1 有名な事件
 高度成長期の真っ只中、ある有名な事件が起こりました。いわゆる三億円事件。3億円事件はドラマ化もされましたし、『金田一少年の事件簿』でも事件をモチーフにした話も出てきます。それくらい有名な事件。警察はのべ17万人の警察をつぎ込んで、大捜査を行いましたが、犯人は見つからず。そして時効を迎えてしまいました。

事件のあらましは、昭和43年(1968)12月10日、場所は東京、府中刑務所前。その時、東京はバケツをひっくり返したような大雨。日本信託銀行の行員たちが、東芝府中工場で働く4523人分の社員のボーナスを車で運んでいたのです。そのボーナスは現在の価値で3億円の現金です。現金は三つのジェラルミンケースに入っていました。当時の3億円といえば現在の価値に直すと20億円に相当します。すごい大金ですね。ちなみに現金輸送車の車種は黒色のセドリック。

その日の9時15分、日本信託銀行国分寺支店からボーナスを運んだ輸送車は、府中工場へ向かいました。9時20分、府中工場からほど近い府中刑務所に近づいた時、警察官(❓)が白バイに乗ってやってきました。警官は、「巣鴨支店長宅が爆破された、この車にもダイナマイトがしかけられている」と。行員たちはいぶかしがりながらも、警官の指示に従い、車を降りました。すると警官は車の中を調べ出しました。そして、警官は「(ダイナマイトが)あった車が爆発するぞ!」と叫びました。白い煙がモクモクと車のしたから出てきます。あわてて行員たちは避難しました。そのスキを見て警官は車に乗り込み、車ごとボーナスを盗んだのです。この犯行時間はわずか3分。

しかも、ダイナマイトだと思っていたものは発煙筒。白バイも白いペンキを塗っただけのニセモノ。行員たちはまんまと犯人にだまされたのです。

「現金を運ぶなんてあぶねえな、だから盗まれるんだよ」って思うのは現代っ子の感覚。当時は今みたいに現金振込ではなく、給料もボーナスも手渡しだったのです。むしろ、この三億円事件がきっかけでk給料を現金振込にする会社が増え、今ではすっかり現金振り込みが定着したのです。

2 知能犯だった犯人
 それにしても、行員たちがあっさり騙されたのはなぜでしょう。実は3億円事件は突発的な犯行ではなく、事前に脅迫状が日本信託銀行支店長宛に届いていたのですね。それは事件発生の四日前。昭和43年12月6日のことでした。その脅迫状には支店長宅を爆破するってあるのですね。だから、行員たちは怖がっていたのですね。逆に言えば、事前に恐怖を植え付けられたことで行員たちは、白バイ警官に扮した犯人の言葉を信じてしまったのですね。ましてや行員たちは犯行予告を知っていたからこそ、警官が来たから安全だと逆に思ったのですね。

ましてや、昭和43年といえば学生運動や左翼の過激派の活動が盛んで、学生が火炎ビンを持って暴れる時代でした。有名な安田講堂事件もこの頃。だから、支店長自宅爆破が起こっても不思議じゃない雰囲気だったのです。だから、行員もびびってしまったのでしょう。

現金が盗まれという知らせをうけ、警察庁は現金輸送車発見のため、都内900ヶ所に検問を敷きました。しかし、それだけ大掛かりな検問をしても黒色のセドリックは見つからず。そして事件発生後から50分後に現金輸送車は発見されます。それは犯行現場から程近い、武蔵国分寺跡のやぶのなか。しかし、車内にはジェラルミンケースはなし。犯人は別の車に乗り換えたのです。その別の車というのが紺色のカローラだったことも後にわかったのです。だから、検問をやっても引っ掛からなかったのですね。こうしてみると犯人は知能犯ですね。

三億円事件の犯人はニセの白バイや発煙筒をはじめ多くの遺留品を残しました。さらに犯人が送った脅迫状の切手に唾液がついていて、その唾液から犯人がB型だと割り出すこともできたのです。そういうこともあって、警察は油断したのですね。「正月はゆっくりできる」と楽観ムード。

3 警察のミス
 しかし、警察はさまざまなミスをしたのです。まず現場から犯人のものと思われるハンチング帽。実は犯行に使われたバイクは、事件現場までボディカバーを引きずって走っていたことがわかったのですが、そのカバーの中から「ハンチング帽」が見つかりました。ハンチング帽に付着した汗などを調べれば犯人特定できたのですが、鑑定前に複数の刑事がふざけて、この帽子を被ってしまったのですね。これでは、鑑定不能にしてしまいます。

