history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

タグ:徳川家茂

徳川家茂のことは前回の記事で書きましたが、今日は家茂の苦労話を。家茂は上洛し、孝明天皇に謁見。孝明天皇は攘夷を命令します。家茂は困惑します。アメリカなどの諸外国とは条約を結んでいる上に、武力も圧倒的に向こうのほうが上。戦争を仕掛けるわけにはいかない。かといって、天皇の命に背くわけにもいかない。家茂がトランプのような人だったら、孝明天皇の要望も「条約を結んだんだからしょうがないだろ!ガタガタ言うな!」ってキッパリ断るのでしょうが、家茂は心優しい人。悩んだ末に、孝明天皇と攘夷の約束をしてしまいます。その時の家茂は、ストレスも溜まりまくりだろうな。ましてや家茂はいい人だから、自分の心の中にあるモヤモヤを出すタイプではなさそうだし。

そんな折、1863年5月10日、長州藩が下関の関門海峡にて勝手にアメリカの商船を攻撃してしまうのですね。そうしたら報復父してアメリカの軍艦が長州を攻撃、長州藩はボロ負けしてしまいます。世にいう下関戦争です。長州戦争での負け戦の情報を孝明天皇は知ったのでしょうね。それから孝明天皇は無理な攘夷は危険だと感じたのです。家茂は再び上洛します。その時、孝明天皇が家茂に行った言葉が、

「汝は朕が赤子。朕、汝を愛すること子の如し 汝 朕を親しむこと父の如くせよ その親睦の厚薄コウハク 天下挽回の成否に関係す。」


孝明天皇は家茂に「自分を父と思え」といったのですね。家茂と孝明天皇は義理の兄弟の関係なのに、父と思えと言う言葉を賜っている。それくらい、家茂を孝明天皇は信頼しているだなって。同時に攘夷もしなくて良いといってくれたのです。その慈愛に満ちた孝明天皇の言葉に家茂もほっとしたことでしょう。家茂は一旦将軍職をやめようとしたのですね。何があったのでしょう?結論から申し上げれば、内乱と諸外国の圧力に加え、幕府内の対立が重なり、家茂の神経はすり減らし、将軍の辞職を望んだのですね。内憂外患な状況はもはや家茂のキャパを超えてしまったのですね。同じ将軍でも北の将軍様だったら、こんな状況でも図々しくふんぞり返っていたでしょうが、家茂は心優しい人物だったから余計に悩んだでしょう。

当時は、倒幕運動も盛んで、諸外国の外圧も相当なものでした。幕府は諸外国より兵庫(神戸)の開港と通商条約締結を結ぶよう強く求められていたのです。幕府内ではこのことに意見が分かれていたのです。開港やむなしという意見と、開港はダメという意見。開港やむなしと言うのは幕府の幹部たち。開港はダメというのが当時の将軍後見人だった一橋慶喜。慶喜は将軍を凌ぐほどの力を持っていて、一会桑というグループを作っていたのです。一橋家、会津藩、桑名藩からなる一大勢力で、京都を拠点としておりました。一会桑は朝廷と強く結びついていたのです。幕府の幹部連中は朝廷をコントロールしようという考え方。つまり幕府は朝廷を下に見ていたのですね。一方の一会桑は朝廷の意向を第一に考えておりました。幕府の幹部連中と一桑会の対立に、家茂は板挟みになって心を痛めました。その時、家茂がいった言葉が、

「なんとも致呉候」

どうにでもしてくれ、という意味。とうとう朝廷に辞表を出し、将軍職に慶喜を譲ろうとしたのです。しかし、慶喜は家茂を説得し、家茂の将軍辞職を思い止まらせたのです。慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えたのでしょうね。

