1 実は名君だった吉良上野介
吉良上野介は『忠臣蔵』では意地が悪くて、ワイロ好きな爺さんという悪いイメージがありますが、実際の吉良上野介はもっと違くて、地元では名君だといわれております。黄金堤という堤防をつくって水害から守ったり、新田開発を積極的に行いました。上野介の妻の富子の名前にちなんで富好新田という新田もつくったほど。また上野介は家族思いであり、妻の富子だけでなく、仕事の合間をぬって幼い娘たちに手紙もおくったほど。その手紙は子供でも読みやすいように、仮名文字だったと。優しい父親だったのですね。
また吉良家は由緒ある名家で、清和源氏足利氏の流れを汲んでおり、室町時代には「御所(将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われていたほど。なんと、今川家よりも吉良家のほうが家柄としてはランクが上だったのですね。今川家といえば戦国時代、今川義元が有名ですね。
吉良家は江戸時代には高家と呼ばれ優遇されたのです。高家とは江戸幕府における儀式や典礼を司る役職でした。いわば幕府の渉外部といったところでしょうか。身分は旗本なので低かったもの、天皇とか朝廷の人間と謁見する機会が多いので、総じて官位は高かったのです。たとえば吉良上野介は4200石の旗本でありながら、従四位上と下手な大名よりも身分が高かったのです。従四位上とはなんと仙台藩伊達家や薩摩藩島津家と同格です。すごいですね。
高家は室町時代から続く名門じゃないになれないのです。高家といえば、吉良家だけでなく、織田信長の子孫である織田家や武田信玄の子孫の武田家、あと今川家とかもそうです。あと高家の大事な役目といえば儀式儀礼の指南、つまり今でいうマナー講師です。特に吉良上野介の父は吉良流という儀式儀礼を確立させ、その父から上野介は儀式儀礼を徹底的に叩き込まれ、高家肝煎と呼ばれるほど儀式に精通していたのですね。
また吉良上野介の長男、綱憲は上杉家の養子となって上杉家の家督を継ぎ、さらに綱憲は紀州徳川家の栄姫と婚約。つまり吉良家と徳川家は遠いながらも親戚なのですね。だから幕府の信頼も厚かったのです。
2 マナー講師だった吉良上野介
諸大名は饗応役という朝廷の使者をもてなす役を務めるのですが、諸大名は高家の指導を受けるのが習わしとなっていて、どんな大大名でも低頭して高家に教えをうけていたのです。教えを受けた大名は高家に相応の謝礼を払うのが武家社会の常識だったのですね。いまでいえば月謝です。宇和島藩の伊達家は金銀だけでのなく狩野派の絵まで吉良に贈ったとか。逆に浅野家は小判二枚とカツオ節だけだったので、それで上野介はカンカンに怒って、それから意地悪をするようになったってドラマで描かれております。
実際、文献でもほかの諸大名は吉良に金品を贈ったのに浅野内匠頭は、そういった金品を贈ることを嫌い頑として吉良に贈らななかった書いてあるのですね。内匠頭はワイロだとおもったのかもしれませんが、吉良からみたら、浅野はワイロどころか月謝を滞納したようなものです。悪いことに吉良家もお金に困っていたから、謝礼の未払いをされると非常に困るのですね。さらに、饗応役に任命された大名は接待費用を自費で負担しなくてはなりません。本来は幕府が払うべきなのですが、幕府は一切そんなことはしてくれません。これは大名にとって痛手ですよね。
浅野は700両、今のお金で7千万円しか出せないと主張。7千万なんてでかい金額ですね。接待にそれだけ使うなんて、いくら相手が朝廷とはいえ、すごいです。しかし、吉良は高家としての経験から1200両は必要だと主張。1200両とは現代の金額にすると、なんと1億2千万円。ひえーって言いたくなりますね。いくら朝廷が相手とは言え、一億もかかる接待ってどんだけって思いたくなります。これじゃあ浅野も拒否りたくなります。
