安倍寛という人をご存知でしょうか。え、「トリック」、「ドラゴン桜」?言っておきますが俳優さんではありませんよw?あちらは阿部寛さん。勘違いならぬアベ違いですね。安倍寛は安倍晋三さんの父方のおじいさまです。安倍晋三さんの祖父といえば岸信介元総理を連想する方も多いかと思われますが、岸さんは母方のおじいさま。安倍寛は反戦の政治家で、大政翼賛会に入らず、軍部に抵抗した、気骨の政治家でした。

安倍寛は、山口県の日置村の出身で、安倍家は代々、醤油などの醸造業を営み、田畑や山林を多く持つ大地主だったそうです。安部寛のおじも県議を務めたと言います。今も安倍家のお墓が日置村にあり、近隣の住民がボランティアが墓を守っています。安倍寛は幼くして両親を亡くし、母の実姉が親代わりになったと言います。寛は勉学につとめ、東京帝国大学に入学。そして、日置村の村長を経て、おじが果たせなかった代議士になったのです。ちなみに村長さんになる前に、東京で会社を起こしたが、そちらはあまりうまくいかなった模様。

その人柄は「真面目で信念がある人。それと清廉潔癖。人望もあった。頭も良かったが、俺が俺がというタイプではなかった」とのこと。また美男子で、当時は高価だった三越製の背広や帽子を愛用するダンディーな人だったとのこと。また、地元の人が「安倍寛さんが、もし90歳まで生きていたら日本の政治が変わったくらいの方だった」というほど。それほど地元の人に慕われていたのです。


阿部寛は東京で結婚をしたが、子供を一人残して妻と離縁をしてしまいます・・・その子供というのが、のちの安倍晋太郎さん。一人息子と共に郷里に帰って以降、寛は生涯独身を貫いたと言います。

山口に戻り、1928年(昭和3年)に「金権腐敗打破」を叫んで普通選挙に立候補しましたが、落選。選挙の後、寛は学生時代に患った結核の再発。さらに結核も再発した上に、脊椎カリエスまで併発。当時の医療では脊椎カリエスは治せなかったと言います。寛は元々体が丈夫ではなく、学生時代には結核を患い、その後おたびたび寛の体を蝕んだのですね。

そんな状況の中、寛に村長になってくれと地元の住民が頼み込みます。日置村はその当時の村長、村議会が真っ二つに割れて抗争を繰り返す無政府状態だったのですね。そんな状況を変えたいということで、寛に村長になってほしいと。寛は言いました。「病床のままで良いか?」と。村民はもちろんOK。こうして寛は村長になったのです。それは1933年(昭和8)のこと。その時寛は33歳。安倍寛は日置村で療養生活をしながら村長の仕事をこなしました。しかし、その頃の日本は戦争の道を進んでいました。そして日本がゆっくりと破滅の道を歩んでいる。そんな状況に寛は耐えられなかったのでしょう。寛は1935年(昭和10)、村長をやりながら、山口県議選挙に出馬。見事当選。そして国政に出ようと思い、1937年(昭和12)の衆議院議員選挙に山口1区から無所属で出馬。貧富の格差への憤り、失業者対策の必要性や、農村の復興、大資本の批判を訴えたと言います。さらに軍部の暴走と、それに有効な手立ても打てない既成政党も批判したのです。そして見事初当選。

1942年(昭和十七)の衆議院銀選挙は、とても選挙と呼べないひどいものでした。大政翼賛会の時代で、軍部の横やりも入り、軍部に批判的な候補者は推薦をもらえない。逆に大政翼賛会の推薦をもらえた候補者は、官民あげての手厚い選挙支援され、軍事費から選挙資金が横流しされる有様。警察や特高による執拗な弾圧や嫌がらせがあったと言います。そんな状況で安倍寛は出馬。彼は軍部におもねることもなく戦争や時の東条内閣を批判したとので、非推薦の上、嫌がらせも受けたと言います。警察は24時間、寛をマークし、当時17歳だった息子の晋太郎まで執拗な質問をされたと言います。それで定数4の山口1区で四番目の滑り込み当選。

寛は地元の人に慕われた上に、理屈に合わないカネは突き返すような人でした。だからこそ地元の人たちは寛をなお尊敬し、逆境の中でも、寛を応援したのです。選挙で戦っている寛のために地元の人たちがおむすびを作ったなんて話もあったほど。

それにしてもなぜ、ここまで寛は自分の危険を顧みないで、戦争反対を訴えたのでしょう。地元の人がいうには、当時の軍部は下っ端の将校までが「日本を背負うのは俺だ。庶民は黙って俺たちについて来い」という雰囲気だったと。よくいえばリーダシップがあるといえますが、悪くいえば、思い上がりとも取れます。そんな状況に寛は我慢できなかったのでしょうね。そして終戦を迎えます。しかし、寛はこれまでの無理がたたり、体調を崩していたのです。そんな寛を意外な人物が見舞いに来たのです。岸信介元総理です。なぜ?安倍寛は三木武夫元総理と親しかったようですが、思想的に似ている三木ではなく、なぜ岸が?岸と安倍寛は思想的には正反対だし、接点もあまりないのに。

岸信介は国粋主義者のイメージがありますが、非常にマキャベリストであり、イデオロギーで人を判断する人間ではなかったのです。寛の主義主張はともかく、その高潔な人柄に惚れ込んでいたのかもしれません。のちに寛の息子の晋太郎と、岸信介の娘の洋子さんが結婚。晋太郎さんと洋子さんの間に生まれたのが、のちの安倍晋三さんというわけです。二人の結婚話が持ち上がった時、岸信介は「大津聖人(安倍寛)の息子なら心配ない」と述べたとか。

寛は戦後は日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死しました。惜しい人を無くしたなって。彼が病気せずにそのまま政治家になっていたら、本当に日本は変わっていたかもしれませんね。

*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05