history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:ヘレン・ケラー

1 80年前から続くアメリカの国民的行事




本題に入る前にこちらの動画をご覧ください。 こちらの動画はニューヨークのロックフェラーセンターにおけるクリスマスツリー点灯式です。 クリスマスはまだですがw、この行事はおよそ80年前から続いているアメリカの国民的行事だそうです。

このツリーの背後にそびえたつロックフェラーセンターを建てたのはジョン・ロックフェラーです。ロックフェラー一族は石油で大儲けをしました。彼が石油で築いた財は現在の価値で22兆円だそうです。すごいですねえ。まさに人類史上最大の富豪とよばれるわけです。

ちなみに2001年に無残に崩れ去ったワールド・トレード・センターもロックフェラー家の理想(自由貿易による世界平和)を体現化したものだったそうです。

2 石油で財を成したロックフェラー
 ジョン・ロックフェラーはライバルを冷酷に叩き潰すところから悪魔とも呼ばれたそうです。ウィキペディアによりますとジョン・ロックフェラーの父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言っていたようです。そうした父に育てられたものですから、人もうらやむような大成功を収める一方で自分たちの利益のためなら手段も選ばぬような人間に育っていったのかもしれません。

ジョン・ロックフェラーの子供や孫たちは莫大な富を背景に政財界に進出しました。あるものは慈善団体のリーダーに、あるものはアメリカの副大統領、ほかにも州知事や世界屈指の銀行のトップになるものもいました。

さてジョン・ロックフェラーが石油で財をなしたとはいえ、石油を掘るとうのはリスクが高いものでした。日本に例えれば温泉を探し当てるようなもので、あてずっぽうに掘れば出てくるものではありません。石油を掘る作業中に事故だっておきることもありますし。

ジョン・ロックフェラーは自ら石油を探し、掘ったわけではありません。彼のやった方法は他人が採掘した石油を買い集め生成し、それを販売したのです。優秀な科学者を雇い、どんな不純物を含んだ石油でも生成できる技術も開発したのです。そうしてできた会社がスタンダード石油。スタンダード石油はアメリカの石油のシェアの90パーセントを独占したといいます。

3 ロックフェラーのお金の使い方
 


ジョン・ロックフェラーは道行く人にコインを渡すのが習慣だったようです。僕がその時代にいたらロックフェラーに「くれ、くれロックフェラーのおじさま」というかもしれませんがw、お金をばらまくなんてずいぶん成金趣味で、お金を湯水のように使うような人かなと思いました。けれど、ジョン・ロックフェラーは苦労して財をなしただけあって、わずかなお金でも粗末に扱わなかったようです。

「たった5セントと思うかもしれないが、軽んじるべきではない。これは1ドルの金利なのです」とロックフェラーといったように。

またロックフェラーは慈善活動にも熱心だったそうです。ロックフェラーが設立したロックフェラー財団は、途上国の医療水準を向上させたり、公衆衛生の改善なども行っていたようです。これはアメリカの勝ち組に共通しているなと思いました。アメリカの勝ち組は慈善事業をしたり、寄付をしたりします。税金対策もあるのかもしれませんが、慈善活動をすること自体が彼らにとってのステータスのようです。

そういえばマイケル・ジャクソンも慈善活動に熱心でしたっけ。チャリティに寄付した金額は5億ドル以上(約500億円以上)と言われています。他にも薬物乱用の若者を救う運動に取り組んだり、飲酒運転防止キャンペーンに協力したり。芸能人だけでなく、企業家も例外ではありません。以前にニュースでリーマン・ブラザーズなどの企業が貧しい人向けの無料の食堂に寄付しているという話を知ったときは僕もずいぶん驚いたものです。(しかし、先のリーマンショックの影響で寄付金も減ったとか)

とはいえ、ロックフェラー家が慈善活動をしたのは、ロックフェラー家のイメージアップとともに資本主義が素晴らしいものだということを途上国に伝えるためだともいわれています。ロックフェラー財団のボスだったロックフェラー2世(ジョン・ロックフェラーの息子)は「世界一金を使うのがうまい男」と呼ばれたほど。

4 ロックフェラーの悪魔ぶり

 そんなロックフェラーに危機が訪れます。労働運動が盛んになったのです。ロックフェラー一族が所有する炭鉱会社でも労働者が蜂起しました。それをロックフェラー一族は鎮圧部隊をつかってまで弾圧し、女子供をふくめ30人ほどの人たちが殺されたといいます。

