history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

タグ:岸信介

1 反中共だった岸信介
明日は天安門事件です。早いものでもう三十年以上経つのですね。痛ましい事件でした。当時、僕は中学生したが、一般市民に銃を向ける当時の中国の恐ろしさにゾッとしたものです。中国当局は犠牲者は三百人くらいだと発表しておりますが、実際はもっといただろうと。下手すりゃ一万人くらいいたんじゃないかって説もあるほど。あれから中国はめざましい経済発展を続けておりますが、今なお中国共産党による独裁政治を続けております。

また台湾を巡って中国との緊張も高まり、日本でも中国の脅威を訴え、憲法を改正しようという声も上がっております。今の岸田総理が中国に対して宥和的ユウワテキな態度なので、対中強硬派の安倍晋三元総理が今なお根強い人気があるようです。では、安倍晋三元総理の祖父である岸信介は中国との関係について、どのように考えていたのでしょう?

岸信介が総理だった頃の中国は、大陸とは国交がなく、蒋介石率いる台湾と国交を結んでおりました。岸信介は台湾との関係を非常に重視していましたから、岸内閣時代は日中関係が最悪だったと言います。ちなみに、岸の次の池田勇人内閣では台湾との間でギクシャクします。池田内閣は中国との関係を持とうとする一方で、台湾と距離を置こうとした。そのことで蒋介石を怒らせてしまったとか。この池田内閣での中国に対する取り組みが、のちの田中角栄内閣による日中国交回復につながるのですが。

ともあれ、中国共産党は、岸に対して敵視していたのですね。中国が「岸内閣が米国と結託し、中国人民を敵視している陰謀に対して、極めて憤慨をおぼえずに居られない」(1958年11月19日、当時の中国の外交部長の声明)。それに対し岸信介は「トンと身に覚えのない話」と切って捨てております。さらに岸は「だいたい共産党員というものは、人間の誠実さとか善意の通用しない、我々の頭の中にある“人間“には当てはまらない連中だとは思っていたが、中共首脳の発言は全く理解に苦しむものであった」(※1)と断じていました。

2 政経分離
一方で岸信介といえども中国との関係を全く無視することができず、「政経分離」を考えていたのです。政治上では付き合いたくないが、経済の面ではお付き合いしましょうということでしょう。また岸も経済だけでなく、「文化的にも過去に日本と密接な関係を持ってきたから、そこの人民と友好を図るのは望ましい」という考えを持っていたのです。つまり、岸は中共は嫌いだが、人民には罪はないということでしょう。

経済的な結びつきの一環として昭和30年(1955)10月に大阪で中国の見本市が行われましたが、そこで揉め事があったのですね。見本市は二ヶ月以内との約束でしたが、中共関係者は開催前の準備と終了後の残務整理があるから、「二ヶ月では短い、さらに三週間延長してほしい」と要求したのですね。それで日本政府は関係者の指紋の押印を頼んだが、中共はそれを拒否。

当時の日本の法律(外国人登録法)では、政府の公務員及び国際間の公務を帯びる者を除き、外国人の滞在が二ヶ月を超える場合は指紋の捺印を押さなければならない決まりになっております。それは、どこの国であっても例外ではありません。当時の政府は苦慮しましたが、結局、政府は見本市の関係者は指紋の押印をしなくて良いと判断したのです。

見本市は各国政府が援助している国際的な組織とみなすべきで、国際貿易の増大に寄与しており、その行事の国際的意義も認めたれている。従って、見本市の関係者は、我が国の外国人登録法の適用外だから、押印は必要ないとのことです。もちろん、こうした特権を与えたことに対し、批判の声も上がったのですね。ましてや中国とは国交がなかったので。このような特権を上げればますます中共はつけあがるし、台湾も怒ってしまうと。しかし、そのようなリスクを踏まえた上で、見本市なら指紋の押印しなくて良いと岸内閣においても閣議で認められたのですね。


