history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:富岡日記

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1 母の教え

今日は富岡製糸場で有名な工女さんの和田英(旧姓・横田)のお話を。彼女は晩年に『富岡日記』を書きました。『富岡日記』の前半は、富岡製糸場での出来事が、後半は富岡製糸場をでて民間の製糸場の六工社での出来事がつづられております。

横田は1857年、長野県の松代にて、松代藩士横田数馬の次女として生まれました。1873年に松代出身の16人の女子(英も含む)が富岡製糸場で働くことになりました。英はその時10代半ばごろの若さでしたが、工女募集責任者である父・横田数馬の影響をうけ、国益と家名のために自ら進んで工女となったといわれております。また、母の横田亀代子きよこは英が家をでる際、「このたびお前を遠方へ手放して、遣わすからには、常々の教えをよく守らねばならぬ。また、男子方もたくさんおられるだろうから、万一身を持ちくずすことはあってはなりませぬ」と諭したといいます。

それに対し英は「ご心配くださいますな。たとい男千人の中へ私一人おりましても、手込めに遭わばいざしらず、心さえたしかに持ち居りますれば身を汚しご両親のお顔にさわるようなことは決して致しませぬ」とこたえ、母を安心させたといいます。年頃の子ですからね、親は心配でしょう。

母の亀代子はしつけが厳しいひとでした。英をはじめ子供たちに常々このようなことを言っていたそうです。

  • 偽りを申すは火のようなものだ。

  • わが身をつみて人の痛さを知れ

  • 自身より年の下な人と争うことはならぬ。負けて泣いて帰れば門内に入れぬ

  • 目上の人を敬え

  • 知るを知るとなせ,知らぬことを知ったふりするな

  • 短慮功を奏せず



などなど。また、亀代子は子育ての心得として英に「人の悪き事を子供の居る所で言ってはならぬ」とか「母の言うことを信じさせよ」とか教えていたようです。しつけだけでなく母親としての心構えも教え込んでいたのですね。

2 中間管理職の苦しみ
そして横田英は一等工女となり、富岡製糸場を1年で退場。それから松代に建設された日本初の民営機械製糸場・西条村製糸場(のちに六工社になる)の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たしました。優秀だったのでヘッドハンティングされたのですね。

その製糸場は富岡と同じフランス製の機器を使っておりましたが、釜の数は富岡に遠く及ばず、用いる用具も台所で使うようなものや灰ふるいなど日常品ばかり。最新鋭の用具を使っている富岡とは雲梯の差で英も不満をもらします。また、英は新人の工女さんの指導をしたのですが、なかなか苦労したようです。工場の経営側からも新人の工女さんからも突き上げをくらう中間管理職の大変さです。

新入工女の人々は、誰が何と言ったとか、やれ見下げたことを申したとか、直にここには居ら れぬ、引いてしまうと申されます。その時は私が「皆様も折角国のためと思召して御入場になり まして、その位なことでお引きになりましては、第一世間の人がそれ見たことかと申します。御 両親まで人にお笑われになりましょう。誰が何と申しましても皆人が存じて居りますから」と申 してはなだめて居ます。(略)

まずそのようなことでいつも納まりますが、中々面倒は絶えませぬ。実際私は双方の間に入り まして、双方から色々申されますのを、双方へ自分の考え通りを申してなだめて居ますので、糸 扱いは付けたり、仲裁役になって居るも同じこと、何れを見ても心痛は絶えませぬ。元方の方々 の日々不安と心痛に充たされたるお顔、さては工女方の不平の声、いつ安心の地位に立たれるこ とであろうと日夜苦心で明かしました。

『富岡日記』P90より

3 繰婦は兵隊に勝る
 1878年に英は和田盛治と結婚します。性も変わって和田英となります。令和の現在、夫婦別姓のことでいろいろ問題が起きているようですが、さすがに明治の昔は夫婦別姓なんてあったもんじゃありません。夫婦仲はいかがなものかはわかりかねます。ただ、盛治は東京で陸軍軍人をしていたが、硬骨漢のため上官とケンカすることもあったそうです。そのため48歳で予備役にまわされたそうです。盛治は「同僚は出世したのに、俺なんか」と酒を飲んではグチをこぼしていたそうです。それに対して英は一言の不平不満を言わなかったそうです。

英は『富岡日記』を1905年に書き始め、1913年に書き終えます。実はその年に盛治は亡くなっているのですね。盛治は、日露戦争に後備歩兵として従軍しましたが、負傷し、その戦争での傷がもとで病気になり、1913年に亡くなりました。

夫が亡くなり、『富岡日記』を書きあげた英は何を思ったのでしょう。おそらく横田が富岡時代に尾高惇忠が言った「繰婦は兵隊に勝る」の言葉を思い出したのではないでしょうか。