そのことをヘレンケラーははげしく非難しました。「女性と子供たちをあんなに無慈悲に虐殺するなんて、ミスター・ロックフェラーは資本主義のバケモノです。慈善事業の裏では無力な人たちが殺されるのを許しているのです。」と。

ロックフェラーは、自分の商才を神から与えられたものだと認識しておりました。そして、商売を通して世の中の人たちを幸せにするのだと考えておりました。そんなロックフェラーは97歳の時に亡くなりました。長生きですねえ。憎まれっ子世にはばかるとはいいますが、ロックフェラーの生き方を見ていると本当にそう思ってしまいます。

亡くなる少し前に、ロックフェラーのところへ自動車王のフォードがお見舞いにきました。ロックフェラーが「さらばだ、天国で会おう」と声をかけました。するとフォードはこのように返したといいます。

「あなたが天国に行けるならね」

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(ロックフェラーの肖像画。なんか人相わるいねえw)



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(ワールド トレード センター)










※ 今回の記事はNHKスペシャルの「新・映像の世紀」を参考にして書かせていただきましたが、ロックフェラーのことについて知らないことばかりだったので(しいて言えばロックフェラー家の陰謀論くらいw)、ずいぶん参考になりました。




* この記事はNHKの「バリバラ」を参考にしてかきましました 戦時中は、障害を持った人たちに対する偏見ヘンケンも、また扱いかたも悪かったのですね。目が不自由だとか、耳が聞きえづらいとか、障害を持った人は基本的に戦争に行かなくて良いことになっており、徴兵検査によばれることはなかったのです。生まれつき脳性ノウセイマヒだったAさんという方に徴兵検査の知らせが来るのですね。自分は兵役免除ヘイエキメンジョのはずなのに、なんでだとAさんが思ってきた見たら、その場でAさんは自分の体をさらしものにされ笑い物にされたのですね。そこで障害を持っているとバカにされたり、変な目つきで見られたのですね。笑い物にするために、わざわざ呼び出すなんてひどい話です。 また、障害を持った子供は、捕虜ホリョごっこという遊びで、すぐ捕虜役をされてしまいます。それでヒモでグルグル巻きにされ木にしばりつけられたといいます。明らかにイジメですが、障害を持った子供はバカにされても人の役に立ちたいと思っていたので、そんな嫌な思いをしても、イジメだと認識しなかったようです・・・ 空襲が激しくなると、家族に障害を持った人が一人でもいると、逃げるのが大変になります。そうなると、家族のものから疎まれ、しまいに「死んでしまえ」って面と向かって言われてしまうのですね。いった方はともかく、言われた方は一生の心の傷になりますよね。 この時代の、特にお偉いさん方は、戦争に役立つか、役立たないかで人間の値打ちを決めていた節がありました。ある大学の教授が盲学校モウガッコウでの講話において、このようなことを述べていたそうです。
「あなた方は少年航空兵にもなれず、潜水艦にも乗れず、直接召に応じて出征することが出来ない身の上であります。敵と体当たりをして散ってゆく同年輩の青年。そうした人々と自分とを引き比べてみて、目の不自由から来る身の至らなさに思いを致されなければなるまい」 NHK「バリバラ  〜障害者の戦争体験、世代こえ優生思想と向き合う〜」より。
つまり、戦争に行けないお前たちは穀潰ゴクツブしだと。実際、戦争が激しくなると、食事も取らせてもらえないというケースもあったそうです。ご飯を食べさせないで、飢え死にさせようとしたのかもしれません・・・・ そして1940年、「国民優生法」が制定します。これは、障害者などへの不妊手術を合法化したもので、障害を持った胎児タイジは流産させろというもの。この法律が制定された時のマスコミは「悪血の泉を断て」という見出しをつけたといいます。ひどいですね。ちなみに「国民優生法」は、戦後の「優生保護法」に受け継がれ、それがなんと1996年まで続いたというから驚きです。 それでも、戦局が悪化すると、障害を持った人でも積極的に使おうという意見も強まります。アメリカの戦闘機の音を録音したレコードを作り、盲学校の生徒たちに聞かせ、敵機の音を覚えさせ、周りの人たちに「危ないね」って伝える役目、つまり空襲の監視員をさせようとしたのですね。 戦時中は、戦争に役立つか、役だ立たないかで人間の値打ちが決まりました。じゃあ平和になった戦後になれば良かったかといえば、それは大間違いで、(経済の)生産生があるかどうかで人間の値打ちが決まるところがある。戦前から続く優生思想は根強く残ったのですね。2016年に相模原障害者施設殺傷事件なんて、その典型でしょう。犯人の残虐性が注目されましたが、なんとネットでも、やったことはどうあれ気持ちはわかるみたいな意見もあったといいます。 かつて岩橋武夫という人物が、戦前、戦後と日本にヘレン・ケラーを招きましたが、日本のそんな状況を憂いたからだと思われます。 一方で自動車大手のトヨタが大金をかけて障害者雇用の研究を大真面目にやっているという話も聞きますし、障害を持った人たちが生き生きと暮らせる社会にしようという動きもあるのですね。

