history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

タグ:平泉


1 秀衡に対する頼朝の要求


源平の合戦で平家を倒した源頼朝みなもとのよりともは東北に目を付けました。けれど、イキナリ東北に攻めこんだりはしません。まずは東北のリーダーである藤原秀衡ふじわらのひでひらに圧力をかけてきます。

それは、陸奥むつ(東北)から都(京にいる朝廷ちょうてい)に献上けんじょう(※1)する馬と金は自分が仲介rt>ちゅうかいしよう」との手紙を秀衡ひでひらに送った事です。この書状を読んだ秀衡はおどろいたようです。なぜなら、奥州おうしゅう藤原家は(京都)の朝廷に馬や金を誰の仲介もなしに直接献上けんじょうをしていたのです。

そうやって朝廷と奥州藤原家は仲良くしてきたのですが、その間に源氏が横やりを入れてきたのです。これは秀衡を頼朝よりも下位に位置付けるもので、秀衡にとって大変失礼なことだそうです。

以前に大河ドラマの『ほむら立つ』を見たのですが、このドラマでも秀衡が頼朝からの手紙を見て、「頼朝のおそろしいまでの野望がすけてみえる」と言って、激怒げきどするシーンが出てきます。


それでも頭のいい秀衡は頼朝との争いをけるために、頼朝の言われるまま馬と金を鎌倉へ届けたようです。けれど、そうした頼朝の高圧的な態度に秀衡は鎌倉殿かまくらどの(頼朝)が東北にせめて来るぞ」と確信したようです。


そして、今度は源義経を差し出せと頼朝は秀衡に要求します。「義経は、頼朝の許可なく朝廷から官位を受けた、その罪状は重い。義経をかくまったものは朝敵とみなす」という主張です。すでに頼朝は、諸国に総追捕使そうついぶし、国地頭を設置する勅許をえていたのです。朝廷の認証を得ていた、つまり頼朝は朝廷の信頼を得ていたのです。頼朝に逆らうことは朝廷に逆らうのと同じみたいな図式がすでに出来上がっていたのです。

それでも、秀衡は頼朝の要求を拒否。秀衡も「けっきょく鎌倉殿は東北の地が欲しいのだ。もはや鎌倉殿との戦いは避けられなくなった」と思ったのかもしれません。「どうせ戦争になるのなら、戦のうまい源義経みなもとのよしつね殿を味方につけて、鎌倉殿と戦おう」と秀衡は思ったのかもしれません。

2 絶大な院宣いんぜんの効力 
 秀衡が亡くなった後、秀衡の後をついた藤原泰衡ふじわらやすひらに義経引き渡しを強く要求したのです。それでもなかなか聞き入れない泰衡に頼朝はしびれを切らします。それで、義経の身柄差出を命じる院宣を出すの院宣いんぜん(※2)をだしてくれと頼朝は後白河法皇にたのんだのですね。義経身柄拘束みがらこうそくの院宣に驚いた泰衡は義経を討ったのですね。このままでは自分が朝敵になったら大変だと思ったから。

軍勢を動かすには、高貴な人のおすみ付き、たとえば天皇や上皇のだした文書が不可欠でした。こうした天皇や上皇のお墨付きの文書がないまま、戦争を起こせば、それこそ朝敵になってしまいます。逆に言えば天皇や上皇のお墨付きをもらえば、暴力でもなんでも訴えてもよいのです。この時代、武士とはいえ、ほしいままに武力を行使こうしすることは許されなかったのですね。

義経の首を頼朝に泰衡は差し出しましたが、それで頼朝は東北侵略をあきらめません。今度は藤原泰衡追討の院宣をだせと後白河法皇ごしらかわほうおうに頼朝は迫ります。

しかし、後白河上皇は、藤原泰衡追討の院宣をだすのを渋っていたのですね、「理屈に合わない」ということで。はっきり言って藤原泰衡追討ついとうは頼朝の奥州征服が目的であることが見え見えでしたから。それでも頼朝は泰衡追討の院宣を待たずに、東北にせめて来たのですね。

その時入れ知恵をしたのが大庭景能おおばかげよしという人物。彼は頼朝に言いました。「そもそも泰衡は、源頼義みなもとのよりよし公の家臣だった藤原清衡の子孫。奥州藤原氏は源氏の家臣の家柄なのです。主人が家臣を討つのにどうして朝廷のお許しがひつようでしょうか」と。


3 奥州の地を手に入れたい

 平氏を討滅した源頼朝は、鎌倉政権を安定させるべく、潜在的せんざいてきに脅威である奥州藤原氏を打倒する必要がありました。頼朝はどうしても東北の地を手に入れたかったのです。

また、源平の合戦で領地りょうちをもらえなった武士たちに、広大な奥州の地を分け与えることができるし、東北でとれる金や馬(東北は馬の産地でもある)も頼朝にとって魅力的みりょくてきだったのでしょう。

そして何よりも頼朝いや源氏にとって東北の地は因縁いんねんの土地であったことも大きいのです。その因縁いんねんというのが、前九年・後三年の役ぜんくねん・ごさんねんのえきです。

前九年・後三年の役は人物の関係が複雑で僕もうまく説明できないのですが、どちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆こうりゅうした原点ともいえる戦いでもありました。源氏の東北への勢力拡大は源氏の先祖からの悲願でもあったようです。ご先祖様が成しとげられなかった東北征服せいふくを頼朝は成しとげたいと思ったのかもしれません?





