを熱湯にいれてます。ゆでたマユから糸を取りだします。カイコのマユを煮るときには、スゴクいやなにおいがするそうです。

そういや『あゝ野麦峠』にも、においの描写が出てきたっけ。

『女工哀史』の細井和喜蔵は実際に紡績工場ではたらいていただけあって、工場のひどい職場環境しょくばかんきょうや、女工さんたちの人間模様などがリアルにえがかれています。伝染病にかかった女工さんに毒を飲ませて殺したなんて描写なんて、読んでいる僕もハラがたちました。

その一方で、筆者の「資本主義は悪だ!」みたいな論調がやや鼻につきました。

従業員をこき使って自分は左団扇ひだりうちわ(※2)なんて経営者ならともかく、従業員を大切にする良い経営者だっているわけですから。

とはいえ、著者も紡績工場を非難ばかりしている訳じゃありません。福利厚生ふくりこうせい(※3)がちゃんとしている会社も存在することも書かれています。また、細井は労働組合の必要性を説く一方で、働くことの大切さも説いています。

『あゝ野麦峠』の山本茂美さんは実際に製糸工場で働いた経験はありません。しかし、ていねいに元女工さんたちのインタビューを重ね、見事なルポに仕上がっています。女工さんたちの悲惨ひさんな職場環境を描きつつも、工場でかせいだ金で田畑を買った女工さんや、農作業よりも工場の仕事の方が楽だったという女工さんの話も取り上げています。

また、山本茂美氏の弟さんが片倉の製糸工場に勤めていたというから、弟さんから製糸工場の話も聞かされていたかもしれません?

製糸工場の経営者も一方的に悪く書いていません。朝早く起きて必死に働いた経営者の姿も書かれています。女工さんカワイソス一辺倒いっぺんとうではなく、良い思いをした女工さんも取り上げる事で、かえって「本当にこんな事が本当にあったんだなァ」と納得が出来ます。

『女工哀史』も『あゝ野麦峠』も大変優れた文学作品だし、当時の時代を知る上でも非常に良いテキストだと思います。そして何よりもどちらも作者のヒューマニズムがあふれているところがすばらしいと思いました。


※1 腹膜ふくまく炎症えんしょう化膿菌腫瘍しゅようなどによって起こり、急性では虫垂炎ちゅうすいえんなどから二次的に起こることも多く、激しい腹痛や嘔吐おうと下痢げりなどをともなう。

※2 きき手でない左手でゆうゆうとうちわを使うこと。転じて、従業員をこきつかって楽しく暮らすこと。
※3 会社が従業員とその家族の福利を充実じゅうじつさせるために設けた制度や施設しせつ。保険・住宅・教育などに支出するお給料きゅうりょう以外の諸給付しょきゅうふや,社員りょう・住宅,保養施設ほようしせつなどの福利厚生施設がある。


女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)
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あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
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http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1517305.html

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1519099.html

これまで2回(↑)にわたって諏訪湖すわこの女工さんの話をしてきたけれど、今日で三回目です。今日でとりあえず諏訪湖の女工さんの話はいったん中断します。今日の内容は、諏訪湖の女工の問題が現代にも通じるのではないか?そんな問題提起をしたいと思います。

製糸の作業は細かい作業なので向き不向きも当然ありました。今の日本と同じく、明治・大正当時の女工の間でも勝ち組、負け組がいたみたいです。

器用で糸引きが向いていた女工さんは仕事でさほど苦労することなく、いっぱい給料ももらえた上に、表彰ひょうしょうまでされました。なかには田んぼや家を買った女工もいるというからすごいですよね。30年ローン組んで家を買った人から見ればなんともうらやましい限りの話です。

しかも優秀ゆうしゅうな女工さんはアチコチの工場で引く手あまただったそうです。

一方、気の毒なのは糸引きが向いていない人。不器用で仕事も失敗ばかり。だから検番から年中どやされました。しかも失敗をすれば罰金ばっきんとして給料からひかれてしまい、年末にはサイフもスッカラカンで故郷に帰れなかった女工さんもいたとか。

新人教育もしていたある女工さんはこうつぶやいております。


「ワシは長年糸ひきをしてみて感じることだが、まず十人のうち本当にいいのは二人か三人で、次に、本人の熱心と努力でまあまあ何とか糸をひけるというものが、三、四人、しかし残りの二、三人というものはいくら教えてもおこってもたたいても、この人たちは糸ひきに向かない人です。怒るほうがだいたいムリです。」


