1 十字軍の結成
1095年、時の教皇ウルバヌス二世に、ビザンツ帝国から助けをもとめられます。イスラムの勢力がビザンツ帝国にせまっているという知らせです。しかもイスラムの勢力はエルサレムを占領し、キリスト教徒を迫害しているというのです。
ちなみにビザンツ帝国というのはローマ帝国から分かれた国です。4世紀、ローマ帝国は東西2つに分裂し、 その東側が「ビザンツ帝国」というわけです。
ウルバヌス二世は「聖地を奪還しよう!」と人々に呼びかけました。すると、人々は熱狂し、たちまち数万の遠征軍が組織されました。これが十字軍でした。
(ウルバヌス2世 ウィキペディアより)
2 十字軍が結成された本当の理由
表向きは、イスラムの魔の手からエルサレムを救うというのが十字軍の目的でしたが、本当はもっといろいろな理由がありました。東方教会に対する支配を強めようという目論見もありました。
また、この当時のヨーロッパは9世紀ころから農業技術が改良され、食料生産が増大し、人口が増えたのです。農民の畑が足りなくなり、国王は領主や騎士たちにあげる土地が不足したのでした。事実、教皇は聖地奪還を訴えながら、このような本音をもらしたといいます。
「あなた方が今住んでいる土地はけっして広くない。乳と蜜が流れる国は神があなた方に与えたもうた土地である」
神の名において、土地の略奪が認められていたのです。
3 十字軍による略奪と殺りく
そして、十字軍はエルサレムに着くやいやな殺りくと略奪のかぎりをつくしました。イスラム側の資料によりますと、約7万人が殺され、「岩のドーム」をからにするほど戦利品を奪い、死体の腹を裂いてまで金貨を探したといいます。アラブ人だけでなくエルサレムに住むユダヤ人にも被害がおよびました。ユダヤ人は市内のシナゴーグに集められ、火をつけて焼き殺されました。
十字軍たちは「イスラム教徒がキリスト教徒を迫害した」ということを信じておりましたが、それはウソでした。むしろ、十字軍がエルサレムに進撃する際、イスラム教徒たちはむしろ十字軍を、巡礼団かとおもって道案内までしたのです。
1099年にはエルサレム王国をつくります。しかし、こうした非道な支配が長続きしません。これでイスラム側の反発を買い、エルサレムは1187年にクルド系のイスラム教徒たちに奪い返されます。
4 シチリア出身のフリードリヒ2世
このように十字軍はいろいろ問題があったのえすが、十字軍の6回目の遠征の時に、イスラムに理解がある人物が十字軍側に登場します。それがローマ皇帝のフリードリヒ2世。非常に聡明な人物だったそうですが、しばしば教皇とも対立し、反キリストと呼ばれ2度も破門(※1 はもん)をされたそうです。彼が破門されたのはイスラム教徒にも寛容だったことが要因だそうです。
ところで、フリードリヒ2世にとってゆかりの深いシチリア島についてお話しを。シチリア島はキリスト教がさかんな地域でありながら、イスラム圏の文化を取り入れる事に熱心で、シチリアの歴代の国王もヨーロッパ人だけでなくアラブ人も重んじました。そういった恵まれた環境でフリードリヒ2世はすくすくと成長しました。
フリードリヒ2世は教皇にも認められ、シチリア王から神聖ローマ帝国の皇帝に出世しました。
5 イスラムと和平を結ぼうとしたフリードリヒ2世
フリードリヒ2世は十字軍のリーダーになりましたが、彼がやった事はイスラムとの和平交渉でした。交渉の相手はイスラム側の大将のアル・カーミル。
フリードリヒ2世の粘り強い交渉により、フリードリヒ2世とアル・カーミルの間で休戦協定(1229年)が結ばれました。
休戦協定の内容は、ローマ皇帝(フリードリヒ2世)にエルサレムを統治する事を認める一方で、イスラム教徒の聖地であるエルサレムの岩のドームをイスラム教徒が管理する(キリスト教徒やフリードリヒ2世は立ち入り禁止)というもの。
1229年の休戦協定は、イスラム側とキリスト教側の両者の立場をお互いに尊重したものでした。10年間の期限付だとはいえ、よくこういった話し合いが出来たものだと感心しました。イスラームとキリスト教徒っていがみ合っているイメージがあるけれど、やればできるのですね、手を取り合い仲良くする事が。
しかし、この休戦協定にイスラム教徒もキリスト教徒(十字軍)も納得したわけではありません。フリードリヒ2世も十字軍側から、アル・カミールもイスラーム側から「譲歩(※2)しすぎた」と批判をされてしまいました。休戦協定が終わってから、またしても十字軍とイスラム圏の戦争がはじまるのです。
(左:フリードリヒ2世、右:アル・カーミル)
※1 信徒としての資格を剥奪し、教会・宗門から除名・追放すること。
※2 自分の意見や主張を押さえて相手の意向に従ったり妥協(だきょう)したりすること。
※ 今回の記事は「NHK 高校講座 世界史」を参考にしました。また画像はウィキペディアより引用しました
