1 祭祀の島だった沖ノ島
今日は、沖ノ島のお話。
沖ノ島は九州北端と対馬のほぼ中間、玄界灘に浮かんでおります。周囲約4キロ、面積わずか0・69平方メートルの小さな孤島です。この島には宗像大社沖津宮という神社があります。え、宗像大社沖津宮ってなにかって?順を追ってお話ししますと、宗像大社とは福岡県宗像市にある大きな神社で、沖ノ島の沖津宮、筑前大島、中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の3つの神社をひっくるめて宗像大社というそうです。その沖ノ島にある沖津宮とは宗像大社にある3つの神社の一つなのですね。
かつてはこの島で祭祀が行われ(4世紀〜10世紀ごろ)、銅鏡や玉類、武器、中国由来の金銅製品、ササン朝ペルシア製のカットグラスなど様々な宝物が発見されました。これらの宝物はすべて国宝か重要文化財に指定されました。それで、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれるようにもなりました。
これらの遺物が出土した背景として、古来、沖ノ島が日本から朝鮮半島や中国にわたる際の要地にあったからです。古代、宗像地方を治めていた豪族・胸方氏によって宗像大社沖津宮が沖ノ島に置かれたのです。そして、祭祀が行われるようになったのです。何のためかというと、航海の無事を祈るためです。
昔は造船技術や航海技術が未熟であったため、海難事故が多発したそうです。沖ノ島に住む神様に航海の無事を祈るべく祭祀が行われたのです。
2 沖ノ島に入り込んだ人々
この沖の島は女人禁制むやみに出入りすることもできません。今でもこの島に立ち寄れるのは神職の人一名だけです。そして、この島にあるものは小石や雑草さえも持ち帰ってはいけない。持ち帰れば祟りがあると信じられてきておりました。だから、島内には手つかずの原始林が生い茂っております。
しかし、島のものを持ち帰ったものがいました。福岡藩初代藩主の黒田長政。貝原益軒の「 筑前国続諸社縁起 」によると、黒田長政がキリシタンに命じて、島にあった宝を持ち帰ったといいます。その宝を城中に運んだ、その日から建物が振動したり、領内で、猛烈な豪雨が降ったといい
それで、黒田長政は「これは神様の祟りに違いない!」と思い、その宝を島に戻したといいます。すると、建物も振動しなくなったり、豪雨も止んだといいます。この時、長政が持ち出した神宝の一つが、現在、宗像大社神宝館に所蔵されている金銅製高機(国宝)ではないかと言われております。
幕末になると外国船警備の名目で、福岡藩士が常駐したそうです。ちょうど沖ノ島が、日本と朝鮮半島の中間地に位置していましたからね。
そして、昭和に入ると沖ノ島ももはや神聖なる神の島という位置付けではなくなります。1939年(昭和14年)になると陸軍が中継基地にしたのですね。大陸防防衛戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士がこの島に駐屯していたといいます。
3 世界遺産に登録されたが
宗像大社は2017年に世界遺産に登録されましたが、登録されるのに一悶着ありまして、元々この島は女人禁制だったのです。それで女性の権利団体からクレームが来て「女性の入島を認めない限り世界遺産は認めん」と主張。結局ユネスコ側から文化や伝統を尊重すると言うことで、世界遺産になりました。この島が女人禁制なのは女性をバカにしているわけじゃなく、この島の神様が 多紀理毘売命 という女神様で女性が近づくと嫉妬するからだと言われております。
また、世界遺産になったことで一般人も入れなくなりました。世界遺産になるまでは、毎年5月に1日だけ男性の一般人200名が沖ノ島に行けたのです。もちろん、島に行くためには裸で海に入り禊をすることが条件ですが。今では宗像大社の神職の人が一名、10日交代で島に派遣されるだけで一般人はまず無理。あと島に入ることが許されるとしたら研究者の人くらいでしょうか。
※ 参考文献および参考にしたもの
あと、『歴史秘話ヒストリア』も参考にしました。
(こちらのサイトも参考にしました)
また、youtubeも参考にしました。
