history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:原爆

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原爆げんばくで無事助かったといっても、いまもなお、原爆の後遺症こういしょうに苦しんでいる方もいらっしゃいます。そして、原ばくが落ちて数年たってから亡くなった子どもも少なくありません。今日ご紹介する少女もそんな子どもの一人です。

彼女の名前は佐々木禎子(ささきさだこ)さん。広島平和記念公園の原ばくの子の像のモデルとなった少女です。原子爆弾げんしばくだんがおちてから10年後にとつぜん白血病はっけつびょうであると診断しんだんされ入院しました。

入院しているときに、彼女はつるっていました。それは「生きたい」という願いもそうなのですが、家族の幸せを祈ってり続けたといいます。しかも、いたみで歩くのもままならないのに、お見舞みまいに来たお父さんのために頭痛ずつうの薬を買ってきたと聞いております。

自分だって苦しいのに家族や人を思いやるやさしい心を持っていたのですね。

しかし、彼女は昭和30年10月25日に亡くなってしまうのです。12才の生涯しょうがいでした・・・

白血病とは血液のがんとも言われるおそろしい病気です。私事になりますが、私にも姉がいて白血病で亡くなりました。中学一年生で亡くなりました。あいにく姉は私が小さいときに亡くなったので、記憶がありません。以前に父とともに、姉の眠るお墓へお参りしたのですが、そのとき父が悲し気な顔をしながら「A子(仮名)、ehatov1896(これはアカウント名。私の本名ではありませんw)と一緒にきたぞ」と墓に語りかけておりました。私の姉は原爆とは無関係なのですが、親としてみれば幼くして亡くなった子供への思いや悲しみは癒えるものではないのだと思いました。


彼女は原ばくがおちたときには無事だったのですが、原ばくが落ちた後に、黒い雨とよばれる雨にふられてしまったのです。その黒い雨とは原爆で空高くまきあげられたホコリやススがたっぷりと混じっていて、しかも放射性物質までふくんでいたのです。

佐々木禎子さんの話ではないのですが、のどがかわいたといって黒い雨を飲んで、ゲリになったり、放射能の影響えいきょうで体調をくずした人も少なくなかったといいます。それくらい、黒い雨はおそろしい雨なのです。

佐々木禎子さんのことに関しましては、こちらのサイトに写真などものっております。

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01071.html



* おまけ
佐々木禎子さんのことは歌にもなりました。クミコさんがお歌いになりました。平和への願いがこもった素晴らしい曲です。



INORI−いのり−
綾野 まさる
ハート出版
2010-12-13

禎子の千羽鶴 (戦争ノンフィクション)
佐々木 雅弘
学研パブリッシング
2013-07-09




※ 参考サイトおよび参考文献

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_ex/vit_ex4.html






平和記念資料館には、焼けてスミになってしまったお弁当箱と水筒すいとうがあります。これは、広島県立第二中学校1年生の折免滋(おりめんしげる)くんの弁当箱と水筒すいとうです。

1945年の8月6日に、しげるくんたち1年生322名が建物疎開作業たてものそかいさぎょう(※1)のため、中島新町にいました。

8時10分ごろ、空でB29をみつけるなり、生徒たちは「敵機だ」「ビー(B29のこと)だ!」と口々にいい、にげようとしました。

しかし、すぐに原ばくが落ちてしまい、多くの生徒が大やけどをしたり、レンガや飛んできた木にうめられたり、ふきとばされたのです・・・

滋くんのお母さんが心配になって8月9日の朝、、しげる君を探しに行きました。

しかし、お母さんがみたものは、しげる君の変わり果てた姿でした・・・・

しげるくんは、戦争に行っている父と兄に代わって、山や竹やぶを開こんして畑を作っていました。その日のお弁当の中身は、その畑から初めてとれた作物でつくったおかずでした

しげる君のお母さんは、それを食べることなく死んでしまった滋くんのことをかわいそうに思ったそうです・・・。

※1 ところどころの家や建物を撤去てっきょしたりして空地をつくり、空しゅうがあっても燃え広がらないようにするためにする作業。その作業をするに国民学校高等科や中学校、女学校の1〜2年生およそ8000人ほど動員され、5900人近くがぎせいになった。

今年、広島と安芸の宮島に訪れました。広島には本来8月6日の日に訪れたいところでしたが、秋の広島もいいものでした。特に紅葉の宮島はきれいでした。広島に訪れたのは生まれてはじめてですが、とても意義のあるものでした。単なる物見遊山で終わらせるわけにはいかないと思いました。とくに広島の原爆資料館げんばくしりょうかんは本当に考えさせられました。





