1 アジア初のIOCの一員だった嘉納治五郎かのうじごろう

 以前、「歴史秘話ヒストリア」で嘉納治五郎(かのうじごろう)の事を取り上げられていました。嘉納治五郎のことは昔「知ってるつもり」という歴史番組でも取り上げていたから、僕も名前だけは知っていました。

柔道じゅうどうの神様・嘉納治五郎も若いころはいじめられっ子のインテリ学生でした。しかし、「なにくそ負けてたまるかという気持ちから柔術じゅうじつを習い、やがて勝ち負けよりも精神をきたえる事を重要視した柔道をつくり上げたそうですね。

嘉納治五郎が日本にオリンピック招致活動しょうちかつどうをしたのは「ヒストリア」で初めて知りました。それと、嘉納治五郎がオリンピックの父・クーベルタンとも交流があった事も知らなかったです。治五郎がアジア初のIOC(※1)の一員になれたのもクーベルタンの働きかけがあったからだそうです。

※1 国際オリンピック委員会


2 運悪く戦争の時代だった・・・


 明治45年に開かれたストックホルム・オリンピックに日本は初参加しました。開会式に出席した嘉納治五郎も日本にもオリンピックをと思ったかもしれません。

しかし、時代が悪く、日本は満州事変やら日中戦争やらで国際社会からだんだん 孤立化し、あげくの果てに国際連盟こくさいれんめいから脱退だったいしました・・・

こんな状況じょうきょうで日本でオリンピックを開くなんて夢のまた夢。ましてや当時は欧米おうべい中心の世界情勢だから、アジアでオリンピックなんて条件的に不利でした。

そんな困難な状況でも、嘉納治五郎は日本にオリンピックをまねくべく、世界中へ飛んだそうです。しかも79才という年齢ねんれいで。日本への招致運動しょうちうんどう(※2)だけでなく、柔道も広めたそうですね。

開催地を決めるカイロで行われたIOC総会でも嘉納治五郎は演説をしたそうです。

※2 招致しょうちとは招き寄せること。招いて来てもらうこと。ここでは、日本にオリンピックを招くための活動をすること。

3 東京の街に五輪の旗が

 嘉納治五郎の活やくもあってか、昭和15年に東京でオリンピックが開かれる事が決まりました。嘉納治五郎は(東京開催を支持した)米国のIOC委員を表敬訪問ひょうけいほうもん(※3)し、アメリカから日本に帰国する途中とちゅう、太平洋上の氷川丸ひかわまる船中において、昭和13年5月4日に急死しました・・・

嘉納治五郎が命をかけて勝ち取った日本でのオリンピック開催も、昭和15年に起きた太平洋戦争でおじゃんになったのですが・・・

昭和15年の東京オリンピックは中止になりましたが、昭和39年にめでたく東京でオリンピックも開催かいさいされました。嘉納治五郎がおこした柔道じゅうどうもこの年からオリンピックの正式種目となりました。嘉納治五郎にも見せてあげたかったなあ。昭和39年に開かれた日本初のオリンピックを。

※3 敬意を示すために、相手側へ訪問すること。国交などでよく用いられる。




※ おまけ
辰年たつどしにちなんでりゅうにまつわる動画を。建仁寺けんにんじの龍の絵をみて2012年にお別れしましょう。今年も読者のみなさま方にお世話になりました。来年もよいお年を。




※ この記事は歴史秘話ヒストリアを参考にして書きました


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