history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

タグ:歴史秘話ヒストリア

以前に歴史秘話ヒストリアで新島八重(にいじまやえ)のことが取り上げられました。新島八重は同志社どうししゃ大学の創立者新島襄のおくさん。


マンガで読む新島襄 続 日本初の私立大学設立への挑戦



新島八重は悪妻あくさいとウワサされていましたが、夫の新島襄は彼女の事を「ハンサム・ウーマン」と呼んだそうです。愛妻家であった新島襄は気遣きづったそうですね。

僕も、新島八重は非常にモダンでキャリアウーマンタイプの人だとヒストリアを見て思いました。21世紀の今ではめずらしくは無いのですが、封建的ほうけんてきな風潮があった明治時代の人には変な人に見えたのかも?

もし、お時間がよろしければぜひアンケートにご協力をお願い致します。



このアンケートを造ったのは僕なのですが、アンケートの回答にナポレオンの妻も入れればよかったと思いました。アンケートにの選択肢せんたくしに出てくる女性はみな歴史上の人物ですが、一人だけ歴史上の人物じゃない人もいますw

これはネタでいれただけなのでw

でも、この人を選ぶ人がけっこう多くてウケました。w

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以前に歴史秘話ヒストリアを見ておどろいたのが、信長が意外とやさしいところがあった所です。信長といえばおこりっぽくて冷酷れいこくな人物なイメージが強いだけに、マジでおどろきでした。

ときたま、部下や女中にねぎらいの言葉をかけていたそうです。

また、こんな話もありました。

信長がある村へいった時、家も財産もなく、おまけに体が不自由な男性に出会いました。信長は自ら20反の木綿を用意し、他の村人達にこのようにいいました。「この木綿を売って彼に小屋を作ってやれ。えないように食べ物を分けあたえてくれれば自分はとてもうれしい」と。


それと、「世紀のワイドショー」という歴史番組で知ったのですが、信長は、気さくな面もあったそうです。女装をして領民といっしょにおどり、お返しの踊りをした領民には自ら茶をごちそうし「お前の踊りは良かったぞ」とねぎらいの言葉をかけたそう。信長のそんな応対に領民はカンゲキしてなみだを流したとか。
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以前、「歴史秘話ヒストリア」で大奥おおおくの事が取り上げられていました。とても興味深い内容でした。

大奥で出世する方法や幕末の大奥御年寄おとしより瀧山たきやま(※1)の話も良かったのですが、大奥の女中じょちゅうだった桂川rt>かつらがわてやの話が特に印象に残りました。今日は”桂川てや”の話を。

桂川てやは御典医ごてんい(※2)のむすめでした。じゃあ金には困っていないジャンと思うかもしれませんが、父は年をとっていて、息子も医者ではあったが、まだ半人前でした。今で言う研修医けんしゅういみたいな感じでした。だから、てやの家はお金の余裕よゆうがあまりなかったのです。それで、”てや”は家族を養うためになんと12才で大奥で女中として働く事になります。12才といったらまだ小学校6年生です!?

”てや”は一生懸命いっしょうけんめい働き、花町という奥女中の先輩せんぱい広大院(※3)にも認められ、なんと13歳で御中籠(おちゅうろう)に出世しました。中学生1年生位でこれだけ出世するとは大変なことです。

え?御中臈(おちゅうろう)って何かって?ええと、毎年7月ごろにお世話になった人に菓子よりだとかビールだとかを送る・・・それはお中元w

調べによると、御中臈とは御台所みだいどころ(※4)の身辺のお世話をする人のことだそうです。

順調に出世をしていった”てや”ではありましたが、彼女が望んでいたのは実家に帰ることでした。てやは、医者であるお兄さんが一人前になった時に大奥の女中をやめようと考えました。幼いころから親兄弟とはなれて暮らしたんだもの、無理もありません。それに、”てや”も年ごろで、こいだってしたい年ごろですし。

やがて月日が流れ、”てや”が16歳になった時、”てや”に不幸が訪れます。皆さん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw(松平定知さん風に)

江戸城は火事になってしまいました。当然大奥も被害ひがいを受けました。あたりが火の中で、”てや”は何とか上司の広大院を探しだします。しかし、今度は花町という大奥の仲間が見当たりません。”てや”にとって花町は自分を引き立ててくれた恩人でもありました。