私共が退場致しました時、どの位尾高様がお喜びにな りましたことやら、額に致して製糸場内にかけますようと仰せられまして、御書物を一枚宇敷氏 へ賜わりました。これは横長の紙に、「繰 婦 勝 兵 隊」と申す御丈で、御名前に御印章が据えてありました。(略)このような立派なる、私共身に取りましては折紙とも申すべき御書物を頂きました私共は・・・(略)この御文を人が御覧になりましたら (殊に軍人)さぞ立腹されることでありましょうが、日本全国の模範に政府から立てられました る大工場の長たる人は、この意気組でなければ勤まりますまいと、只今に折々考えて居ります。
『富岡日記』P117〜118

英は、夫の死に直面し、おのずと夫の生き方と自分の生き方を比較したのではないかと。そして、女工さんも兵隊さんもどっちも大事だと理解しつつも、自分たちがひたむきに繰りだし国際舞台で立派に通用した製糸業のほうが、価値があったのではと。


そして、英は養子の盛一(とその家族)とともに足尾銅山、静岡へと移り住みます。そして1929年9月、足尾銅山通洞の社宅で亡くなりました。享年72歳。

 
※ 参考文献

1 病気になった工女さん

 富岡製糸場の繰糸場の中は、顔が見えなくなるほど蒸気が立ち込め、蒸気の音もすさまじく、大変蒸し暑く、冷房もありません。しかも労働時間は官営時代でさえ8時間弱。だから、病気になる工女さんも多かったのです。特に夏になると、病人が増えたのです。



ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気かっけ(※1)だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。(略)



その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では お雪さんと申されまして、耶蘇やそ(※2)の伝道師になって居らるるように承りました


『富岡日記』P46〜P49まで



幸い、河原鶴子は一命をとりとめましたが、そのまま亡くなった工女さんも少なくないのです。官営時代に亡くなった工女さんの数は52人。意外と多いです。そのうち15歳以下で亡くなった工女さんが4人いたというからかわいそうだなって。医師が工場内に常にいて、健康管理に気を付けていた官営時代でさえ死者がでたのに、労働時間が長くなり、医師も工場内にいなくなった民営化時代は、官営時代のそれよりも多かったのではないかと。


2 工女さんがねむるお寺

富岡製糸場とみおかせしじょうの近くに龍光寺りゅうこうじというお寺があります。このお寺には工女さんのお墓があります。明治6年(官営時代)から明治34年(民営化後)の28年間の間に、60人もの工女さんが亡くなり、その60人のお墓が、ここ龍光寺と海源寺かいげんじというお寺にあるそうです。



ここ龍光寺には工女さんのお墓が30ほどありまして、お墓に埋葬まいそうされているのは工女さんたちだけでなく、製糸場の役人などもいるそうです。また、明治26年の民営化の際、当時の所長が建立した連名のお墓もあります。

で、工女さん達のお墓は、思っていたより質素だなあって思いました。コケがはえている墓もありました。墓が古いから仕方がないといえば仕方がないのですが、なんかむなしいなって。




3 かわいそうな工女さんたちのこと


 3年位前に富岡にいったのですが、その際、工女さんたちをなぐさめるために、お墓にお線香とお花をささげました。墓を見て虚しい気持ちになりましたね。国の繁栄はんえいのために必死に働いて、亡くなったら小さなお墓に入れられて、雨ざらしにされ、しかも墓にコケが生えるような有様ではかわいそうだなっておもいました。


掃除もしたかったが、お墓も古くて、ちょっと触っただけで崩れそうな感じです。かといって、お墓をきれいに作り直すのは大変ですし、お金もかかるし。

ちなみにこのお寺の参拝客は僕のほかにもいらして、初老の男性が線香を上げてました。お参りしてくださる方も少なくないようで、救われた気分になりました。


最後に富岡製糸所で初期に亡くなった工女さんである照井多計の辞世の歌をご紹介します。



「夏の夜の 夢路をさそう時鳥 我が名をあげて 雲の上まで」



この辞世の句は照井多計の墓に刻まれているそうですが、長い年月が経っているため読めなくなっているとのこと。
照井多計は岩手の出身で21歳で異郷の地で亡くなったのですね。彼女はどんな思いでこの辞世の句を詠んだのでしょう。


※1 ビタミンB1の欠乏のために、末梢(まっしょう)神経がおかされ、足がしびれたりむくんだりする症状。下手すると死亡する。明治のころは不治の病と恐れられていた

※2 キリスト教徒のこと


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(龍光寺の入口)

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(説明版)



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工女さんのお墓たち。本当はお墓の写真なんてとるのは趣味じゃないのですが



※ 参考文献及びサイト







http://www.silkmill.iihana.com/ryukouji.php


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写真の女性は横田英。横田英は富岡製糸場の工女さんで、富岡で働いてから故郷の松代に帰り、後進こうしん(※1)の指導に当たった人物です。そして横田英は、「富岡日記」を書きました。横田はのちに結婚して和田さんとなります。今日は横田英が残した日記をもとに工女さんたちが一等工女になるためにどんな修業をしたのかを2回にわたってみていきます。






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