1095年、時の教皇ウルバヌス二世に、ビザンツ帝国から助けをもとめられます。イスラムの勢力がビザンツ帝国にせまっているという知らせです。しかもイスラムの勢力はエルサレムを占領し、キリスト教徒を迫害しているというのです。
ちなみにビザンツ帝国というのはローマ帝国から分かれた国です。4世紀、ローマ帝国は東西2つに分裂し、 その東側が「ビザンツ帝国」というわけです。
ウルバヌス二世は「聖地を奪還しよう!」と人々に呼びかけました。すると、人々は熱狂し、たちまち数万の遠征軍が組織されました。これが十字軍でした。
(ウルバヌス2世 ウィキペディアより)
2 十字軍が結成された本当の理由
表向きは、イスラムの魔の手からエルサレムを救うというのが十字軍の目的でしたが、本当はもっといろいろな理由がありました。東方教会に対する支配を強めようという目論見もありました。
また、この当時のヨーロッパは9世紀ころから農業技術が改良され、食料生産が増大し、人口が増えたのです。農民の畑が足りなくなり、国王は領主や騎士たちにあげる土地が不足したのでした。事実、教皇は聖地奪還を訴えながら、このような本音をもらしたといいます。
「あなた方が今住んでいる土地はけっして広くない。乳と蜜が流れる国は神があなた方に与えたもうた土地である」
神の名において、土地の略奪が認められていたのです。
3 十字軍による略奪と殺りく
そして、十字軍はエルサレムに着くやいやな殺りくと略奪のかぎりをつくしました。イスラム側の資料によりますと、約7万人が殺され、「岩のドーム」をからにするほど戦利品を奪い、死体の腹を裂いてまで金貨を探したといいます。アラブ人だけでなくエルサレムに住むユダヤ人にも被害がおよびました。ユダヤ人は市内のシナゴーグに集められ、火をつけて焼き殺されました。
十字軍たちは「イスラム教徒がキリスト教徒を迫害した」ということを信じておりましたが、それはウソでした。むしろ、十字軍がエルサレムに進撃する際、イスラム教徒たちはむしろ十字軍を、巡礼団かとおもって道案内までしたのです。
1099年にはエルサレム王国をつくります。しかし、こうした非道な支配が長続きしません。これでイスラム側の反発を買い、エルサレムは1187年にクルド系のイスラム教徒たちに奪い返されます。
4 シチリア出身のフリードリヒ2世
このように十字軍はいろいろ問題があったのえすが、十字軍の6回目の遠征の時に、イスラムに理解がある人物が十字軍側に登場します。それがローマ皇帝のフリードリヒ2世。非常に聡明な人物だったそうですが、しばしば教皇とも対立し、反キリストと呼ばれ2度も破門(※1 はもん)をされたそうです。彼が破門されたのはイスラム教徒にも寛容だったことが要因だそうです。
ところで、フリードリヒ2世にとってゆかりの深いシチリア島についてお話しを。シチリア島はキリスト教がさかんな地域でありながら、イスラム圏の文化を取り入れる事に熱心で、シチリアの歴代の国王もヨーロッパ人だけでなくアラブ人も重んじました。そういった恵まれた環境でフリードリヒ2世はすくすくと成長しました。
フリードリヒ2世は教皇にも認められ、シチリア王から神聖ローマ帝国の皇帝に出世しました。
5 イスラムと和平を結ぼうとしたフリードリヒ2世
フリードリヒ2世は十字軍のリーダーになりましたが、彼がやった事はイスラムとの和平交渉でした。交渉の相手はイスラム側の大将のアル・カーミル。
フリードリヒ2世の粘り強い交渉により、フリードリヒ2世とアル・カーミルの間で休戦協定(1229年)が結ばれました。
休戦協定の内容は、ローマ皇帝(フリードリヒ2世)にエルサレムを統治する事を認める一方で、イスラム教徒の聖地であるエルサレムの岩のドームをイスラム教徒が管理する(キリスト教徒やフリードリヒ2世は立ち入り禁止)というもの。
1229年の休戦協定は、イスラム側とキリスト教側の両者の立場をお互いに尊重したものでした。10年間の期限付だとはいえ、よくこういった話し合いが出来たものだと感心しました。イスラームとキリスト教徒っていがみ合っているイメージがあるけれど、やればできるのですね、手を取り合い仲良くする事が。
しかし、この休戦協定にイスラム教徒もキリスト教徒(十字軍)も納得したわけではありません。フリードリヒ2世も十字軍側から、アル・カミールもイスラーム側から「譲歩(※2)しすぎた」と批判をされてしまいました。休戦協定が終わってから、またしても十字軍とイスラム圏の戦争がはじまるのです。
(左:フリードリヒ2世、右:アル・カーミル)
※1 信徒としての資格を剥奪し、教会・宗門から除名・追放すること。
※2 自分の意見や主張を押さえて相手の意向に従ったり妥協(だきょう)したりすること。
※ 今回の記事は「NHK 高校講座 世界史」を参考にしました。また画像はウィキペディアより引用しました