昭和三十年代はまだ中国と正式な国交はなかったのですが、自民党のイケショウこと池田正之輔イケダマサノスケが中心になって中国との貿易交渉に当たっていたのですね。1953年以来、訪中団を率いて数度も中国に訪れたそうです。1958年に第四次通商協定を結ぶなど、日中貿易にも貢献したのですね。こうして政治的にはともかく、経済の面では着々と交流が進んだのですね。とはいえ、国交がなかったので、民間レベルの細々とした貿易でしたが。政治では台湾、経済では中国と付き合うという、どっちつかずな態度を取れば、台湾と中共の双方の反発を招いてしまうと岸は考えました。それで岸は、日本の立場を誠実に訴えたと言いますが、なかなか納得してもらえず苦労したのとこと。

特に台湾の蒋介石は、大陸反抗政策をとっており、中共と激しく対立していたから余計です。蒋介石はマジで中国に攻め込もうとしていたのですね。今も台湾との関係に緊張が走っておりますが、この時代も中台関係はやばかったのです。岸が蒋介石にあった時、「軍事行動は不可能に近いから、それより台湾に理想的な国家を作るべき。そうすれば蒋介石の政治が宣伝となって、大陸を追い詰めることができる」と持ちかけたと言います。すごいですね。かつての李登輝や今の蔡英文総統がやっていることを先駆けてやりなさいと提案しているのだから。すると蒋介石は「そんな生やさしいやり方ではダメだ」と反発したとか。

3 長崎国旗事件
さて、岸が総理の時に事件がありました。長崎国旗事件です。1958年の5月2日に長崎で起きた事件です。長崎にあるデパートの催事会場で、日中友好協会長崎支部の主催により、「中国切手、切り絵展示会」が開かれていたのです。会場の入り口には中国側の国旗が飾られていたのです。中国政府の国旗🇨🇳が飾られてたこと対して、台湾側は怒ったそうです。台湾の領事館も「日本と国府(台湾)との友好関係に悪影響を与える」と警告。


そして事件が起こりました。右翼団体に所属する日本人の青年が会場に展示された中国国旗を引きずり下ろして毀損キソンしたといいます。一応、警察は青年を逮捕しましたが、すぐ釈放されました。中国側は、警察の処理の仕方がけしからんと激怒したと言います。岸信介もそのことで中国から批判されましたが、岸は「法律的にアレを国旗として認めるわけじゃないから、釈放させるしかなかった」と回想しております。確かに刑法に外国国章損壊罪という罪があるのですが、その保護すべき国旗とはその国を象徴するものとして掲げられた公式の国旗のみなんですね。引きずり降ろされた旗は会場の装飾品であり、いわば運動会で使う万国旗みたいなもの。中国政府の正式な国旗ではないのですね。さらに中国とは国交もなかったので尚更でしょう。

さらに中国政府はこの事件が起こってすぐさま、社会党を選挙支援しただけでなく、日中貿易を全面的に停止する処置を取ったのです。第四次通商協定も破棄されたのです。この事件のすぐ後に総選挙(1958年5月22日)があったのですが、長崎国旗事件の影響はなく、自民党は大勝しました。

*1 『岸信介回顧録』(p365)より

* 参考文献
岸信介回顧録―保守合同と安保改定
岸 信介
広済堂出版
1983-01-01



岸信介証言録 (中公文庫)
中央公論新社
2014-11-21

安倍寛という人をご存知でしょうか。え、「トリック」、「ドラゴン桜」?言っておきますが俳優さんではありませんよw?あちらは阿部寛さん。勘違いならぬアベ違いですね。安倍寛は安倍晋三さんの父方のおじいさまです。安倍晋三さんの祖父といえば岸信介元総理を連想する方も多いかと思われますが、岸さんは母方のおじいさま。安倍寛は反戦の政治家で、大政翼賛会に入らず、軍部に抵抗した、気骨の政治家でした。

安倍寛は、山口県の日置村の出身で、安倍家は代々、醤油などの醸造業を営み、田畑や山林を多く持つ大地主だったそうです。安部寛のおじも県議を務めたと言います。今も安倍家のお墓が日置村にあり、近隣の住民がボランティアが墓を守っています。安倍寛は幼くして両親を亡くし、母の実姉が親代わりになったと言います。寛は勉学につとめ、東京帝国大学に入学。そして、日置村の村長を経て、おじが果たせなかった代議士になったのです。ちなみに村長さんになる前に、東京で会社を起こしたが、そちらはあまりうまくいかなった模様。

