history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:歴史秘話ヒストリア




以前の『歴史秘話ヒストリア』で宇喜多秀家の事が取り上げられました。秀家の秘話といえば、「八丈島より泳いで参った!!!」。ウソウソ、冗談ですわw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。

豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。

ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

宇喜多秀家、その子供と家来たちは努力して、島の暮らしに溶け込んでいったのですね。その証は今日も残っております。たとえば、八丈島のあるい家は宇喜多家から紫と緑色の鉱物を譲り受けて、それを糸の染色に使ったという、言い伝えもあるようです。

秀家は島の暮らしに慣れると、島民の役に立ちたいと、新田開発をおこなったり、薬草の知識などを村人に伝えたり、いつの間にか秀家は島民から「殿様」と慕われるようになったといいます。その後、秀家の子供も成長し妻をもうけたといいます。その後も秀家の子孫は八丈島に生き残り、明治のころにも秀家の子孫が八丈島がいたといいます。

一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食糧を死ぬまで送り続けました。はじめは幕府に遠慮しながら細々とやっていたのですが、正式な許可をもらってからは、一年おきに前田家から食糧が送られるようになったのです。前田家から(八丈の)宇喜多への援助はなんと明治時代まで続いたといいます。豪姫が「島のもののこと、くれぐれもお頼み申します」という遺言さえ残したほど。

遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。泣かせますねえ。僕の頭の脳内にスキマスイッチの『奏』が流れてくるようですw二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分は『ヒストリア』をみて思わず思われました。


そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ



※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。一応、「八丈島」の観光協会の公式チャンネルの動画ですから、削除される可能性は低いとは思いますが、それでも、もし映らなかったらごめんなさい。(削除したら怒りますよw観光協会さん)



1 目をつぶってはダメ!
 「歴史秘話ヒストリア」で知ったのですが、新島八重(にいじまやえ)(※1)に火縄銃(ひなわじゅう)のち方を教わった白虎隊士(びゃっこたいし)がいたそうですね。八重はその白虎隊士びゃっこたいしにきびしく指導をしたそうです。火縄銃を撃つと大きな音がします。まだ10代の白虎隊士は、その音にひるんで目をつぶってしまいました。しかし、そんな白虎隊士を八重は

臆病者おくびょうもの!目をつぶってはダメ!」

と何度もしかりつけたそうです。八重はけっこうスパルタ指導だったのですね。

さらに、八重はその白虎隊士のかみが長いというので、白虎隊士の髪を切ってしまいます。射撃しゃげきのジャマになるという理由からでした。

女にじゅうの撃ちかたを教わるなんてなさけないと思うなかれ。

私がその白虎隊の立場だったら泣いちゃうかもw?

※1 旧姓・山本八重

2 砲術も名手だった新島八重
  八重の父は会津藩あいづはん砲術師範役ほうじゅつしはんやくです。さらに八重の兄の山本覚馬(やまもとかくま)も砲術の名人です。そういう家庭で育った八重も射撃の能力も相当のものだったようです。また、明治になってから八重は新島襄(にいじまじょう)と結婚けっこんし、夫と共に同志社(どうししゃ)を建てました。さらに、夫の死後はナースとなって活やくしました。そして昭和の初めまで生きぬきました。それだけ度胸どきょうのすわっていた女性なのです。


3 八重に鉄砲を習った伊東悌次郎

 その白虎隊の名前は、伊東悌次郎(※2(いとう ていじろう)。学問もさることながら、柔道じゅうどうや砲術、馬術も得意でした。体は小さかったけれど、中々のイケメンだったそうですまるで私みたいwうそうそw。いわば、「ドラえもん」の出来杉みたいな白虎隊士だったようです。

伊東の自宅が、八重の家に近かったので、時々たずねては、八重や八重の兄の山本覚馬に砲術などの指導を受けていたそうです。

しかし、伊東悌次郎は白虎隊に入りました。そして、士中二番隊に配属されましたが、飯盛山にて自害しました・・・・享年きょうねん17さい(※3)。

明治の世になり、山本八重は新島襄と結婚けっこん。そして、新島襄と二人で八重の故郷の会津におとずれました。そのときの写真がいくつか残されていますが、白虎隊のお墓の写真もあるそうです。八重も白虎隊の事をしのんだ事でしょう。