そんな浅野の態度に吉良が腹を立て、浅野にたいして厳しい態度をとったのかもしれません。また、吉良からすると大事な儀式儀礼を台無しにしたくないから、大名たちに厳しく指導したのでしょうね。しかし、指導を受けた大名たちにはパワハラとしか映らなかった。実際、吉良はほかの大名からの評判が悪く、刃傷事件のあとも吉良ではなく、浅野に同情した大名もいたのですね。
悪いことに浅野内匠頭も短気な性格なうえ、痞え、現在でいう自律神経失調症だったのですね。実際、饗応の役をやった当日も薬を飲んでいたという記録があるほど。朝廷への接待のことで緊張からくるストレスもたまっていたのですね。それで、日頃、吉良のことを不満に思っていたのが、何かの拍子で浅野はカーっとなって突発的に斬りつけたのかなと。
3 仮名手本忠臣蔵
吉良は刃傷事件のあと退職願をだします。幕府はその退職願を受理。そして吉良の屋敷ははじめは江戸城近くの呉服橋にあったのですが、江戸の場末の本所へ引っ越せと幕府は吉良に命じたのです。なぜ幕府は吉良に引っ越しを命じたのか。それには謎が多いのですが、実は浅野家の家臣たちが主君の仇をとるべく、吉良の首を狙っているのではないかというウワサが幕府はもとより町人の間でも広まっていたのですね。呉服橋なら浅野家の家臣たちが襲撃しても江戸城の近くなので、それを防ぐことができますが、本所ではそれを防ぐのが難しい。が、本所なら守りも薄く攻めやすい。これは幕府が浅野の家臣たちにかたき討ちを仕向けているとも解釈できるのですね。赤穂浪士の襲撃の噂は、当然吉良の耳にも届いていたので、吉良も自宅の警備を固め、吉良が日頃つきあっている職人や商人のなかにも、浅野のスパイじゃないかって目を光らせたほど。
これは綱吉が下した浅野内匠頭即日切腹があまりに早急で、吉良に対して何のお咎めがないのは不公平だという声が、世間どころか、幕府の中でも疑問にもつ者が少なくなかったのですね。現在の感覚だと、吉良は浅野に斬られても何も抵抗しなかったし、むしろ被害者ですが、この時代の価値観はケンカ両成敗で、いきなり斬りつけた浅野も悪いが、その原因は吉良にもあるのだから、吉良も責任をとれというのが、この時代の考え方なんですね。
それで世間の評判を気にした綱吉が、吉良に急に冷たい態度をとったのですね。ましてや、綱吉は生類憐みの令をだしていたから、幕府への不満を持つものもが多かったのです。庶民は幕府の不公平な裁定の被害者という認識で、浅野に同情的でした。
それで、これ以上幕府の評判を落とさないために、上野介を見捨てたのですね。支持率が落ちまくって、人気を取ろうと、小手先だけの人気取りを行う総理大臣と同じですね。たぶん、幕府に対する庶民への不満を吉良に向けさせたのですね。そうやって吉良を悪者に仕立て上げたのでしょう。それで上野介も捨てられたのだから、気の毒だなって。
そして大石率いる赤穂浪士が見事に吉良を討ち取ると庶民たちは拍手喝采。赤穂事件をもとにした浄瑠璃や歌舞伎が上演されるようになったのです。ただし赤穂事件のあらましをそのまま上演すると幕府からお咎めがあるので、物語の舞台を南北朝に置き換えて上演されたのですね。吉良上野介を足利尊氏に仕えた高師直に置き換えたのです。高師直は色男で、塩治判官の奥さんに不倫をしようとしたのですね。それに怒った判官は高師直に斬りつけるのですが、高師直は時の権力者の尊氏に近いこともあって、お咎めなし。判官のほうが切腹され、御家も断絶したのです。この構図が赤穂事件とにているということで、この話をベースに物語が作られたのです。そして大星由良之助(*1)という架空の人物を付け加え、大星とその同志たちが高師直をやっつけるというプロットになっております。そうしてできたのが『仮名手本忠臣蔵』。こうした芝居を上演するたびに、庶民の間にますます吉良が悪者だと刷り込まれてしまうのです。