その人柄は「真面目で信念がある人。それと清廉潔癖。人望もあった。頭も良かったが、俺が俺がというタイプではなかった」とのこと。また美男子で、当時は高価だった三越製の背広や帽子を愛用するダンディーな人だったとのこと。また、地元の人が「安倍寛さんが、もし90歳まで生きていたら日本の政治が変わったくらいの方だった」というほど。それほど地元の人に慕われていたのです。


阿部寛は東京で結婚をしたが、子供を一人残して妻と離縁をしてしまいます・・・その子供というのが、のちの安倍晋太郎さん。一人息子と共に郷里に帰って以降、寛は生涯独身を貫いたと言います。

山口に戻り、1928年(昭和3年)に「金権腐敗打破」を叫んで普通選挙に立候補しましたが、落選。選挙の後、寛は学生時代に患った結核の再発。さらに結核も再発した上に、脊椎カリエスまで併発。当時の医療では脊椎カリエスは治せなかったと言います。寛は元々体が丈夫ではなく、学生時代には結核を患い、その後おたびたび寛の体を蝕んだのですね。

そんな状況の中、寛に村長になってくれと地元の住民が頼み込みます。日置村はその当時の村長、村議会が真っ二つに割れて抗争を繰り返す無政府状態だったのですね。そんな状況を変えたいということで、寛に村長になってほしいと。寛は言いました。「病床のままで良いか?」と。村民はもちろんOK。こうして寛は村長になったのです。それは1933年(昭和8)のこと。その時寛は33歳。安倍寛は日置村で療養生活をしながら村長の仕事をこなしました。しかし、その頃の日本は戦争の道を進んでいました。そして日本がゆっくりと破滅の道を歩んでいる。そんな状況に寛は耐えられなかったのでしょう。寛は1935年(昭和10)、村長をやりながら、山口県議選挙に出馬。見事当選。そして国政に出ようと思い、1937年(昭和12)の衆議院議員選挙に山口1区から無所属で出馬。貧富の格差への憤り、失業者対策の必要性や、農村の復興、大資本の批判を訴えたと言います。さらに軍部の暴走と、それに有効な手立ても打てない既成政党も批判したのです。そして見事初当選。

1942年(昭和十七)の衆議院銀選挙は、とても選挙と呼べないひどいものでした。大政翼賛会の時代で、軍部の横やりも入り、軍部に批判的な候補者は推薦をもらえない。逆に大政翼賛会の推薦をもらえた候補者は、官民あげての手厚い選挙支援され、軍事費から選挙資金が横流しされる有様。警察や特高による執拗な弾圧や嫌がらせがあったと言います。そんな状況で安倍寛は出馬。彼は軍部におもねることもなく戦争や時の東条内閣を批判したとので、非推薦の上、嫌がらせも受けたと言います。警察は24時間、寛をマークし、当時17歳だった息子の晋太郎まで執拗な質問をされたと言います。それで定数4の山口1区で四番目の滑り込み当選。

寛は地元の人に慕われた上に、理屈に合わないカネは突き返すような人でした。だからこそ地元の人たちは寛をなお尊敬し、逆境の中でも、寛を応援したのです。選挙で戦っている寛のために地元の人たちがおむすびを作ったなんて話もあったほど。

それにしてもなぜ、ここまで寛は自分の危険を顧みないで、戦争反対を訴えたのでしょう。地元の人がいうには、当時の軍部は下っ端の将校までが「日本を背負うのは俺だ。庶民は黙って俺たちについて来い」という雰囲気だったと。よくいえばリーダシップがあるといえますが、悪くいえば、思い上がりとも取れます。そんな状況に寛は我慢できなかったのでしょうね。そして終戦を迎えます。しかし、寛はこれまでの無理がたたり、体調を崩していたのです。そんな寛を意外な人物が見舞いに来たのです。岸信介元総理です。なぜ?安倍寛は三木武夫元総理と親しかったようですが、思想的に似ている三木ではなく、なぜ岸が?岸と安倍寛は思想的には正反対だし、接点もあまりないのに。

