今日は楠木正成のお話を。俳優の高橋英樹さんがご出演されている歴史番組で楠木正成を取り上げていまして、冒頭で若い女性アナウンサーが「足利尊氏は知っているが、楠木正成はあまりよく知らない」と。若い世代だとそうでしょうね。でも、ある程度年配の方だと楠木正成を知っている方も多いかと思います。戦前は教科書に取り上げられて、天皇を守った忠君とされていたのです。逆に足利尊氏が天皇に反逆した悪者だと言われていたのです。さらに戦時中、全国各地の小学校などに楠木正成の像、いわゆる楠公像が設置されたのですね。要するにお前たちも楠公のように天皇につくせということでしょう。戦前・戦中は皇国史観でしたからね。もっといえば紙幣の肖像画にも楠木正成は描かれていました。
それが戦後になって皇国史観が否定され、楠木正成はGHQから軍国主義の象徴として否定されたのです。学校にあった楠公像は撤去され、教科書でもまともに取り上げられなくなりました。だから楠木正成を知らないという若者がいても不思議じゃないのです。
しかし、楠木正成がタブー視されても人々の心に残りました。楠木のことは、絵本や歌舞伎の題材にもなりました。
千早城の戦いなどの楠木正成の活躍ぶりに、高橋英樹さんは子供心にワクワクして、穴まで掘ったと番組でおっしゃっていました。高橋英樹さんは1944年生まれで、戦後教育を受けた世代ですが、その世代でも楠木正成はよく知られていたのですね。
楠木正成は元々は河内にいた地方の武士で、地元の人々から慕われていたのです。平和な時代ならば、楠木正成は平凡で普通の暮らしだけど、幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、楠木がいた時代はまさに大乱世でした。時の天皇の後醍醐天皇が野心を抱き、幕府を倒そうとしていました。しかし兵をもたない天皇が強力な軍隊を持つ幕府に敵うはずがありません。そこで天皇が目をつけたのが楠木正成。
楠木正成が後醍醐に謁見すると、後醍醐は意外な話をするのです。後醍醐は「夢を見た」と。その夢の内容というのが、後醍醐が不思議な場所に来て、そこには大きな木があったというのです。しばらくすると2人の子供が出てきて、その子供たちが「陛下が座るところは、この木しかありません」と告げたと。その木は南側にあったのです。木という漢字と南という漢字をドッキングさせると「楠」という漢字になります。それで後醍醐は楠木こそ自分を助けてくれる人間だと神様が教えてくれたと思ったのでしょう。
その話を聞いた楠木は感激し、「少ない兵力でも知略を尽くせば、幕府に勝てる」と力強く後醍醐に言いました。
もっとも、この夢の話は「太平記」に出てきたことで、本当に後醍醐がこんな夢を見たかどうかはわかりません。おそらく、後醍醐があちこちの武士たちに声をかけたが断られ、たまたま楠木に声をかけたらOKしてくれたという話だと思います。
早速、楠木正成は後醍醐のために立ち上がりました。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に立て篭もり、幕府と戦ったのです。後醍醐に呼応して、楠木は河内の赤坂に城を築いて立て籠ったのです。しかし楠木に味方したは、わずか五百人。これに対し幕府は、鎌倉だけでなく、京にある出先機関の六波羅探題と合わせて数万の兵士を派遣したのです。その中には足利高氏もいたのです。高氏はこの頃は幕府側だったのです。結局、笠置山に立てこもった後醍醐は負けてしまい、隠岐に流されてしまいます。
一方の楠木は幕府の大軍相手に善戦をしたのです。赤坂城は山城だったのですが、城から丸太やら岩を落としたり、奇想天外なゲリラ戦で立ち向かったのです。最後に楠木は城に火を放ち、退散したのです。赤坂城が炎上し、幕府側は楠木が死んだと思ったのです。その後、1年間、楠木は身を隠していたのです。
しばらく身を隠していた楠木は再び兵をあげ北条勢が占領していた赤坂城を取り戻したのです。今度は金剛山に千早城をつくり、楠木軍は千早城に立てこもりました。死んだと思っていた楠木が現れたことに幕府は驚いたのです。さらに後醍醐天皇の息子の護良新王が吉野で挙兵。幕府は衝撃を受け、楠木正成と護良親王に賞金首をかけます。
金剛山は険しい山でそこに築かれた千早城は深い谷に囲まれた、守りの硬い山城でした。正成はヨロイを着せたワラ人形で敵をおびきよせ、上から石を落としたり、熱湯や、おしっこやウンチ💩wまで投げたと言います。ばっちいぃな。そうやって幕府の大軍を苦しめたのです。楠木正成がこのように籠城したのは自らが幕府軍に勝つためではなく、あくまで時間稼ぎ。全国に鎌倉幕府に不満を持っている武将たちはたくさんいる。自分達が粘り強く幕府と戦えば、そういった武将たちも反旗を翻すと。楠はそれを待っていたのです。