史実からみたら、大石のほうがテロリストで、吉良のほうがいい人なのですが、芝居を面白くするためにも吉良が悪者でなくてはならないのですね。芝居とか映画は勧善懲悪で悪者と正義の味方がはっきり区別しているほうが見ているほうはわかりやすいですからね。『ああ野麦峠』の映画だって、原作は製糸工場の厳しい事情も書かれているのに映画では一方的に製糸工場のほうが悪者になっていて、逆に映画を見た製糸工場の元工女さんたちからクレームがくるほど。
4 明治になって益々吉良が悪者に
明治時代になると、赤穂浪士たちは国家的に利用されたのですね。明治政府は天皇を中心に中央集権国家を構築し、欧米に立ち向かおうとしていました。主君のために命を投げ出す四十七士の生きざまは国家にとって都合がよかったのです。彼らを称賛し模範とすることで、国家のために戦う人間を育もうとしたのです。学校教育でも忠臣蔵が盛り込まれたほど。また、明治政府は江戸幕府に否定的です。その江戸幕府にある意味逆らった四十七士は明治政府からみたらまさに英雄です。だから明治から昭和の初期までは、吉良は完全に悪者になって、赤穂浪士の悪口を言うやつは不届きものみたいな空気があったようです。こうなると益々吉良が悪者になってしまいます。
もっとも太平洋戦争がはじまると話が変わってきます。軍部は赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強くなったのですね。それで、歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたのです。おそらく、昭和初期に2・26事件とかいろいろ政府の要人が殺される事件が起こり、そんな事件が今後起こっては困るというののが当時の軍部のお偉いさん方の頭にあったのかもしれない。
*1 判官の家老という設定
*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。
吉良上野介は『忠臣蔵』では意地が悪くて、ワイロ好きな爺さんという悪いイメージがありますが、実際の吉良上野介はもっと違くて、地元では名君だといわれております。黄金堤という堤防をつくって水害から守ったり、新田開発を積極的に行いました。上野介の妻の富子の名前にちなんで富好新田という新田もつくったほど。また上野介は家族思いであり、妻の富子だけでなく、仕事の合間をぬって幼い娘たちに手紙もおくったほど。その手紙は子供でも読みやすいように、仮名文字だったと。優しい父親だったのですね。
また吉良家は由緒ある名家で、清和源氏足利氏の流れを汲んでおり、室町時代には「御所(将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われていたほど。なんと、今川家よりも吉良家のほうが家柄としてはランクが上だったのですね。今川家といえば戦国時代、今川義元が有名ですね。
吉良家は江戸時代には高家と呼ばれ優遇されたのです。高家とは江戸幕府における儀式や典礼を司る役職でした。いわば幕府の渉外部といったところでしょうか。身分は旗本なので低かったもの、天皇とか朝廷の人間と謁見する機会が多いので、総じて官位は高かったのです。たとえば吉良上野介は4200石の旗本でありながら、従四位上と下手な大名よりも身分が高かったのです。従四位上とはなんと仙台藩伊達家や薩摩藩島津家と同格です。すごいですね。
高家は室町時代から続く名門じゃないになれないのです。高家といえば、吉良家だけでなく、織田信長の子孫である織田家や武田信玄の子孫の武田家、あと今川家とかもそうです。あと高家の大事な役目といえば儀式儀礼の指南、つまり今でいうマナー講師です。特に吉良上野介の父は吉良流という儀式儀礼を確立させ、その父から上野介は儀式儀礼を徹底的に叩き込まれ、高家肝煎と呼ばれるほど儀式に精通していたのですね。