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本当に訪れてよかったと思います。原爆の話は、『はだしのゲン』の受け売りの知識くらいしかなかったのですが、原爆で犠牲ぎせいになったひとたちの遺品の数々をみて、遺品の持ち主の思いといいますか、苦しみがなんとなくではありますが伝わってきました。



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印象に残ったのが佐々木禎子さんのブースです。彼女は原爆症で亡くなった少女で、彼女の生い立ちがパネルで紹介されていたり、遺品が展示されていました。

彼女が実際に折ったという折り鶴もありました。



(資料館の動画。ちなみにこの動画を撮ったのは私ではありません)

原爆資料館には外人さんそれも白人の外人さんを何人かみかけました。外国人の方もたくさんお見えになっているのだなと思いました。

ところで、外国人観光客が訪れた日本の観光地で「いってよかった」の一位はどこだと思いますか?それは、京都でも北海道でも沖縄でもありません。

なんと、広島の原爆資料館(および平和公園)なのです。


ネットでそのことを知り、非常に驚きました。まさにネットDE真実っていうやつですwww

以下、外国人の人たちの声を引用します。





「三度行きましたが、毎回衝撃しょうげきを受けて出てきます。外国人で日本語わからない方にはぜひ、説明する機械を借りてほしいですね」(スペイン)

衝撃しょうげき的、でもすごく意義があった」(オーストラリア)

「戦争にヒーローなんていない。だれもが被害者なんだということを感じました。ここは世界最高の博物館です」(オーストラリア)

「日本に行ってここをおとずれずに帰るなんてありえない」(インド)

「訪れる価値のある博物館。被害者ひがいしゃが感じた恐怖きょうふを感じ取ることができる。展示には平和と二度とこのようなことが起らないよう願いがこめられている」(中国)

「展示はデリケートな問題もふくみますが、全ての年齢の人が見るべきです。深く考えさせられるでしょう」(スイス)






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アインシュタインが「日本は尊い国」で、日本が「アジアの高峰こうほう」で「世界の盟主」になると予言したと。。日本が世界の盟主になれる理由は「あらゆる国の歴史をぬきこえた最も古くまた尊い家柄いえがらでなくてはならぬ」

日本には天皇家があるから世界の盟主になるべきだと。

アインシュタインがこんなに天皇制(帝国主義ていこくしゅぎ)をマンセーするような発言を本当にしたってネトウヨさんたちが言うのですが本当でしょうか。

 しかし、アインシュタインについて信頼しんらいできる語録や来日記録をいくら調べても「世界の盟主」に関する記述は出てこないそうです。アインシュタインの伝記研究者に「日本は世界の盟主になる」の話をしても、「初耳だ」とおどろくそうです。

それに、アインシュタインは「国家主義は、小児病気である。それは、人類のはしかである。」「たとえ国家が要求したとしても良心に反することは決してしてはならない。」という言葉を残した人物。そのような人物が 「日本は世界の盟主」などと発言をするとは思えません。

アインシュタインが日本に来たことがあり、親日派である事は事実なのですが、それとこれとでは話がちがいます。

しかし、この「世界の盟主」と言った人物は実際にいました。その人物の名前は田中智学(たなか ちがく)。

田中は「 八紘一宇ハッコウイチウ」(※1)という言葉をつくった人物です。

彼が作った宗教団体が国柱会こくちゅうかい。石原莞爾はもとより、なんと宮沢賢治までが国柱会に入っていたそうです。

田中智学が昭和3年に発表した『日本とは如何いかなる国ぞ』という本があります。その本の中の「スタイン博士の至言」という文章があるのですが、その文章の中に「日本は世界の盟主」という言葉が出て来るそうです。

ちなみに、『日本とは如何なる国ぞ』に出てくる「スタイン博士」とはアイン・シュタインの事ではなく、オーストリアのウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタイン教授(1815〜1890年)のことだそうです。

『日本とは如何なる国ぞ』を読んだ人がローレンツ・フォン・シュタインをアイン・シュタインだとカン違いして、「アイン・シュタインがこんなすごい予言をしたんだぞ」って言いふらしたのかもしれません?