今日は、沖ノ島のお話。
沖ノ島は九州北端と対馬のほぼ中間、玄界灘に浮かんでおります。周囲約4キロ、面積わずか0・69平方メートルの小さな孤島です。この島には宗像大社沖津宮という神社があります。え、宗像大社沖津宮ってなにかって?順を追ってお話ししますと、宗像大社とは福岡県宗像市にある大きな神社で、沖ノ島の沖津宮、筑前大島、中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の3つの神社をひっくるめて宗像大社というそうです。その沖ノ島にある沖津宮とは宗像大社にある3つの神社の一つなのですね。
かつてはこの島で祭祀が行われ(4世紀〜10世紀ごろ)、銅鏡や玉類、武器、中国由来の金銅製品、ササン朝ペルシア製のカットグラスなど様々な宝物が発見されました。これらの宝物はすべて国宝か重要文化財に指定されました。それで、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれるようにもなりました。
これらの遺物が出土した背景として、古来、沖ノ島が日本から朝鮮半島や中国にわたる際の要地にあったからです。古代、宗像地方を治めていた豪族・胸方氏によって宗像大社沖津宮が沖ノ島に置かれたのです。そして、祭祀が行われるようになったのです。何のためかというと、航海の無事を祈るためです。
昔は造船技術や航海技術が未熟であったため、海難事故が多発したそうです。沖ノ島に住む神様に航海の無事を祈るべく祭祀が行われたのです。
2 沖ノ島に入り込んだ人々
この沖の島は女人禁制むやみに出入りすることもできません。今でもこの島に立ち寄れるのは神職の人一名だけです。そして、この島にあるものは小石や雑草さえも持ち帰ってはいけない。持ち帰れば祟りがあると信じられてきておりました。だから、島内には手つかずの原始林が生い茂っております。
しかし、島のものを持ち帰ったものがいました。福岡藩初代藩主の黒田長政。貝原益軒の「 筑前国続諸社縁起 」によると、黒田長政がキリシタンに命じて、島にあった宝を持ち帰ったといいます。その宝を城中に運んだ、その日から建物が振動したり、領内で、猛烈な豪雨が降ったといい
それで、黒田長政は「これは神様の祟りに違いない!」と思い、その宝を島に戻したといいます。すると、建物も振動しなくなったり、豪雨も止んだといいます。この時、長政が持ち出した神宝の一つが、現在、宗像大社神宝館に所蔵されている金銅製高機(国宝)ではないかと言われております。
幕末になると外国船警備の名目で、福岡藩士が常駐したそうです。ちょうど沖ノ島が、日本と朝鮮半島の中間地に位置していましたからね。
そして、昭和に入ると沖ノ島ももはや神聖なる神の島という位置付けではなくなります。1939年(昭和14年)になると陸軍が中継基地にしたのですね。大陸防防衛戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士がこの島に駐屯していたといいます。
3 世界遺産に登録されたが
宗像大社は2017年に世界遺産に登録されましたが、登録されるのに一悶着ありまして、元々この島は女人禁制だったのです。それで女性の権利団体からクレームが来て「女性の入島を認めない限り世界遺産は認めん」と主張。結局ユネスコ側から文化や伝統を尊重すると言うことで、世界遺産になりました。この島が女人禁制なのは女性をバカにしているわけじゃなく、この島の神様が 多紀理毘売命 という女神様で女性が近づくと嫉妬するからだと言われております。
また、世界遺産になったことで一般人も入れなくなりました。世界遺産になるまでは、毎年5月に1日だけ男性の一般人200名が沖ノ島に行けたのです。もちろん、島に行くためには裸で海に入り禊をすることが条件ですが。今では宗像大社の神職の人が一名、10日交代で島に派遣されるだけで一般人はまず無理。あと島に入ることが許されるとしたら研究者の人くらいでしょうか。
※ 参考文献および参考にしたもの
あと、『歴史秘話ヒストリア』も参考にしました。
(こちらのサイトも参考にしました)
また、youtubeも参考にしました。