今日は新田義貞のお話。新田といえば幕府を滅亡させた功労者の一人です。新田義貞と幕府の戦いといえば、小手指原(埼玉県の所沢や小手指あたり)、久米川(東京都東村山市あたり)の合戦、そして分倍河原(東京都府中市)の合戦です。いづれの合戦も激闘で多くの人が亡くなっております。今日はこの3つの戦いのお話をします。
元弘3年(1333年)5月8日、足利高氏が京都の六波羅探題を陥落させましたが、新田義貞も挙兵し、鎌倉幕府と戦いました。
義貞が挙兵したのは、護良の令旨に応えたとも、後醍醐の綸旨に応えたとも言われておりますが、やはり幕府への不満が大きいです。実は義貞は楠木正成がこもる千早城攻めに幕府側として参加していたのです。それが病気を理由に領国に帰っていたのです。そこに幕府から戦費調達として銭6万貫を差し出せと命令が下ったのです。義貞はこの要求を突っぱね、逆に戦費を出せと言ってきた幕府の役人を斬ってしまったのです。これに激怒した幕府が義貞追討の命令を発したため、義貞は幕府と戦う決心がついたのです。元々、義貞は内心幕府に不満があったし、足利高氏も幕府を裏切ったので、「じゃあ俺も」って思ったかもしれません。
元弘3年(1333年)5月11日、新田義貞と幕府軍がぶつかったのが小手指河原。この戦いは両軍いり混じる戦いで、朝から夕刻まで続いたと言います。新田軍は300騎が亡くなり、幕府が500騎犠牲になったと言います。結局、両軍の戦いは決着がつかず、新田軍は入間川へ、幕府軍は久米川へ撤退したと言います。
久米川では、新田が先手をとり、数で勝る新田軍が幕府軍を追い詰めたと言います。この久米川の戦いに勝利した新田軍は八国山に将軍塚をつくったと言います。
そして、幕府軍は分倍河原まで逃げたと言います。分倍河原は武蔵国の首府・府中に近く、鎌倉幕府にとっては鎌倉を守るための最後の防衛線でした。そのため、幕府は援軍を送ったと言います。幕府軍も善戦し、一度は新田軍を押し返したと言います。ちなみに新田義貞の軍勢はそのドサクサに紛れて国分寺をもやしたといいます。しかし、そんな新田に相模国の名門の三浦氏などが新田の味方をし、再び新田は幕府軍に立ち向かいます。そして幕府軍は多くの犠牲を出し敗退します。
分倍河原は激戦は凄まじく、かつては心霊スポットとしても有名でした。僕が聞いた話では、分倍河原の合戦場だったところを走る電車の車窓に血まみれの手が映ったとか


(新田義貞)
(分倍原の合戦場跡)
(同じく合戦場跡)
(分倍原の説明板)
(三千人塚 鎌倉時代後期の墓地。分倍河原の合戦の犠牲者の墓ではないようですし、この石碑も江戸時代に作られたと言います)
(三千人塚の説明板)
参考文献