かつてチェコスロバキアは、ソ連の衛星国でした。共産党が支配し、市民は自由を奪われていたのです。チェコスロバキアは1989年に民主化をしましたが、その民主化運動に関わったのは一人の劇作家でした。チェコの劇作家だったヴァーツラフ・ハヴェル。のちに大統領になる人物です。政治とは無関係な世界から大統領になるなんてすごいですね。でも、ウクライナ大統領のゼレンスキーも元はコメディアンですし、アメリカのレーガン元大統領だって俳優でしたから。

またハヴェルは、1960年代にアメリカに渡り、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのとりこになり、そのレコードを祖国に持ち帰ったのです。このレコードも民主化に一役を買うのです。


お話は1968年にさかのぼります。アレクサンデル・ドゥプチェクが共産党の第一書記に就任。彼は改革派で、プラハの春と呼ばれる民主化運動を目指しました。彼は「人間の顔をした社会主義」を目指しました。社会主義国家でありながら、言論弾圧のない自由な国を目指そうとしたのです。実はドゥプチェクは自由化を進めることで共産主義体制に対する民衆の支持を集めようとしようとしたのであって共産党をぶっこわすことまでは考えていなかったのです。彼が自由化をすすめるほど、民衆はさらなる自由化と民主化を求めるようになりました。それはドゥプチェクの意図を超えており、共産党を守るどころか逆の結果になっていきます。しかし、それを面白く思わないのが、共産党の旧守派とソ連。やがて、ソ連は行動に移すのですが、それは後程。


文化の面では検閲が緩和されたことで、西側の文化や音楽も入っていきました。ハヴェルが持ち帰ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードも大量にコピーされ若者の間でも流行しました。そのヴェルヴェット・アンダーグランドに即発され、プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニバースというバンドがチェコで生まれました。通称PPU。

そんなプラハの春も長くは続かなかったのです。この年の8月、突然ソ連が軍事介入したのです。チェコの急激な民主化を警戒して軍事行動をしたのです。抵抗したものは容赦なく撃たれ、何人も犠牲になったのです。そんな状況の中、ニューヨークから帰ったばかりのハヴェルも立ち上がり、ラジオでソ連への抗議と民衆への団結を呼びかけたのですが、議会でもソ連の圧力に屈してしまい、軍隊のチェコ駐留も認められ翌年にはソ連の忠実なグスターフ・フサークが第一書記になり、ドゥプチェクが失脚。結局、プラハの春は短い春で、再び言論弾圧がまかり通るような重苦しい社会になったのです。正常化と呼ばれる長く暗い時代の始まりです。ソ連の侵略に反抗したハヴェルも当然、目をつけられてしまいます。ハヴェルは犬と散歩をしている時でさえ、警察に付きまとわれたと言います。さらにPPUのメンバーまで国の秩序を乱したという理由で捕まってしまいます。ハヴェルはそのことを大変憂いました。「PPUは政治的な見解を持ったことがないのに、ただ好きな音楽を歌っただけなのに・・・」と思ったそうです。ハヴェルはPPUの逮捕に抗議したと言います。そしてハヴェルは知識人たちと手を結び、憲章77と呼ばれる政府への抗議文を発表。表現の自由や人権の尊重を求めたと言います。またハヴェルは世界中のジャーナリストたちにも自国の悲惨な状況を訴えたと言います。そんなハヴェルも1979年に逮捕され4年もの実刑判決を受けてしまいます。ハヴェルは1983年に出所。さっそく民主化運動を再開したのです。

そして1989年、隣国のドイツでベルリンの壁が崩壊したことを受け、若者たちもデモを起こしたのです。そんなデモ隊に警察が動いたのです。丸腰の若者に暴力を振るったのです。そんな状況下、ハヴェルは市民に団結を呼びかけたのです。ハヴェルの呼びかけに若者だけでなく、多くの市民たちもデモに参加。しかし、共産党幹部はなおも事態の収集を図ろうとします。当時の共産党の書記長が市民の前で演説をしても、市民は「かえれコール」。そして1989年11月24日、ついに共産党の書記長が失脚。ソビエトの侵攻から20年、市民は諦めなかった。市民がリーダーに選んだのがハヴェルでした。まさに血を流さずに革命が成功したのです。この革命をビロード革命ともヴェルヴェット・レボリューションとも呼ばれました。

のちにハヴェルはこのように語っています。

「1968年、私はニューヨークからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを持ち帰りました。そのレコードはPPUという自由に満ちた若者たちを生み、彼らの逮捕から「憲章77」の人権運動が始まりました。音楽だけでは世界は変わりません。しかし人々の魂を呼び覚ます者として音楽は世界を変えることに大きく貢献できるのです」


大統領になったハヴェルはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードと交流があったと言います。そしてハヴェルは2011年に亡くなりました。ハヴェルのことをPPUのメンバーが「ハヴェルには人々を団結させる力がありました。それは非暴力的で、友好的で、ささやかなものでした。しかし、その力は時に大きな力よりも強いものになり得るのです。そして、そんな彼を大統領にしたのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでした」と。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。