そして長州藩が幕府に立ち向います。家茂は大阪城に行き総大将として迎え討ちますが、突然、喉の痛みと胃腸の異常、そして足が腫れるのです。脚気です。家茂は虫歯が30本もあったくらい、甘いものが好きでした。家茂出陣の際にも甘いものが届けられたのです。糖分は脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させるのですね。それで症状が悪化したのです。孝明天皇は家茂の治療に自らの御典医を送ったものの、家茂は慶応2年(1866)7月20日に大阪城にて死去。将軍在位は8年9ヶ月、21歳の若さでした。家茂は若くしてなくなりましたが、幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いだのですね。バランスが良く、人との信頼関係を上手に築ける人物でした。逆に言えば調整型の人物。こういう人との信頼関係を作りつつ、ことに当たる政治家は平時はともかく激動の世には向かないのですね。戦後の政治家で言えば、竹下登元首相や羽田孜元総理みたいな方でしょうか。特に羽田元首相は金丸信から「平時の羽田」(*1)と言われたくらいですから。激動の世には吉田茂のような強いリーダーシップが必要なのですね。しかし、大変慕われていたリーダーであることは間違いなく、勝海舟は、家茂の死を持って「幕府の終わり」とつぶやいたほど。

*1 ちなみに金丸は「平時は羽田、乱世は小沢(一郎)、大乱世は梶山(静六)」といった

徳川家茂は14代将軍です。徳川将軍の中では知名度は高い方ではありません。和宮の夫といった方がわかりやすいくらい。和宮は有名ですからね。しかし、家茂はなかなかの名君で、かの徳川吉宗の再来だと言われたほどで、「天授の君」とも言われました。天授とは天がこの世に授けた人という意味。すごい絶賛ですよね。また、勝海舟は滅多に人を褒めない人ですが、家茂のことはベタ褒め。徳川家茂が将軍に就任したのは、わずか13歳。

家茂は子供の頃から、好人物だったと言います。家茂は弘化こうか三年(1846)
に紀州藩朱の嫡男として生まれます。幼名を菊千代と言いました。が、父の死去で、わずか菊千代は4歳で紀州藩主になります。菊千代には浪江という教育係の女がいました。浪江は厳しくも、優しく菊千代を育てたと言います。彼女の教育があって菊千代のリーダーとしての資質が磨かれたのですね。6歳になった菊千代は12代将軍徳川家慶へ謁見えっけんすることになったのです。江戸城登城の際、浪江は菊千代に「謁見の際、お泣きになられてはなりませぬ」と言ったのです。しかし、謁見の場の重々しい雰囲気に菊千代は号泣。無理もありません。菊千代は藩主とはいえ、まだ6歳ですから。見かねた家慶は「好きなものでなだめすかし、遊ばせよ」と言い、小鳥を菊千代のために将軍自らプレゼントしてくれたのです。菊千代は鳥や虫が大好きだったのです。そして、江戸の紀州藩の屋敷に戻った菊千代は浪江の顔を見るなり「浪江、泣いたよ」と正直に答えたと言います。誠実な人柄がうかがえます。

菊千代は将軍の家慶から「慶」の名をたまわり、徳川慶福トクガワヨシトミと改めました。そして藩主として恥じないよう、毎日手習のため筆をとり、論語などを素読、剣術の稽古も熱心にやったと言います。慶福は将軍になって名前を家茂と改めてからも、こうした真面目さは変わらなかったと言います。

将軍になった家茂は、学問を好み、養賢閣ヨウケンカクという学問所を作りました。これは小姓や役人たちが学問を学ぶための施設です。自ら学ぶだけでなく、周辺の人材のレベルアップも図ろうとしたのですね。

また、家茂の良い人のエピソードといえば、こんな話があります。家茂は戸川安清トガワヤスズミに書道を習っていたのですが、ある日、家茂がいきなり戸川の頭に水をかぶせ、手を打って笑い出すと、その場を去ってしまったのですね。いたずら好きな将軍様だと思うでしょ?違うんですね。その場にいた家臣が戸川を心配すると、戸川は「私のために」と泣き出してしまったのです。いぶかる家臣。実は戸川は高齢で、今風にいえばトイレが近くなっていたのですね。この日もがまん出来ず、その場で失禁をしてしまったのですね。失禁とはおもらしのこと。将軍の前で粗相をしたら大変です。それこそ流罪か切腹かというレベル。それを察した家茂は、機転をきかせ戸川の失禁を隠すために水をかけ、イタズラをするフリをしたのですね。将軍様が自ら戸川を庇えば、家臣だって処罰したくても手出しができませんね。いい人ですね。