『あゝ野麦峠』(山本茂美) p125より



「2-6-2の法則」(※1)というものを聞いたことがありますが、この女工さんのお話もそれに近いですね。それから、いくら器用な女工さんでも体が弱い人は、ムリがたたってそのまま死んでしまったそうです・・・

当時の日本は西洋諸国に追いつけ、追いせという状況じょうきょうでした。資源の少ない日本が外国と張り合う為ためには無理も止むを得なかったのでしょう。企業きぎょう慈善事業じぜんじぎょうでもないから、もうけなくてはつぶれてしまう。まさに食うか食われるかの世界です。

それに生糸は相場の変動が激しく不安定で、もうかる時は儲かるのだが、損をするときは大損をします。だから、製糸業を廃業そうぎょうする会社も少なくなかったそうです。女工さん達も大変でしたが、企業きぎょうにとっても大変だったのでしょう。

製糸工場の社長達は社員を低賃金(あるいは無償むしょう)でこき使い自分だけゼイタクをしていた訳ではありません。

朝は女工さん達よりも早く起き、工場の動力である水車がこわれれば、自ら川に飛び込んで水車を修理したり、かまに火をたいたりしたそうです。現場監督げんばかんとくである検番たちはえばってばかりだが、社長はちがっていたみたいです。例外もいるが、人の上に立つような人物は違うのでしょう。

今日の豊かな日本があるのは女工さん達が頑張がんばってくれたおかげでもあると思う半面、その一方で女工さん達の犠牲ぎせいがあった事、それから派遣はけん切りや過労死かろうし(ブラック会社)の問題など今にも通じる様々な問題がある事を考えさせられます。

※1 人間が集団を構成すると、 『優秀な人が2割、普通の人が6割、パッとしない人が2割』という構成になりやすいという法則。



※ 参考文献

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
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(現在の諏訪湖すわこ

 最近、『あゝ野麦峠』(山本茂美 著)を読ませてもらっています。以前に信州旅行に行っていた時に急にこの本が読みたくなりまして。

明治・大正というと華やかなイメージがありますが、その一方で犠牲になった人も大勢いたという事がこの『あゝ野麦峠』でもよくわかります。今日から3回にわたって諏訪湖の女工さんのお話をしたいと思います。第一回は女工さん達の暮らしぶりや労働内容について。

今はすたれてしまいましたが、明治・大正時代の日本の主要産業は紡績業ぼうせきぎょうと製糸業でした。とりわけ日本の生糸(蚕の糸)は海外でも非常に評価されました。まさに日本の近代化に大きく貢献こうけんしたのですが、その製糸工場ではたくさんの女工さんが働いていました。(なんと13才くらいの少女も!)

どんな仕事かというと、かいこから糸を取り出すという細かくて大変な仕事だったそうです。くわしくはこちらのサイトを。↓

http://www.okaya-museum.jp/material/index03.html


かまのなかは180度の熱湯で、室内温度は華氏かし80度(27度くらい。)を軽くえていたそうです。今みたいにクーラーもなかったところで働いていたのです。しかも周囲はさなぎの悪臭あくしゅうただよっていたそうです。

それで女工さんが具合が悪いから休ませてくれといえば、検番(現場監督かんとく)にビンタを食らうばかりで、休ませてくれません。無理がたたって,結核けっかくだとかいろいろと病気にかかってしまった女工達も少なくなかったそうです・・・

製糸工場は今風に言えばブラック会社そのものでした。今みたいに社会保障も労働三権もなかった時代だし、女工さん達には、婚活こんかつや起業、転職などの選択肢せんたくしがあるはずもありません。当時の女工さん達は口減らしのためだとか、貧しい実家の家計を助けるためだとか、諸事情があってやめるにやめられない状況じょうきょうだったのです・・・

女工さんの出身地は飛騨ひだが多かったのです。今でこそ飛騨(高山)と言えば観光地として名高く、国内のみならず外国人の観光客も来ます。けれど、当時の飛騨はこれといった産業もない貧しいところでした。だから、女工さんが工場から持ち帰る給料を当てにしていました。

だから、女工さんが仮に飛騨までげ帰ったとしても「根性がない」と言われ、白い目で見られるのが関の山。また、口減くちべらしのためにむすめを工場へやった家族にとって、娘が突然帰ってくるのは非常に困るのです。

工場で検番にどやされるのも地獄、逃げるのも地獄じごく。そんな追いめられた女工さん達は湖や川に身を投げたそうです。彼女達は着物のたもとに石をいくつも入れました。自分の死体がかび上がらないために。