広大院は花町を助けよと”てや”に命じました。”てや”は花町を助けるべく、燃え盛る火の中へ飛びこんでいきます。「この行灯を持っている死体があったらそれは私です」という言葉を近くにいた女中に言い残して。

火が治まったのち、行灯を強くにぎった死体がみつかります。その死体はてやだという事がわかったのです。16才の短い命でした。かわいそうに・・・

自分の主のため、世話になった人間のために命を投げ打つなんて「忠臣蔵ちゅうしんぐら」のようです・・・

最愛の娘の死を知った父は、亡き娘の絵をいたそうです。その絵は今も残されています。ヒストリアでも、その絵が紹介しょうかいされましたが、本当にきれいな人だなって思いました。


※1 ,16才で江戸城大奥にあがる。徳川家慶(いえよし)の侍女となり,のち年寄。家慶から慶喜(よしのぶ)まで4代の将軍につかえ,江戸開城まで大奥につとめた。明治9年1月4日死去。71才。ちなみに御年寄とは大奥の役職で大奥で一番の実力者で、老中ろうじゅうにも匹敵ろうじゅうするほど

※2 将軍かかりつけの医者

※3 徳川11代将軍徳川家斉とくがわいえなりの正室(奥さん)。島津重豪しまづしげひでの娘。島津重豪は薩摩藩さつまはん(鹿児島県)の藩主。
※4 将軍の奥さん。正室。
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(この記事は2011年5月に書いた記事を加筆修正したものです)

今年はオリンピックです。本来は昨年やるはずだったのですが、コロナの影響で今年になってしまったのですね。どうなるんでしょうね。オリンピックは開催しようという意見と中止にしようという意見が分かれております。僕はどちらかというと来年にでも延期した方が良いのではないかと思うのですが、かといって、これまで頑張ってきた選手たちのことを思うとなんとも言えません。


ともあれ今年開催されれば、初の奇数年に行われたオリンピックとして記録に残ることでしょう。それから1964年の東京オリンピックも辰年なんですよね。あと、ヘルシンキ(1952年)、モントリオール(1976年)、ソウル(1988年)、シドニー2000年)とそれぞれオリンピックが開催された年はいづれも辰年です。おどろきですね。

こうしてみると辰年にオリンピックに開催かいさいされることが多いなって改めて思いました。

今年最初のエントリはオリンピックに関するお話です。



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以前の『歴史秘話ヒストリア』で宇喜多秀家の事が取り上げられました。秀家の秘話といえば、「八丈島より泳いで参った!!!」。ウソウソ、冗談ですわw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。

豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。

ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

宇喜多秀家、その子供と家来たちは努力して、島の暮らしに溶け込んでいったのですね。その証は今日も残っております。たとえば、八丈島のあるい家は宇喜多家から紫と緑色の鉱物を譲り受けて、それを糸の染色に使ったという、言い伝えもあるようです。

秀家は島の暮らしに慣れると、島民の役に立ちたいと、新田開発をおこなったり、薬草の知識などを村人に伝えたり、いつの間にか秀家は島民から「殿様」と慕われるようになったといいます。その後、秀家の子供も成長し妻をもうけたといいます。その後も秀家の子孫は八丈島に生き残り、明治のころにも秀家の子孫が八丈島がいたといいます。

一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食糧を死ぬまで送り続けました。はじめは幕府に遠慮しながら細々とやっていたのですが、正式な許可をもらってからは、一年おきに前田家から食糧が送られるようになったのです。前田家から(八丈の)宇喜多への援助はなんと明治時代まで続いたといいます。豪姫が「島のもののこと、くれぐれもお頼み申します」という遺言さえ残したほど。

遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。泣かせますねえ。僕の頭の脳内にスキマスイッチの『奏』が流れてくるようですw二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分は『ヒストリア』をみて思わず思われました。


そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ



※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。一応、「八丈島」の観光協会の公式チャンネルの動画ですから、削除される可能性は低いとは思いますが、それでも、もし映らなかったらごめんなさい。(削除したら怒りますよw観光協会さん)



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