そして、元服した家茂は和宮と結婚する運びになりました。これは政略結婚です。当時の幕府は、外は欧米の圧力、そして内は倒幕運動の盛り上がりと、内憂外患ナイユウガイカンでした。その状況を打破しようと、幕府は皇女との婚礼を画策。いわゆる公武合体です。家茂と年齢が近いということで孝明天皇の妹の和宮が選ばれました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウというフィアンセがいたのですね。さらに当時の江戸は、鬼のような外国人がウジャウジャいる怖いところと信じられていたのです。だから和宮はこの婚約話を当初は強く拒否。しかし、

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」



という句を残しました。これは兄のため、民衆のため、この婚約を受け入れるという意味の句です。文久元年(1861)、和宮は京を発ちます。その輿入れ行列は総勢1万人以上だったというから、かなり大掛かりな行列だったことがうかがえます。翌年の文久2年に家茂と和宮の婚礼の儀がおこなわれます。この時二人の年齢は17歳。しかし和宮の苦難は始まったばかり。和宮は大奥に入ることになりました。大奥はよく言えば女の園。悪く言えば伏魔殿。しかも、武家のしきたりと皇族のしきたりは全然違います。和宮が大奥の人間から意地悪をされるのは火を見るより明らかでした。しかも和宮が京から連れてきた女官と、大奥の古株連中がバトルをする有様。和宮にとって辛い毎日です。そんな和宮に寄り添ったのが夫の家茂。家茂は、和宮に優しい声をかけたり、公務の合間に金魚バチなどさまざまな贈り物をあげたり、いろいろと配慮したのですね。優しいですね。これは家茂が和宮を大事にすることで幕府と朝廷の関係をよくしようという思いもあったかもしれませんが、家茂自身が和宮を愛していたからだと思います。そうした家茂の優しさに次第に和宮の心を開かせたのです。

しかし、世は幕末。動乱の時代。二人の平和な日々を脅かしていくのです。1863年、家茂は上洛をします。当時の京都は、現在みたいな観光地ではなく、尊王攘夷派が暴れ回る大変危険な場所でした。そんな危ないところをあえて出向いたのですね。将軍の上洛は三代将軍家光以来229年ぶり。それくらい幕府はあせっていたのでしょうね。そして家茂は義理の兄である孝明天皇にも謁見。孝明天皇は和宮の様子を訪ねたり、外国船を打ち払えと攘夷を命じたり。そんな最中、京にいる家茂のもとに和宮から手紙が来たと言います。

「寒さ厳しい中、無事着いたとのことを聞き、安堵しております。私は一時期、痘瘡トウソウができ困ってしまいました」と。

すると家茂は返礼を出しました。

「贈ってくれた見事な菓子を慰めとし、鬱情ウツジョウを晴らしております。痘瘡ができたのこと、難儀であったこととお察しします」

と和宮の病気を気遣う様子も伺えます。実は家茂は甘党でお菓子が大好き。和宮は家茂のために、そうした配慮もしたのですね。仲の良さが伺えます。家茂は21歳の若さで亡くなるのですが、その亡骸は和宮の元に届きます。一緒に届けられたのが、西陣織の反物。かつて和宮が家茂におねだりしたものです。家茂は買ってくれたのですね。悲しみに暮れる和宮が読んだ句がこちら。


「空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ」



和宮は立派な着物も、君(家茂)がいてこそと読んだのですね。夫を失った悲しみが伝わります。夫を失った和宮は京に戻らず、そのまま江戸に止まり、徳川の女として幕府を守ったのです。幕府を滅ぼそうと、朝廷の総大将になんと元フィアンセの有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウ。和宮は熾仁親王に手紙を何度も書き、幕府攻撃を思い止まらせたと言います。そして、明治10(1877)8月に和宮は亡くなります。和宮の亡骸は増上寺に葬られ、夫の家茂の隣に和宮の墓があります。和宮は亡くなる時写真を抱いておりまして、その写真がぼやけて誰だかわからないのですね。熾仁親王という説もありますが、家茂の可能性の方が遥かに高いと思われます。

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(いづれも関門海峡あたりにある大砲。奇しくも壇ノ浦の合戦のあった場所と同じ場所。関門海峡辺りは争いごとがおこる因縁なのかな?)

* この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

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