また警察は、事件当時に盗まれた紙幣ナンバーを公表してしまったのですね。犯人がこの紙幣を使えば足がつくと踏んだのですが、それが裏目に出たのです。

盗まれた、お札の枚数は4万506枚でした。内訳は、一万円札が2万7千369枚。5千円札が2千161枚、千円札が8千785枚、500円札が2千191枚です。昔は五百円玉ではなく、500円札なんてあったのですね。また普通、銀行は仕分けが終わってから、お札の札番号を控えておくのですが、控えてあったのは、なぜか500円札のぶんだけ。だから、それ以外のお札の番号が控えていないのです。で、警察はその500円札およそ二千枚分の紙幣ナンバーを公表してしまったのです。しかし、三億円を手に入れた犯人からすれば500円札を使わなければいいじゃん♪って思うわけです。だからナンバーが公表された500円札は未だに一枚も見つかっておりません。

そして警察が血眼になって探したのが、犯人が逃走に使った車です。その車というのが紺色のカローラ。盗難車でナンバーは「多摩5 ろ 35ー19」。その車は「多摩五郎」というニックネームがつけられました。そして警察は、三多摩地区に土地勘があり、その盗難者は小平市にある多摩霊園に隠したと睨んだのす。しかし、それは何の根拠もないのです。犯人が土地勘があるからと言って、多摩地域に隠したら逆に足がついてしまいます。結局、多摩霊園から逃走車が見つからず。時間と労力を無駄にしただけでした。

結局、多摩五郎は事件の現場からほど近い集合住宅の駐車場でした。車内からは空のジェラルミンケースが出てきました。

そして昭和44年(1969)に捜査の神様と言える平塚八兵衛が投入したものの、結局時効を迎えてしまうのです。

4 怪しい少年
 実は警察は犯人だと目星をつけていた人物がいたのです。 少年S。少年Sは19歳。事件発生直後から捜査線上に上がっていて、立川の非行少年グループのリーダー格だったのです。父親が白バイ隊員でした。その少年がお札のようなものを燃やしていたという近所からの情報があったのです。少年がお札らしきものを燃やしたのは警察が盗まれた紙幣ナンバーを公表した日の翌日です。捜査員たちが、早速捜査に向かった矢先、少年Sはその年の12月15日に服毒自殺をしたのです。

そして三億円事件といえば、あのモンタージュ写真。あの写真は少年Sにそっくりなのですね。警察はなんと自殺した少年Sに似た顔写真を使ってモンタージュ写真を作成していたのです。その写真を公表し、町の至るところに貼られました。効果は絶大。モンタージュ写真と似た顔の人物を見たという問い合わせもたくさん来たのですが、結局犯人は見つからず。

ちなみに平塚八兵衛は、少年Sをシロと思っていたのですね。脅迫状についた唾液から犯人はB型のはずなのに、少年SはA型、さらに脅迫状と少年Sの筆跡は違うと。

それからたくさんの人が容疑にかけられ、尋問もされましたが、結局犯人は見つからず。

この事件は、政府の自作自演だという説があります。当時、学生運動や左翼の活動家に政府は非常に手を焼いていたのですね。左翼の活動家は三多摩地域に拠点を置いており、また大学はそうした左翼の活動家の隠れ家でした。なぜなら当時は大学の中に警察が入ることができなかったのです。ところが、三億円事件のおかげで、警察は大学校内に入って、大学の中を調べることができたのです。そうして、あれほど酷かった学生運動や左翼の活動は沈静化したのですから。

自作自演とは言わなくても、政府はある意味三億円事件を利用して、学生運動の沈静化を狙ったのかもしれない。学生運動を根絶やしにするために、あえて事件解決をさせず、政府は末端の警察に圧力をかけた可能性も考えられます。

また、最近コメントをいただいた方からの情報なのですが、犯人は中野学校出身の人間じゃないかって
説もあるようです。中野学校出身者なら、昭和43年当時は中年くらい。10代の少年には無理でも、中年くらいで、かつ中野学校の出身者なら、この犯行は可能かもしれない。

いづれにせよ、真相は半世紀経ったい今も謎のままです。

* この記事は、「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。