「カラスの鳴かない日はあっても、女工が諏訪湖すわこに飛び込まない日がない」といわれるほど、自殺者が多かったのです・・・

時々、諏訪湖や川から女工さんの水死体が浮かび上がる事も、川沿いにある工場の水車に水死体が引っかかることもあったそうです。その女工さんの水死体を火葬かそうするのですが、早く焼くために水死体をなんとに三人で竹やりで腹の辺りを何度もいて水気みずけをだして、それから火葬したそうです。死体をさらに竹やりで突くなんてムゴイ話です

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1519099.html
(次回の記事)

おまけ
女工さんのふるさと飛騨高山の動画を。








※ 参考文献

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
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今日は『あゝ野麦峠のむぎとうげ』の映画化にまつわるエピソードを。

山本茂実(やまもとしげみ)さんの『あゝ野麦峠』は、昭和43年10月10日に朝日新聞社から発行され、大変な反響はんきょうがあったようです。『あゝ野麦峠』を映画化・演劇化させてほしいという問い合わせが殺到さっとうしたそうだし、刊行かんこうから2〜3年間、山本さんの自宅にたくさんの手紙がきたそうです。

「大変すばらしい本です。女工さん達は労働をいられてかわいそうです。」
「こういうテーマの本は初めてで感激しながら読みました」

 
という意見が大半だったそうです。ところが、『あゝ野麦峠』が映画化された事で、この本も作者の山本茂実さんも誤解されてしまいます・・・

『あゝ野麦峠』は1979年に映画化されました。監督かんとくは山本薩夫(やまもとさつお)さん。主演は大竹しのぶさんです。だけど、『あゝ野麦峠』が上映されてから、作者の山本茂実さんは諏訪すわの敵」とされてしまいました。

諏訪の製糸工場関係者だけでなく、なんと元女工さんからもクレームが来たそうです。元女工さんいわ「ワシら工女は工場であんなにひどい目にあわされたことがない。食事もよかったし、待遇たいぐうも良かった」と。こうしたことから「あの本はウソが書いてある」とまで言われるようになったそうです。

奥さまの山本和加子さんまでも原作と映画とは筋書きがちがうと述べていました。映画は原作に忠実にえがかれるとは限りません。宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』や大友克洋さんの『AKIRA』のいづれも原作者が監督なのに映画と原作とではキャラ設定とか色々違います。まして原作者が映画制作にあまりタッチしてないとなると映画の内容も変わってくる可能性も出てきます。

原作の『あゝ野麦峠』は、『水戸黄門』のような勧善懲悪かんぜんちょうあく路線(※1)でもなければ、お涙頂戴路線なみだちょうだいろせんではありません。女工さんカワイソス一辺倒いっぺんとうではなく、良い思いをした女工さんの話や経営者の苦労も書いているのに、映画のインパクトの方が強すぎたのでしょう。

※2021年11月17日追記
2011年ごろ、ボクも随分ビデオ屋で『あゝ野麦峠』のDVDを探したのですが、全然見つかりませんでした。『あゝ野麦峠』のDVDは2011年12月の時点ではまだ出ていなかったのですが、やっとDVDも出て、2021年には図書館でも借りれるようになりました。僕も見せていただきましたが、ともかく大竹しのぶさんの演技に引き込まれました。懸命に働きながらも、健気で幸薄い、政井みね役を見事に演じてました。大竹しのぶさんは若い頃から演技が上手いと感心しました。また、みねの兄役の地井武男さんもよかった。社長の三國連太郎さんをはじめ味のある俳優さんがたくさん出てて見応えがありました。映画では、確かに工女さんが、検番や先輩から怒鳴られ、不当にこき使われている描写が多いなと。映画版『あゝ野麦峠』は、原作以上に「女工さんかわいそう」路線です。


【映画チラシ】あゝ野麦峠 新緑篇/三原順子//邦・ア
【映画チラシ】あゝ野麦峠 新緑篇/三原順子//邦・ア

(↑映画のチラシ) 

※1 善い事をすすめ、悪いやつをやっつけたり、悪事をらしめること。映画やドラマでは勧善懲悪がよくみられる。。



オマケ 

諏訪湖畔にある片倉館のイルミネーションの動画です。片倉館は岡谷の製糸業の片倉がつくった建物です。




参考文献 


「あゝ野麦峠」と山本茂実
「あゝ野麦峠」と山本茂実 [単行本]

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