※1お寺や仏像の修理などをするための寄付金きふきんを集める事
  • ※2 皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。 天皇の発する宣旨に相当する。 院庁下文よりも私的な形式。




  • ※ 参考文献





    あと、ウィキペディアも参考にしました。

    今日は平泉の史跡について、いろいろお話します。平泉の中尊寺のことは前回の記事で取り上げましたので割愛します。

    1 庭園が見事な毛越寺
    岩手県平泉いわてけんひらいずみにある毛越寺もうつうじについて。毛越寺といえば、みごとなのが庭園です。僕も生でこの庭園が見れて、感激しました。

    奥州藤原家おうしゅうふじわらけが理想とした極楽浄土ごくらくじょうどの風景を見た思いでした。毛越寺にはいくつもの伽藍がらん(※1)があったようですが、ほとんどの伽藍は火災などで無くなってしまったようです・・・・


    毛越寺には、シカの伝説があるようです。


    嘉祥かしょう3年(850)慈覚大師じかくだいしが東北に巡遊をしていたようです。慈覚が歩いているときに、あたりが白いきりおおわれたようです。あたりが真っ白で何も見えません。当然、慈覚大師はこまってしまいます。

    それで、慈覚大師がなにげに足元を見てみると、地面に白い毛が落ちていたようです。しかも、その白い毛があちこちに落ちていたのです。その白い毛を大師がたどってみると、大師の前方に白いシカがうずくまっていたのです。大師がシカに近くづくと、シカはとつぜん消えてしまい、かわりに、おじいさんが現れたようです。

    おじいさんは「この地にお寺を建てなさい」と大師に言い残しました。

    大師は「あの人は薬師如来様やくしにょらいさま化身けしんにちがいない」と思い、お寺を建てました。そのお寺を嘉祥寺かしょうじと名づけました。この嘉祥寺かしょうじこそ、毛越寺の前身です。

    嘉祥寺というお寺は毛越寺の境内けいだいにあったのですが、今はもう無くなっております。ちなみに、毛越寺の名前の由来は、大師がシカの毛をたどって山をこえた話が元になっているようですね。



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    嘉祥寺跡かしょうじあとの説明板)
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    嘉祥寺跡かしょうじあと
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    講堂跡こうどうあと
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    法華堂ほっけどうと旧・常行堂跡じょうぎょうどうあと
    ※ 他にも伽藍跡がいくつもあったのですが、写真をりそこなったためブログでご紹介しょうかいすることができませんでした。

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    (毛越寺の本堂)


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    (開山堂。毛越寺を開いた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)をまつる堂だそうです。藤原3代の画像も安置あんちしています。 )




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    (いづれも常行堂の写真。江戸時代に仙台藩主せんだいはんしゅ・伊達吉村(だてよしむら)の武運長久ぶうんちょうきゅう(※2)を願って再建されたものだそうです。




    2 無量光院跡むりょうこういんあとについて。

     調べによりますと、無量光院とは、藤原秀衡ふじわらのひでひらが京都にある宇治うじの平等院をまねして建立した寺院だったそうです。それが、たびたびの火災によって、無量光院も焼失しょうしつしてしまったそうです・・・

    そのため今は、無量光院は残っておりません。いまは礎石そせき(※3)と池のあとが残っております。かつての無量光院は、無量光院は本物の平等院よりも大きい建物だったというからオドロキです。


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    3 柳之御所
     柳之御所やなぎのごしょとは、奥州平泉おうしゅうひらいずみの政治の中心だったところです。

    なんでも 藤原清衡ふじわらのきよひら豊田館とよだのたち(奥州市)から平泉に移ってきて居館きょかん(※4)をかまえた所であり、3代秀衡が再整備を行ったとか。

    しかし、源頼朝みなもとのよりともが平泉にめてきたとき、藤原泰衡ふじわらのやすひらがみずから火を放ち、御所は燃えてしまったようです。

    いま柳之御所跡は広い公園なっております。僕もおとずれたのですが、柳之御所は本当に広い敷地しきちだったんだなって感心しました。

    柳之御所では発掘調査はっくつちょうさが行われ、おびただしい量の土器、木製の生活用具、金属製品、金塊きんかい陶磁器とうじきなど、貴重な遺物いぶつが見つかっておりますが、特に陶磁器は国産および中国産のものが多数、柳之御所跡から出土している点に僕は注目しております。これは奥州藤原氏が中国産の陶磁器を中国から輸入していること、さらに日本海海運と太平洋海運を介して、国産の陶磁器、たとえば、愛知県知多半島の常滑焼とこなめやき、熱海半島の渥美焼あつみやきなどを輸入していたのですね。

    奥州藤原氏が東北を支配できたのはその経済力にありました。金や馬だけでなく、こうした海外も含めた交易もしていたのですね。

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    ※1 寺院または寺院の主要建物ぐん
    ※2 武人としての命運が長く続くこと。 また、出征した兵がいつまでも無事なこと
    ※3 礎(いしずえ)となる石のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える石のこと。
    ※4 住まいとしているやかた。

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