ヘレン・ケラー (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記)
ヘレン・ケラー (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記)


1 知っているようで知らなかったヘレン・ケラー
 ヘレン・ケラーは三重苦を克服こくふくし、障害者しょうがいしゃ福祉ふくし向上に貢献こうけんした人物です。が、彼女が婦人の解放、死刑しけいにも反対、平和と反戦を唱えていたことはNHKの「その時、歴史が動いた」を見るまで僕も知りませんでした。また、ヘレンが社会主義者(反戦主義者)ということで、FBIや日本の憲兵けんぺいからにらまれていた事も知りませんでした。

ヘレン・ケラーは三度来日した事があります。初めての来日が昭和12年(1937年)、二度目が昭和23年(1948年)、三度目が昭和30年(1955年)です。

特に、最初の来日の目的が政治的な意味合いがあったことを「その時歴史が動いた」で知りおどろきました。

それは、ヘレンが日本にきた最大の目的というのが日米親善にちべいしんぜん(※1)でというのです。昭和12年ごろといったら、日本とアメリカが中国大陸の利権をめぐって対立していましたからね。もちろん、ヘレンが日本に来た目的は、それだけでなく日本の障害者の福祉向上という意味合いがあったことは言うまでもありませんが。


2 日本に訪れるなり事件が
 それでは、ヘレンが日本に訪れた経緯いきさつをお話いたします。ヘレン・ケラーを日本にまねいたのは岩橋武夫いわはしたけおです。岩橋は昭和期の社会事業家で、彼もまた目が不自由だったそうです。

アメリカのヘレンのもとに岩橋が訪ねてきました。岩橋はヘレンに日本に来るようにお願いしました。しかし、ヘレンは気が進みませんでした。なぜなら、ヘレンの恩師おんしであるサリヴァン先生が重い病気にかかっていたからです。

しかし、サリヴァン先生は「日本にいってあげなさい」と言ったそうです。それで、ヘレンは日本に行く決心をしたのです。それから間もなくしてサリヴァン先生は亡くなるのです。

サリヴァン先生の励ましの言葉を胸にヘレンは日本にやってきました。時の大統領ルーズベルトの親書を携えて。

日本に滞在中のヘレンに事件が起こります。なんとヘレンのサイフが何者かにぬすまれたのです。ヘレンは、「どこの国でもある事」とあきらめていたそうです。ところが、この盗難とうなん事件が報道されるやいやな、日本各地から、お金や(おわびの)手紙が殺到さっとうしたのです。手紙には「同じ日本人としてはずかしい」「日本をこんな国だと思わないでください」と書かれていたそうです。

ヘレンはその事にいたく感激し、もらったお金をそのまま寄付きふをしたそうです。そして、このような談話をします。

「私は盗んだ人の事情に同情しこそすれ、その人をにくんだり、日本を誤解するような事はまったくありません。むしろこの出来事によって、日本全国の方々から大きな思いやりを寄せられ、また国民がおたがいに助け合うという日本人独特の精神を見る事が出来て本当にうれしく思います。」と。

以前のエントリーでヘレンが日本びいきだと書かせていただきましたが、ヘレンが日本を好きになったのは、こういう日本人の礼儀正しさ、誠実さに感激したことも理由の一つだと僕は思います。