元弘3年(1333)には隠岐に流された後醍醐天皇は地元の豪族の力を借りて島を脱出。そして全国の武士たちに幕府討伐の綸旨を出したのです。それは幕府側にいた足利高氏にも声がかかりました。そして、綸旨を受けた足利高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻撃。同じ頃、新田義貞も鎌倉を攻撃。これで鎌倉幕府はほろんだのです。それから楠木正成は、天皇の護衛役を命じられたのです。
そして後醍醐天皇は自ら政治を行いました。いわゆる建武の新政です。しかし、あまりに性急な政治改革だった上に朝令暮改を繰り返したので、世の中は混乱し、人々の不満が高まったのです。さらに恩賞も公家には厚く、武士には薄くという不公平なものだったのです。これには武士たちも怒ったのですね。足利高氏は優遇された方で、尊氏という名前も後醍醐からもらったのです。が、後醍醐は尊氏を警戒し、征夷大将軍も護良親王に命じたほど。強力な軍事力を持つ尊氏が幕府を開くことを恐れたのです。
北条氏の残党を討伐するために尊氏は鎌倉に派遣されましたが、戦の後、京に戻らず、天皇の許可もなしに味方に恩賞を与えたのです。そのことに怒った後醍醐は、新田義貞を派遣し、尊氏を討伐しようとしたのです。それは建武2年(1335)のこと。
尊氏は新田軍を撃破、逃げる新田を追い京に上ったのです。しかし、大軍を率いて東北からやってきた北畠顕家の応援を得て、新田義貞、楠木正成らの軍勢が総攻撃。たまらず尊氏は九州に逃げ延びたのです。
延元元年(1336)、尊氏は西国の武士たちを味方につけた上に、光厳上皇から新田討伐の院宣を得たのです。光厳上皇は持明院統で大覚寺等の後醍醐とは対立していたのです。この上皇の院宣で尊氏は朝敵ではなくなったのです。そして、尊氏軍は京に登ろうとしたのです。後醍醐大ピンチです。
その時、正成は後醍醐に進言したのです。まず、天皇は都から離れると。海からやってくる尊氏を京に誘き寄せると。そのすきに正成たちが尊氏の水軍を攻撃し、補給をたつ。そして、都にいる尊氏を攻撃すると。しかし、その案を天皇は却下。天皇の側近、坊門清忠など公家たちが「帝が京を逃げたら対面が悪い」と批判したのです。公家たちは軍事を知らなかったのですね。
そして後醍醐は、新田と共に尊氏と戦えと命令するのですね。これはまさに負け戦。楠木正成にとって死刑宣告のようなもの。
死を覚悟した楠木正成は大阪の桜井にて息子に別れを告げたと言います。そして息子を母の元に帰したと言います。かくて新田一万騎と楠木700騎は、摂津の湊川付近で、尊氏の大軍と戦いましたが、この戦で楠木正成は戦死します。
実は楠木正成が世に出て活躍したのは5年くらいしかなく、彼の生い立ちなど詳細なことはわかっていないのですね。それでも、楠木正成の戦いぶりは後の世から高く評価され、人々に語り継がれて行ったのです。
それが戦後になって皇国史観が否定され、楠木正成はGHQから軍国主義の象徴として否定されたのです。学校にあった楠公像は撤去され、教科書でもまともに取り上げられなくなりました。だから楠木正成を知らないという若者がいても不思議じゃないのです。
しかし、楠木正成がタブー視されても人々の心に残りました。楠木のことは、絵本や歌舞伎の題材にもなりました。
千早城の戦いなどの楠木正成の活躍ぶりに、高橋英樹さんは子供心にワクワクして、穴まで掘ったと番組でおっしゃっていました。高橋英樹さんは1944年生まれで、戦後教育を受けた世代ですが、その世代でも楠木正成はよく知られていたのですね。
楠木正成は元々は河内にいた地方の武士で、地元の人々から慕われていたのです。平和な時代ならば、楠木正成は平凡で普通の暮らしだけど、幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、楠木がいた時代はまさに大乱世でした。時の天皇の後醍醐天皇が野心を抱き、幕府を倒そうとしていました。しかし兵をもたない天皇が強力な軍隊を持つ幕府に敵うはずがありません。そこで天皇が目をつけたのが楠木正成。
楠木正成が後醍醐に謁見すると、後醍醐は意外な話をするのです。後醍醐は「夢を見た」と。その夢の内容というのが、後醍醐が不思議な場所に来て、そこには大きな木があったというのです。しばらくすると2人の子供が出てきて、その子供たちが「陛下が座るところは、この木しかありません」と告げたと。その木は南側にあったのです。木という漢字と南という漢字をドッキングさせると「楠」という漢字になります。それで後醍醐は楠木こそ自分を助けてくれる人間だと神様が教えてくれたと思ったのでしょう。
その話を聞いた楠木は感激し、「少ない兵力でも知略を尽くせば、幕府に勝てる」と力強く後醍醐に言いました。
もっとも、この夢の話は「太平記」に出てきたことで、本当に後醍醐がこんな夢を見たかどうかはわかりません。おそらく、後醍醐があちこちの武士たちに声をかけたが断られ、たまたま楠木に声をかけたらOKしてくれたという話だと思います。