ただし、シュタイン教授もまた「日本は世界の盟主」と言った事はないそうです。シュタイン教授はあくまでも日本に立憲国家となって欲しいという願いを持っていました。当時の欧米諸国の人たちは「黄色人種はだから、立憲国家を運営するのは無理」って思っていました。そんな中でシュタイン教授は日本に期待をしていました。「どうか、日本も欧米に負けない国になってほしい」と。

けれどシュタイン教授は、日本が国粋主義こくすいしゅぎに走る事は望んでいなかったと考えられます。

「天皇は世界の盟主」というのは田中智学の願望であって、本当にシュタイン博士が言ったわけじゃないのです。田中はシュタイン博士の名を借りて、「シュタイン博士が天皇は世界の盟主と言ったんだぜ」と自分の願いを言ったのだと思われます。


※1 全世界を一つにまとめて、一家のように和合させること。第二次大戦のとき日本が国家の理念として打ち出し、海外進出を正当化するスローガンとして用いた。







 ※ 参考文献

トンデモ日本史の真相
トンデモ日本史の真相
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 「いのる」とは簡単なことでしょうか?自分の幸せを祈るのは簡単かもしれませんが、それ以上に簡単なのは他人をねたんだり、「この野郎」とか言ってにくんだりすることw

僕もよく「あいつ、オレよりたくさん給料もらえてうらやましいなw」とか、「あいつオレよりイケメンじゃん、うらやましいな」なんて人をねたむ事が時々ありますw

でも、赤の他人の幸せのために、それも真剣しんけんに「祈る」のは、口で言うほど簡単じゃないかもしれません。

今日は、人のために祈る事を徹底的てっていてき実践<rt>じっせんした人物をご紹介<rt>しょうかいいたします。

その人の名前はジャクリーヌ・ド・デッカー
 
どういう人物かと言うと、「祈り」を通してマザー・テレサやシスター達の活動を支えた女性です。彼女の祈りはテレサにとって大いにはげみになったようです。

ベルギーで生まれたジャクリーヌは、1946年にインドにわたりました。彼女はたった一人で貧しい人のために活動をしていて、やがてマザー・テレサと対面をします。おたがいの考え方や理想が同じ事を知り、二人は意気投合。ジャクリーヌはテレサの活動に協力することを決心しました。

しかし、ジャクリーヌはその後、重い病気にかかり、手術を受けるためにベルギーに帰国しました。

当然、ジャクリーヌはへこんでしまいました。テレサといっしょに活動をしたいのにそれがかなわなくなったからです。

それがある日、ベルギーのジャクリーヌの元にテレサからの手紙が届きました。その手紙には「私達は体が動けるから、貧しい人のために働きます。あなたは私の代わりに祈り、その祈りを多くの人びとに広めてください」と書かれていたそうです。

「人にはそれぞれ役目がある、自分の出来ることを精いっぱいやってみなさい、決して自分はつまらない人間だとは思わないでくれ」とテレサは言いたかったのかもしれません。そして、祈る事の大切さをジャクリーヌに教えたのでしょう。

それから、ジャクリーヌはベルギーからカルカッタにいるテレサたちの事や、貧しい人たちの事を祈り続けました。自分を捨て、他人にためにひたすら祈ったのです。

「祈りより行動せよ」とつい僕は思ってしまいますが、マザー・テレサはその様な考え方には否定的です。
それどころか、マザー・テレサがノーベル賞を受賞した時には、テレサはジャクリーヌを会場に呼んだそうです。そして、テレサはジャクリーヌを「第二の自分」とまでたたえたのです。

1945年8月6日および1945年の8月9日は日本人にとって忘れられない日だと思います。8月9日の今日も多くの人が、平和のため、原ばくで亡くなった人々のために祈りを捧げたことでしょう。マザー・テレサもかつては広島、長崎に訪れ、世界平和とかくへいきのなくなることを祈ったそうです。

長崎には修学旅行でおとずれたことがあります。長崎の原爆資料館でみた展示物が忘れられません。ドロドロになったガラス、体中ヤケドをしている人々の写真や絵・・・・

それから資料館の展示物ではないのですが、片足鳥居も未だに覚えております・・・


それから長崎の「精霊流し(しょうろうながし)」の動画をどうぞ。毎年8月15日に行われるそうです。僕は最近まで「精霊流し」のことをまったく知りませんでした。

「精霊流し」の名前を知ったのは、さだまさしさんの歌がきっかけです。動画でみてびっくりしましたね。山車だしが出てきたり、爆竹ばくちくを鳴らしたりで、にぎやかだから。

さだまさしさんの歌の様にもの静かな祭りを想像していただけによけいにビックリしました。




長崎出身のさだまさしさんが聞いた話では、1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下の際には、多くの人が被爆からわずか6日後にある精霊流しを思い、「死んてしまったら、だれが自分の精霊船(しょうろうぶね)を出してくれるのだろうか」と気にかけながら亡くなっていったそうです・・・







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