また吉良上野介の長男、綱憲は上杉家の養子となって上杉家の家督を継ぎ、さらに綱憲は紀州徳川家の栄姫と婚約。つまり吉良家と徳川家は遠いながらも親戚なのですね。だから幕府の信頼も厚かったのです。
2 マナー講師だった吉良上野介
諸大名は饗応役という朝廷の使者をもてなす役を務めるのですが、諸大名は高家の指導を受けるのが習わしとなっていて、どんな大大名でも低頭して高家に教えをうけていたのです。教えを受けた大名は高家に相応の謝礼を払うのが武家社会の常識だったのですね。いまでいえば月謝です。宇和島藩の伊達家は金銀だけでのなく狩野派の絵まで吉良に贈ったとか。逆に浅野家は小判二枚とカツオ節だけだったので、それで上野介はカンカンに怒って、それから意地悪をするようになったってドラマで描かれております。
実際、文献でもほかの諸大名は吉良に金品を贈ったのに浅野内匠頭は、そういった金品を贈ることを嫌い頑として吉良に贈らななかった書いてあるのですね。内匠頭はワイロだとおもったのかもしれませんが、吉良からみたら、浅野はワイロどころか月謝を滞納したようなものです。悪いことに吉良家もお金に困っていたから、謝礼の未払いをされると非常に困るのですね。さらに、饗応役に任命された大名は接待費用を自費で負担しなくてはなりません。本来は幕府が払うべきなのですが、幕府は一切そんなことはしてくれません。これは大名にとって痛手ですよね。
浅野は700両、今のお金で7千万円しか出せないと主張。7千万なんてでかい金額ですね。接待にそれだけ使うなんて、いくら相手が朝廷とはいえ、すごいです。しかし、吉良は高家としての経験から1200両は必要だと主張。1200両とは現代の金額にすると、なんと1億2千万円。ひえーって言いたくなりますね。いくら朝廷が相手とは言え、一億もかかる接待ってどんだけって思いたくなります。これじゃあ浅野も拒否りたくなります。
そんな浅野の態度に吉良が腹を立て、浅野にたいして厳しい態度をとったのかもしれません。また、吉良からすると大事な儀式儀礼を台無しにしたくないから、大名たちに厳しく指導したのでしょうね。しかし、指導を受けた大名たちにはパワハラとしか映らなかった。実際、吉良はほかの大名からの評判が悪く、刃傷事件のあとも吉良ではなく、浅野に同情した大名もいたのですね。
悪いことに浅野内匠頭も短気な性格なうえ、痞え、現在でいう自律神経失調症だったのですね。実際、饗応の役をやった当日も薬を飲んでいたという記録があるほど。朝廷への接待のことで緊張からくるストレスもたまっていたのですね。それで、日頃、吉良のことを不満に思っていたのが、何かの拍子で浅野はカーっとなって突発的に斬りつけたのかなと。
3 仮名手本忠臣蔵
吉良は刃傷事件のあと退職願をだします。幕府はその退職願を受理。そして吉良の屋敷ははじめは江戸城近くの呉服橋にあったのですが、江戸の場末の本所へ引っ越せと幕府は吉良に命じたのです。なぜ幕府は吉良に引っ越しを命じたのか。それには謎が多いのですが、実は浅野家の家臣たちが主君の仇をとるべく、吉良の首を狙っているのではないかというウワサが幕府はもとより町人の間でも広まっていたのですね。呉服橋なら浅野家の家臣たちが襲撃しても江戸城の近くなので、それを防ぐことができますが、本所ではそれを防ぐのが難しい。が、本所なら守りも薄く攻めやすい。これは幕府が浅野の家臣たちにかたき討ちを仕向けているとも解釈できるのですね。赤穂浪士の襲撃の噂は、当然吉良の耳にも届いていたので、吉良も自宅の警備を固め、吉良が日頃つきあっている職人や商人のなかにも、浅野のスパイじゃないかって目を光らせたほど。
これは綱吉が下した浅野内匠頭即日切腹があまりに早急で、吉良に対して何のお咎めがないのは不公平だという声が、世間どころか、幕府の中でも疑問にもつ者が少なくなかったのですね。現在の感覚だと、吉良は浅野に斬られても何も抵抗しなかったし、むしろ被害者ですが、この時代の価値観はケンカ両成敗で、いきなり斬りつけた浅野も悪いが、その原因は吉良にもあるのだから、吉良も責任をとれというのが、この時代の考え方なんですね。