岸信介は国粋主義者のイメージがありますが、非常にマキャベリストであり、イデオロギーで人を判断する人間ではなかったのです。寛の主義主張はともかく、その高潔な人柄に惚れ込んでいたのかもしれません。のちに寛の息子の晋太郎と、岸信介の娘の洋子さんが結婚。晋太郎さんと洋子さんの間に生まれたのが、のちの安倍晋三さんというわけです。二人の結婚話が持ち上がった時、岸信介は「大津聖人(安倍寛)の息子なら心配ない」と述べたとか。

寛は戦後は日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死しました。惜しい人を無くしたなって。彼が病気せずにそのまま政治家になっていたら、本当に日本は変わっていたかもしれませんね。

*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05

よくネットで後藤田正晴さんが、生前に安倍晋三元首相を批判し、「安倍晋三だけは総理にしちゃいかん」といったと拡散されておりますが、結論から言えば、

そんなことは一切言っていません。ガセネタです。

後藤田さんが批判したのは菅直人元首相。後藤田さんは生前、「菅だけは絶対に総理にしてはいかん」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」とおっしゃっていたそうです。つまり、ネットでは菅直人さんのところを安倍晋三さんに変えられて、後藤田さんが「安倍だけは総理にするな」と言っていると広まってしまったのですね。

確かに運動家とか革命家は壊すのは得意かもしれないが、作ったり、みんなをまとめたりすることは不得手かもしれない。そういう意味では後藤田さんは慧眼ケイガンかもしれません。


後藤田さんが安倍元総理のことをどう思っていたのか、僕は知りませんが、安倍元総理の祖父である岸信介のことは、その能力を高く評価しておりました。ただ、戦争に対する反省がないという点は残念だったと。また、後藤田さんは、「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者が日本の首班になることに対しては疑問があったとのこと。

安倍晋三元総理を批判したのは、後藤田正晴さんではなく、父親の安倍晋太郎さんだとネットで言われております。安倍晋太郎はかつて晋三さんに「お前には政治家として最も大事な情がない」と言ったとか。まるで実の息子を政治家としてではなく、人間的にも嫌うような言い方ですね。ただ、こちらも本当かどうかはわからないです。安倍晋太郎は放任主義で、無理をして政治家になる必要はないし、好きなことをやった方がいいという考え方だったそうです。若き日の安倍晋三さんが政治に興味を持ち自分でやりたいと言い始め、それで安倍晋太郎さんが外務大臣になった時、安倍晋三さんに「秘書官になれ」といったとか。

ただ、安倍晋太郎さんと安倍晋三さんでは親子でも政治的スタンスは違うことは確か。安倍晋太郎さんは「オレは岸信介の娘婿はじゃない。安部寛の息子なんだ」が口癖で、戦時中に戦争に反対した父親の寛を誇りにしていたそうですし、安倍晋太郎はバランス感覚に優れ、強引なこととか、無理をするとか、自分の主張を強調することがなかったとのこと。強い人たちだけの味方では決してなかったし、かといって弱い人たちだけのことを考えていたわけでもない。全体を眺めながら舵取りをする政治家だったそうです。安倍晋太郎はタカ派の多い清和会のリーダーでしたが、右の考えに流されるタイプではなかったそうです。戦争を経験していることもあって、リベラルな考え方を持っていた。

また、安倍晋太郎さんは答弁で先の大戦について、このように述べられました。

「私もやはり、第二次大戦は日本を亡国の危機に陥れた、大変誤った戦争であると思っております。国際的にも、この戦争が侵略戦争であるという厳しい批判があるわけであります。政府としても、そうした批判に対しまして十分認識をして、これに対応していかなきゃならない。これがこれからの、そしてこれまで日本が歩んできた世界平和を求める基本的な姿勢でなければならぬし、今後ともそうでなければならない」(*1)


*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05



*1 『安倍三代』P164より





1 昭和の妖怪 岸信介
まもなく選挙です。今回の選挙はハロウィンの日にやるから、仮装して投票に行っても良いかという声も上がるほど。なんなら僕も仮装して投票にいこうかなwハロウィンといえばおばけの出る日。永田町の先生たちも、仮装する必要がないくらいw魑魅魍魎チミモウリョウの世界ですが、とりわけ妖怪ようかいで有名だったのは岸信介キシノブスケ元総理。