3 忍び寄る戦争そして再来日

 しかし、ヘレンの来日から3ヶ月後の1937年(昭和12年)7月7日、日中戦争がおこります。日米関係もますます悪くなります。ヘレンも憲兵から「アメリカのスパイじゃないか」とにらまれてしまいます。そんなヘレンを見かねて、岩橋はアメリカにすぐに帰国をさせます。

その後もヘレンと岩橋は文通を続けたそうです。しかし、日米関係がこじれるにつれて、二人の手紙を通した交流も次第に途絶とだえてしまいます。当時はケータイもメールもなかった時代でしたから・・・

それでも1941年(昭和16年)6月19日、日米開戦前にヘレンは岩橋に手紙を送りました。

「親愛なるタケオへ。世界はいかりとなみだの場になりつつあります。おたがいの国をどのような不幸がおそっても、私たちはそのわざわいの中から美と力を生み出しましょう」と手紙に書かれていたそうです。

1941年12月8日、真珠湾攻撃しんじゅわんこうげきがはじまり、いよいよ日本とアメリカの戦争が始まりました。ヘレンと岩橋の二人のやりとりはなくなりました。そして、岩橋も戦争協力をする羽目になります。あの時代は言論の自由などなく、戦争に反対すれば大変な目にあうような時代ですからね・・・

1945年に終戦。岩橋はさっそくヘレンに「広島・長崎のためにも、ぜひ日本に来て欲しい」と手紙を書きました。するとヘレンはOKしました。ヘレンは昭和23年、再び日本に訪れます。

そしてヘレンと岩橋は11年ぶりに再会を果たします。ヘレンは岩橋に会うなり「タケオ」と呼び、涙を流しながらふたりはだきあったようです。ヘレンは広島、長崎に訪れました。広島に訪れたヘレンはこのように述べています。

「それは本当にショッキングな光景でした。人々は苦しみにもがきながらも、自分たちの傷については何も言いませんでした。これほどまでにたましいをゆさぶられたことはありません」

ヘレンは昭和30年にも日本に訪れましたが、この時も日本人から大変な歓迎かんげいを受けたそうです。その時のニュース動画があるのです。ありがたいことに、このブログをご覧になってくださっている方から教えていただきました。ありがとうございます!


https://www.youtube.com/watch?v=l3ok8H4LBRE



※1 日本とアメリカがおたがいに知りあって仲良くすること

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※ おまけ


今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。来年も良いお年を。ワンちゃんの動画をみて2018年にお別れします。





※ 参考
この記事は、「その時歴史が動いた」と「歴史秘話ヒストリア」の両番組のヘレン・ケラーの回を参考にして書きました。


その時歴史が動いた〈14〉
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奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)
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ヘレン・ケラーの偉大いだいさは知っていましたが、彼女が大変な親日家しんにちかだったことは最近まで知らなかったです。

自分の家の中を日本風にしたり、庭にとうろうを置いたり、日本犬までったりしたそうです。ほかにも温泉も好きだし、さしみも日本酒も愛したそうです。

へレンを日本にまねいたのは岩橋武夫。岩橋は長くヘレンと交流をした人物です。その岩橋とともに厳島神社(いくつしまじんじゃ)にもおとずれたそうです。それは恩師のサリヴァン先生を亡くして間もないころだったそうです。

厳島神社いくつしまじんじゃで思い出しましたが、僕も厳島神社いくつしまじんじゃに訪れたことがあります。よいところですよ。まるで竜宮城みたい。



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さて、厳島神社いくつしまじんじゃのそばの宿舎についた岩橋は、ヘレンに「ヘレン、今日はサリヴァン先生をおまつりしましょう。」といったそうです。

夜になって、厳島神社いくつしまじんじゃにはたくさんの数の灯ろうに灯が灯りました。その光景が、秘書の通訳によって手を通して伝えられるとヘレンはなみだを流して、亡きサリヴァン先生への感謝の意をこめて追悼(ついとう)をしたそうです。

ヘレンには肉眼にくがんでは、とうろうやの厳島神社いくつしまじんじゃ風景は見えなくても、心の目でみることができたのです。

彼女は人一倍感性が豊かな人でした。だからこそ、「私は見えないためにかえって、強く日本の精神にふれることができた」と語ったのかもしれません。





※参考文献

『そのとき歴史が動いた』(NHK取材班編)


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