早速、楠木正成は後醍醐のために立ち上がりました。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に立て篭もり、幕府と戦ったのです。後醍醐に呼応して、楠木は河内の赤坂に城を築いて立て籠ったのです。しかし楠木に味方したは、わずか五百人。これに対し幕府は、鎌倉だけでなく、京にある出先機関の六波羅探題と合わせて数万の兵士を派遣したのです。その中には足利高氏もいたのです。高氏はこの頃は幕府側だったのです。結局、笠置山に立てこもった後醍醐は負けてしまい、隠岐に流されてしまいます。
一方の楠木は幕府の大軍相手に善戦をしたのです。赤坂城は山城だったのですが、城から丸太やら岩を落としたり、奇想天外なゲリラ戦で立ち向かったのです。最後に楠木は城に火を放ち、退散したのです。赤坂城が炎上し、幕府側は楠木が死んだと思ったのです。その後、1年間、楠木は身を隠していたのです。
しばらく身を隠していた楠木は再び兵をあげ北条勢が占領していた赤坂城を取り戻したのです。今度は金剛山に千早城をつくり、楠木軍は千早城に立てこもりました。死んだと思っていた楠木が現れたことに幕府は驚いたのです。さらに後醍醐天皇の息子の護良新王が吉野で挙兵。幕府は衝撃を受け、楠木正成と護良親王に賞金首をかけます。
金剛山は険しい山でそこに築かれた千早城は深い谷に囲まれた、守りの硬い山城でした。正成はヨロイを着せたワラ人形で敵をおびきよせ、上から石を落としたり、熱湯や、おしっこやウンチ💩wまで投げたと言います。ばっちいぃな。そうやって幕府の大軍を苦しめたのです。楠木正成がこのように籠城したのは自らが幕府軍に勝つためではなく、あくまで時間稼ぎ。全国に鎌倉幕府に不満を持っている武将たちはたくさんいる。自分達が粘り強く幕府と戦えば、そういった武将たちも反旗を翻すと。楠はそれを待っていたのです。
元弘3年(1333)には隠岐に流された後醍醐天皇は地元の豪族の力を借りて島を脱出。そして全国の武士たちに幕府討伐の綸旨を出したのです。それは幕府側にいた足利高氏にも声がかかりました。そして、綸旨を受けた足利高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻撃。同じ頃、新田義貞も鎌倉を攻撃。これで鎌倉幕府はほろんだのです。それから楠木正成は、天皇の護衛役を命じられたのです。
そして後醍醐天皇は自ら政治を行いました。いわゆる建武の新政です。しかし、あまりに性急な政治改革だった上に朝令暮改を繰り返したので、世の中は混乱し、人々の不満が高まったのです。さらに恩賞も公家には厚く、武士には薄くという不公平なものだったのです。これには武士たちも怒ったのですね。足利高氏は優遇された方で、尊氏という名前も後醍醐からもらったのです。が、後醍醐は尊氏を警戒し、征夷大将軍も護良親王に命じたほど。強力な軍事力を持つ尊氏が幕府を開くことを恐れたのです。
北条氏の残党を討伐するために尊氏は鎌倉に派遣されましたが、戦の後、京に戻らず、天皇の許可もなしに味方に恩賞を与えたのです。そのことに怒った後醍醐は、新田義貞を派遣し、尊氏を討伐しようとしたのです。それは建武2年(1335)のこと。
尊氏は新田軍を撃破、逃げる新田を追い京に上ったのです。しかし、大軍を率いて東北からやってきた北畠顕家の応援を得て、新田義貞、楠木正成らの軍勢が総攻撃。たまらず尊氏は九州に逃げ延びたのです。
延元元年(1336)、尊氏は西国の武士たちを味方につけた上に、光厳上皇から新田討伐の院宣を得たのです。光厳上皇は持明院統で大覚寺等の後醍醐とは対立していたのです。この上皇の院宣で尊氏は朝敵ではなくなったのです。そして、尊氏軍は京に登ろうとしたのです。後醍醐大ピンチです。
その時、正成は後醍醐に進言したのです。まず、天皇は都から離れると。海からやってくる尊氏を京に誘き寄せると。そのすきに正成たちが尊氏の水軍を攻撃し、補給をたつ。そして、都にいる尊氏を攻撃すると。しかし、その案を天皇は却下。天皇の側近、坊門清忠など公家たちが「帝が京を逃げたら対面が悪い」と批判したのです。公家たちは軍事を知らなかったのですね。
そして後醍醐は、新田と共に尊氏と戦えと命令するのですね。これはまさに負け戦。楠木正成にとって死刑宣告のようなもの。
死を覚悟した楠木正成は大阪の桜井にて息子に別れを告げたと言います。そして息子を母の元に帰したと言います。かくて新田一万騎と楠木700騎は、摂津の湊川付近で、尊氏の大軍と戦いましたが、この戦で楠木正成は戦死します。
実は楠木正成が世に出て活躍したのは5年くらいしかなく、彼の生い立ちなど詳細なことはわかっていないのですね。それでも、楠木正成の戦いぶりは後の世から高く評価され、人々に語り継がれて行ったのです。