※2 「伊」に「東」の伊東ではなく、「伊」に「藤」の伊藤としている文献ぶんけんもあり。私のブログでは、伊東で通します。


※3 16歳とも言われている


※ オマケ
火縄銃は大きな音が出ます。男の子でも初心者はびびるかもしれません。

八重が練習に使っていた火縄銃と同じものかどうかはわかりませんが、こちらの動画でも火縄銃のすさまじさがうかがえます。





※ 参考文献


会津白虎隊のすべて


剣の乙女







1 アジア初のIOCの一員だった嘉納治五郎かのうじごろう

 以前、「歴史秘話ヒストリア」で嘉納治五郎(かのうじごろう)の事を取り上げられていました。嘉納治五郎のことは昔「知ってるつもり」という歴史番組でも取り上げていたから、僕も名前だけは知っていました。

柔道じゅうどうの神様・嘉納治五郎も若いころはいじめられっ子のインテリ学生でした。しかし、「なにくそ負けてたまるかという気持ちから柔術じゅうじつを習い、やがて勝ち負けよりも精神をきたえる事を重要視した柔道をつくり上げたそうですね。

嘉納治五郎が日本にオリンピック招致活動しょうちかつどうをしたのは「ヒストリア」で初めて知りました。それと、嘉納治五郎がオリンピックの父・クーベルタンとも交流があった事も知らなかったです。治五郎がアジア初のIOC(※1)の一員になれたのもクーベルタンの働きかけがあったからだそうです。

※1 国際オリンピック委員会


2 運悪く戦争の時代だった・・・


 明治45年に開かれたストックホルム・オリンピックに日本は初参加しました。開会式に出席した嘉納治五郎も日本にもオリンピックをと思ったかもしれません。

しかし、時代が悪く、日本は満州事変やら日中戦争やらで国際社会からだんだん 孤立化し、あげくの果てに国際連盟こくさいれんめいから脱退だったいしました・・・

こんな状況じょうきょうで日本でオリンピックを開くなんて夢のまた夢。ましてや当時は欧米おうべい中心の世界情勢だから、アジアでオリンピックなんて条件的に不利でした。

そんな困難な状況でも、嘉納治五郎は日本にオリンピックをまねくべく、世界中へ飛んだそうです。しかも79才という年齢ねんれいで。日本への招致運動しょうちうんどう(※2)だけでなく、柔道も広めたそうですね。

開催地を決めるカイロで行われたIOC総会でも嘉納治五郎は演説をしたそうです。

※2 招致しょうちとは招き寄せること。招いて来てもらうこと。ここでは、日本にオリンピックを招くための活動をすること。

3 東京の街に五輪の旗が

 嘉納治五郎の活やくもあってか、昭和15年に東京でオリンピックが開かれる事が決まりました。嘉納治五郎は(東京開催を支持した)米国のIOC委員を表敬訪問ひょうけいほうもん(※3)し、アメリカから日本に帰国する途中とちゅう、太平洋上の氷川丸ひかわまる船中において、昭和13年5月4日に急死しました・・・

嘉納治五郎が命をかけて勝ち取った日本でのオリンピック開催も、昭和15年に起きた太平洋戦争でおじゃんになったのですが・・・

昭和15年の東京オリンピックは中止になりましたが、昭和39年にめでたく東京でオリンピックも開催かいさいされました。嘉納治五郎がおこした柔道じゅうどうもこの年からオリンピックの正式種目となりました。嘉納治五郎にも見せてあげたかったなあ。昭和39年に開かれた日本初のオリンピックを。

※3 敬意を示すために、相手側へ訪問すること。国交などでよく用いられる。




※ おまけ
辰年たつどしにちなんでりゅうにまつわる動画を。建仁寺けんにんじの龍の絵をみて2012年にお別れしましょう。今年も読者のみなさま方にお世話になりました。来年もよいお年を。




※ この記事は歴史秘話ヒストリアを参考にして書きました


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「歴史秘話ヒストリア」で大奥おおおくの事が取り上げられていました。とても興味深い内容でした。

大奥で出世する方法や幕末の大奥御年寄おとしより瀧山たきやま(※1)の話も良かったのですが、大奥の女中じょちゅうだった桂川rt>かつらがわてやの話が特に印象に残りました。今日は”桂川てや”の話を。

桂川てやは御典医ごてんい(※2)のむすめでした。じゃあ金には困っていないジャンと思うかもしれませんが、父は年をとっていて、息子も医者ではあったが、まだ半人前でした。今で言う研修医けんしゅういみたいな感じでした。だから、てやの家はお金の余裕よゆうがあまりなかったのです。それで、”てや”は家族を養うためになんと12才で大奥で女中として働く事になります。12才といったらまだ小学校6年生です!?