それで世間の評判を気にした綱吉が、吉良に急に冷たい態度をとったのですね。ましてや、綱吉は生類憐みの令をだしていたから、幕府への不満を持つものもが多かったのです。庶民は幕府の不公平な裁定の被害者という認識で、浅野に同情的でした。
それで、これ以上幕府の評判を落とさないために、上野介を見捨てたのですね。支持率が落ちまくって、人気を取ろうと、小手先だけの人気取りを行う総理大臣と同じですね。たぶん、幕府に対する庶民への不満を吉良に向けさせたのですね。そうやって吉良を悪者に仕立て上げたのでしょう。それで上野介も捨てられたのだから、気の毒だなって。
そして大石率いる赤穂浪士が見事に吉良を討ち取ると庶民たちは拍手喝采。赤穂事件をもとにした浄瑠璃や歌舞伎が上演されるようになったのです。ただし赤穂事件のあらましをそのまま上演すると幕府からお咎めがあるので、物語の舞台を南北朝に置き換えて上演されたのですね。吉良上野介を足利尊氏に仕えた高師直に置き換えたのです。高師直は色男で、塩治判官の奥さんに不倫をしようとしたのですね。それに怒った判官は高師直に斬りつけるのですが、高師直は時の権力者の尊氏に近いこともあって、お咎めなし。判官のほうが切腹され、御家も断絶したのです。この構図が赤穂事件とにているということで、この話をベースに物語が作られたのです。そして大星由良之助(*1)という架空の人物を付け加え、大星とその同志たちが高師直をやっつけるというプロットになっております。そうしてできたのが『仮名手本忠臣蔵』。こうした芝居を上演するたびに、庶民の間にますます吉良が悪者だと刷り込まれてしまうのです。
史実からみたら、大石のほうがテロリストで、吉良のほうがいい人なのですが、芝居を面白くするためにも吉良が悪者でなくてはならないのですね。芝居とか映画は勧善懲悪で悪者と正義の味方がはっきり区別しているほうが見ているほうはわかりやすいですからね。『ああ野麦峠』の映画だって、原作は製糸工場の厳しい事情も書かれているのに映画では一方的に製糸工場のほうが悪者になっていて、逆に映画を見た製糸工場の元工女さんたちからクレームがくるほど。
4 明治になって益々吉良が悪者に
明治時代になると、赤穂浪士たちは国家的に利用されたのですね。明治政府は天皇を中心に中央集権国家を構築し、欧米に立ち向かおうとしていました。主君のために命を投げ出す四十七士の生きざまは国家にとって都合がよかったのです。彼らを称賛し模範とすることで、国家のために戦う人間を育もうとしたのです。学校教育でも忠臣蔵が盛り込まれたほど。また、明治政府は江戸幕府に否定的です。その江戸幕府にある意味逆らった四十七士は明治政府からみたらまさに英雄です。だから明治から昭和の初期までは、吉良は完全に悪者になって、赤穂浪士の悪口を言うやつは不届きものみたいな空気があったようです。こうなると益々吉良が悪者になってしまいます。
もっとも太平洋戦争がはじまると話が変わってきます。軍部は赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強くなったのですね。それで、歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたのです。おそらく、昭和初期に2・26事件とかいろいろ政府の要人が殺される事件が起こり、そんな事件が今後起こっては困るというののが当時の軍部のお偉いさん方の頭にあったのかもしれない。
*1 判官の家老という設定
*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。