今日は妖怪と言われた岸信介元総理のお話です。

岸信介元総理は戦時中、東條英機トウジョウヒデキ内閣で商工大臣を務めていたのです。開戦の詔書ショウショにも閣僚の1人として副署もしたのです。岸はサイパン島を巡り戦局が緊迫キンパクする中で、岸はサイパンを最後の一線として決戦すべきだとし、東條と対立したのですね。これは、岸がすでに日本の敗戦を見通しており、一奥玉砕を考えた東條と心中をしたくないって考えていたのです。東條と対立したことが、岸にとって有利な材料になったのですね。戦後、A級戦犯として捕らえられても、釈放され、政治家として復活できたのです。

岸は『回顧録カイコロク』の中でこう語っております。

太平洋戦争が開始された時の国務大臣として、戦争の経過ならびに結果について重大な責任を感じている。多数の人命、財産を失い、日本国土を荒廃コウハイさせたことは、国民に対し申し訳ないとしか言いようがない


もちろん、岸はあの戦争を「追い詰められて戦わざるを得なかった」としながらも、戦争について責任を感じていることはさすがだなって。戦争を散々あおっておいて、戦後になって「自分は初めから戦争に反対していた」なんていう人間とは違うなって。

2 小選挙区制論者だった
岸信介元総理は小選挙区制論者でした。また、小選挙区制(※1)論者だったのです。世間では、小沢一郎さんが小選挙区制の言い出しっぺのようなイメージがありますが、違います。

岸信介が小選挙制度に変えたい理由は二つ。一つは政党の中の派閥を解消すること。もう一つは二大政党政治の実現。彼は日本に民主主義を根付かせるためには二大政党制が必要だと言い切っているのですね。

中選挙区(※2)だと、同じ選挙区に三人ないし五人が定員。そのため、同じ政党から複数の候補者を出すことが可能。すると同じ自民党から何人も立候補者が出て相討ちになる上に、知名度が高い人がどうしても有利になります。また、選挙にはお金がかかるので、当然党内の有力者から資金援助をしてもらう必要があります。

党内の有力者とは派閥のボスのこと。かつての田中角栄、福田赳夫、竹下登といった具合。そういった派閥のボスも党内の主導権争いをするためにも味方が欲しい。特に自民党の総裁選。だから、義理や恩を売るためにも、できるだけ面倒を見ようとする。また、新人を選ぶにしても、政治家としての資質よりも自分のいうことを聞くかどうかが優先される恐れもあると。そうなれば、政治は腐敗すると。しかし小選挙区になると候補者は一つの選挙区に一人。すると敵は他党の候補者だけになり、政策を純粋に訴えることができるし、腐敗フハイ堕落ダラクを防ぐことができる、というのが岸信介の考え。

また、小選挙区になると、ミニ政党が淘汰トウタされ、二大政党の時代になると。二代政党になれば、どちらの政党も常に政権担当の用意がなければならなくなるから、当然発言や行動にも責任を持つようになり、掲げる公約も実現可能な現実的なものにならざるを得ない、というのが岸信介の考え。




3 二大政党制論者だった
 また、岸信介元総理は保守政党と、政権交代可能な革新政党による二大政党を理想としていたのです。このため保守政党自身が社会保障制度を取り入れ、保守の支持基盤を左の方に広げる一方、革新政党も暴力主義や議会否定の思想に一線を引く国民政党に脱皮だっぴすべきだと岸は考えていたのです。つまり保守政党といえども勝ち組優先の政治をやってはダメということでしょう。

しかも、自民党の左は革新政党の一番右より左がちょうどいいとまで言い切っている。今で言えば、自民党の最左派は、立憲民主党や共産党で一番右寄りの政治家よりも左の方がいいということでしょう。時々、ネットで「アベちゃんや高市さんに反対する議員は自民党から出ていけ」みたいな意見も見られますが、それは岸信介元総理が望んでいないことだったのですね。むしろ、昔の自民党は極右から左までウィングが幅広くて、大変フトコロの深い政党だったのです。それでも、いざという時に協力できたのです。だからこそ、長年にわたって政権をになうことができたのです。逆に言えば、極右キョクウに固まれば固まるほど、自民党の良さや強みが消えてしまうような気がする。