”てや”は一生懸命いっしょうけんめい働き、花町という奥女中の先輩せんぱい広大院(※3)にも認められ、なんと13歳で御中籠(おちゅうろう)に出世しました。中学生1年生位でこれだけ出世するとは大変なことです。

え?御中臈(おちゅうろう)って何かって?ええと、毎年7月ごろにお世話になった人に菓子よりだとかビールだとかを送る・・・それはお中元w

調べによると、御中臈とは御台所みだいどころ(※4)の身辺のお世話をする人のことだそうです。

順調に出世をしていった”てや”ではありましたが、彼女が望んでいたのは実家に帰ることでした。てやは、医者であるお兄さんが一人前になった時に大奥の女中をやめようと考えました。幼いころから親兄弟とはなれて暮らしたんだもの、無理もありません。それに、”てや”も年ごろで、こいだってしたい年ごろですし。

やがて月日が流れ、”てや”が16歳になった時、”てや”に不幸が訪れます。皆さん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw(松平定知さん風に)

江戸城は火事になってしまいました。当然大奥も被害ひがいを受けました。あたりが火の中で、”てや”は何とか上司の広大院を探しだします。しかし、今度は花町という大奥の仲間が見当たりません。”てや”にとって花町は自分を引き立ててくれた恩人でもありました。

広大院は花町を助けよと”てや”に命じました。”てや”は花町を助けるべく、燃え盛る火の中へ飛びこんでいきます。「この行灯を持っている死体があったらそれは私です」という言葉を近くにいた女中に言い残して。

火が治まったのち、行灯を強くにぎった死体がみつかります。その死体はてやだという事がわかったのです。16才の短い命でした。かわいそうに・・・

自分の主のため、世話になった人間のために命を投げ打つなんて「忠臣蔵ちゅうしんぐら」のようです・・・

最愛の娘の死を知った父は、亡き娘の絵をいたそうです。その絵は今も残されています。ヒストリアでも、その絵が紹介しょうかいされましたが、本当にきれいな人だなって思いました。


※1 ,16才で江戸城大奥にあがる。徳川家慶(いえよし)の侍女となり,のち年寄。家慶から慶喜(よしのぶ)まで4代の将軍につかえ,江戸開城まで大奥につとめた。明治9年1月4日死去。71才。ちなみに御年寄とは大奥の役職で大奥で一番の実力者で、老中ろうじゅうにも匹敵ろうじゅうするほど

※2 将軍かかりつけの医者

※3 徳川11代将軍徳川家斉とくがわいえなりの正室(奥さん)。島津重豪しまづしげひでの娘。島津重豪は薩摩藩さつまはん(鹿児島県)の藩主。
※4 将軍の奥さん。正室。

以前に歴史秘話ヒストリアを見ておどろいたのが、信長が意外とやさしいところがあった所です。信長といえばおこりっぽくて冷酷れいこくな人物なイメージが強いだけに、マジでおどろきでした。

ときたま、部下や女中にねぎらいの言葉をかけていたそうです。

また、こんな話もありました。

信長がある村へいった時、家も財産もなく、おまけに体が不自由な男性に出会いました。信長は自ら20反の木綿を用意し、他の村人達にこのようにいいました。「この木綿を売って彼に小屋を作ってやれ。えないように食べ物を分けあたえてくれれば自分はとてもうれしい」と。


それと、「世紀のワイドショー」という歴史番組で知ったのですが、信長は、気さくな面もあったそうです。女装をして領民といっしょにおどり、お返しの踊りをした領民には自ら茶をごちそうし「お前の踊りは良かったぞ」とねぎらいの言葉をかけたそう。信長のそんな応対に領民はカンゲキしてなみだを流したとか。

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