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1 武家よりも君の恨めしくわたらせ給ふ
護良親王モリヨシシンノウは鎌倉に送られた際、「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」と、ひとり言を言ったそうです。意味は足利尊氏アシカガタカウジより天皇のほうがうらめしいという意味です。護良は父親のためだと思って、一生懸命頑張ってきたつもりだったのです。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに帝位を狙っていると誤解されましたが、護良自身は自分が天皇になれないことをよくわかっていたのです。護良からしたら、父親である後醍醐に裏切られた気分で、さぞ悲しい思いをしたと思います。護良が鎌倉に送られ土牢の中に入れられてしまいました。

護良は「Zガンダム」に出てくるカミーユ(ただし序盤)やカツのようなスタンドプレーをしたけれど、それも自分の名声ではなく、親である後醍醐のためにやってきたこと。本当は護良も父に愛されたかった、それなのに、誤解されてしまったら護良もやるせ無いと思います。

ちなみに、護良は土牢ツチロウに入れられたと言いますが、土牢というより土蔵のような建物の中で軟禁されていたのではないかという説もあるようです。

2 護良死去
護良が鎌倉に送られてから8ヶ月、護美にとって危機が訪れます。建武ケンム2年7月、北条高時ホウジョウタカトキの子、北条時行ホウジョウトキユキが信濃国で反乱を起こしたのです。鎌倉幕府の再興、おやじのカタキを取ろうと立ち上がったのでしょう。いわゆる中世代チュウセダイの乱です。時行軍は関東地方に侵入し、足利直義が派遣した軍勢を次々と撃破。直義はこいつは敵わんと鎌倉を放棄ホウキ、逃げたのです。すると、鎌倉にいる護良はどうなるのか


足利直義は家来の淵辺義博フチノベヨシヒロに命じて護良の暗殺を命じたのです。護良は雛鶴姫ヒナヅルヒメのお世話になりながら、法華経の経典を読んでいました。そんな二人に忍び寄る淵辺。そして淵辺は刀でりかかろうとします。護良も抵抗しますが、護良は武術の達人とはいえ、何ヶ月も監禁されていましたから、体が思うように動きません。それでも護良は抵抗し、なんとで淵辺の刀をくわえ、しかも刀を折ったと言います。これが本当に真剣白歯取りw冗談はこれくらいにしておきましょう。

そして、護良は必死に抵抗したものの、結局淵辺に殺され、首もちょん切られてしまいます。淵辺は護良を撃った証拠に首を拾ったら、その護良の首をみて、淵辺はびっくりしたのです。なんとその首ははっきり目を見開いていて、世にも恐ろしい形相をしていたのです。さすがの淵辺も驚いて、その首を捨ててしまったのです。なお、淵辺義博は実はいい人で、護良を逃し、護良は東北へ落ち延びたという伝説もあります。

3 護良がそんなに悪いのか?
護良の死を報を受けて、後醍醐は大変ショックを受けました。そりゃいくら護良と後醍醐が対立してたとはいえ、実の息子が殺されて平気な親なんていませんからね。護良暗殺が、のちに後醍醐が足利と対立する遠因となります。

後醍醐は生前は護良を親のいうことを聞かぬ困ったやつと思っていたが、亡くなってから、実は護良が親のために一生懸命やっていたこと、護良が父の愛を求めていたことにやっと気づいたのでは。

また、親に反抗という面では、後醍醐もあんまり護良のことを非難できないのですね。実は後醍醐も父親に反発していたのです。後醍醐天皇の父親は後宇多天皇ゴウダテンノウと言いますが、後醍醐天皇は本来天皇になれる人ではなかったのです。

後醍醐の話をするにあたって、この時代の複雑な事情をお話しします。持明院統ジミョウイントウ(※1)と大覚寺統ダイカクジトウ(※2)と皇室が二つに割れていて、皇位を巡って両者が対立していたのです。持明院統も大覚寺統も元々は兄弟だったのですが、兄弟で天皇の座を争っていたのです。それで両統迭立リョウトウテツリツ(※3)といい、持明院統と大覚寺統の両統が変わりばんこで即位していたのです。大覚寺統の天皇が即位したら、次は持明院統の天皇。その天皇が退位したら今度は大覚寺統という具合に。

後醍醐には後二条天皇(大覚寺統)という兄がいました。後二条天皇の後任が、持明院統の花園天皇が即位し、その花園天皇(持)の後任に後宇多天皇(大)は自分の孫の邦良親王クニヨシシンノウ(後二条天皇の子で大覚寺統)に帝位を継がせたかったのです。しかし、邦良親王(大)が8歳と幼かったので、中継ぎとして後醍醐天皇(大)が即位し、邦良親王(大)が成長したら、邦良親王(大)に天皇の座を譲らなければならないのです。

野球に例えれば後醍醐は監督代行みたいなもの。監督が成績不振でシーズン途中で休養し、それでヘッドコーチ等がシーズン終了まで監督の代わりを務め、次の監督にバトンタッチするのが監督代行。オリックスの中嶋聡監督みたいに監督代行からそのまま正規の監督になるケースもありますが、基本的に監督代行はシーズンが終わったら退団します。

中継ぎも大事な役割だと思うのですが、後醍醐はそれに納得できませんでした。後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発したのです。つまり、父の言うことを聞いていたら、自分の子供を天皇にすることもできないし、せっかく自分が手に入れた天皇の地位もやがてはオイの邦良親王に譲らなくてはならないのですから。だからこそ後醍醐は父の後宇多天皇の言いつけに背いたのです。

また、「あれ、こんなに天皇がすぐにコロコロ変わるものなの?天皇は生きていいるうちはずっと天皇の位にあるんじゃないの」と思うのは現代人の感覚。即位から亡くなるまで天皇の位につくというのは明治以降。今の上皇様のように生前退位したのは明治以降では実は初めて。しかし、この時代は10年で天皇の位を降りる、つまり生前退位したのですね。


さて、護良親王の首はどうなったか?それはまた次回に。

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※1 後深草天皇から発した皇統。大覚寺統と皇位を争うが、建武の新政により一時衰退。のちの北朝
※2 亀山天皇から発した皇統。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立となる。のちの南朝。
※3 持明院統と大覚寺統の両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇室が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。天皇の在位期間は10年。



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(Wikipediaより)