日本に一党独裁イットウドクサイも必要だという意見もありますが、むしろ一党独裁は社会主義の国に多く、あのマルクスは議会を否定していて独裁をよしとしていたのです。それは共産党も同じこと。僕も以前に日本共産党に関する本を何冊か読ませていただいたのですが、恐ろしいくらいのトップダウンで、下の人は最高権力者に絶対逆らえないような雰囲気だそうです。もう話し合いなんてあったもんじゃない。岸信介はむしろ、そういったファッショには批判的で、議会主義の擁護、そして左右の独裁政治に対する防壁の役割を自民党や社会党に期待していたのです。実際、岸は自分の著書の中で、こう述べております。

「今日民主主義政治にはなお幾多の欠陥がありますけれど、われわれ人類が真に自由が確保せられ思想の自由、政治の自由、言論の自由、あらゆる意味の自由が確保せられるところの政治形態は、民主主義政治を置いてはないのであります。かつてあったファッショの国これはヒトラーであるとか、ムッソリーニという一独裁者の意思によって国民大衆の自由が認められない。しかして自由を確保するのは民主主義以外にないのであり、民主主義政治を完成させなければならない。

『岸信介 回想録』(P95)

ただ、小選挙区制にしても、二大政党制にしてもも、果たして岸信介の理想どうりになっているかは、現時点では???と思わざるを得ないですが、ともかく、色々と考えていた人なんだなって。




日本共産党 (新潮新書)
筆坂 秀世
新潮社
2006-04-15



3 社会党から立候補しようとした
岸信介元総理は社会党から立候補しようとしました。岸信介元総理というとタカ派のイメージが強いですが、戦前は革新官僚カクシンカンリョウで、内政の面では割とリベラルだったのです。実際岸信介内閣の時代に国民年金制度や最低賃金制などの社会保証制度が整えられましたし。池田内閣の所得倍増計画ショトクバイゾウケイカクだって、本当は岸信介の時代に構想コウソウされたそうです。

岸信介は


「元来が国の安全保障を確立し、治安を維持すると共に民生の安定、充実を図ることは、政治の基礎的勝つ終局の目標である。民生安定の手段として社会保障政策を志向することは、政治家としては当然やるべきこと」『岸信介回顧録』(岸信介著 P478より引用)


反共で憲法改正論者で、軍事力強化に熱心なのは間違いありませんが、一方で安保改正について後悔コウカイしている面もあったそうです。

新安保条約の調印直後に解散・総選挙をして国民の意思を聞いておくべきだったのに、自民党内の強い反対にって実現できなかったことである


岸信介元総理は数によるごり押しではなく、国民に民意を問う人だったんだなって。

また社会党にも岸信介元総理のような革新官僚から議員になった人もいたのです。かつての仲間もいるし、二大政党制を実現させるためにも社会党から出たいと思ったのかも。しかし、社会党内で反対意見も出て結局、岸信介元総理は保守政党から立候補したのです。

もし岸信介元総理が社会党から出ていたら、日本の歴史は変わっていただろうし、安倍晋三元総理が立憲民主党から立候補する可能性さえあったかも。


岸元総理が、首相引退後も佐藤、福田内閣をはじめ政界での影響力を持ち続け、妖怪ぶりを発揮したのです。若い世代に譲って自分は政治に口を出すのはまずいなって。今で言えば老害でしょう。とはいえ、政治家としては大変有能で昭和の大宰相ダイサイショウの1人であることは間違いありません。



※1 一つの選挙区から1名の議員を選出する制度の選挙区。死票が多くなり、多数党に有利で小政党には不利になりやすい。政権交代がしやすいが、多様な意見が汲み取りにくくなる恐れも。
*2 一つの選挙区から複数人(おおむね3人から5人)を選出する選挙制度。政党よりも人物本意で選ばれる傾向がある。小政党にも議席を獲得できるチャンスがある。





※参考サイト

http://jichisoken.jp/column/2016/column201608.htm

このページのトップヘ