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昭和30年代、「てんとう虫」というニックネームの軽自動車がありました。スバル360の事です。車のボディがてんとう虫に似ているから、「てんとう虫」というニックネームがつきました。昭和30年代と言うとマイカーがめずらしい時代だったそうです。なにしろ、乗用車は一戸建ての家よりも高かったそうですから。

スバルといえば、僕自身も愛着があります。今は車を手放してしまいましたが、30年以上にわたってスバルを愛用しておりました。すごく乗り心地がいいんですよ。TOYOTAも性能が良くて捨て難いのですが、少なくとも我が家に関していえば、スバルの方が相性が良かったようです。

戦前、中島飛行機という軍用メーカーがありました。中島飛行機の工場が戦後、GHQによって飛行機の製造を禁止され、旧中島飛行機は10数社の会社に分割されました。富士重工業も、その中の一社でした。

昭和28年ごろになって、いったん解体された旧中島飛行機の5社が合併がっぺいし、さらに新会社の富士重工業が発足し、この新会社が5社を吸収合併し、一つの会社になりました。旧中島飛行機5社と富士重工業をあわせると6社。それを象徴しょうちょうするものとして付けられたのが「スバル」だそうです。「スバル」とは、プレアデス星団にある6つの明るい星のことです。

スバル360を作った若者達も元々は中島飛行機の航空技術者でした。飛行機でつちった技術が、後に車のボディを設計する際、非常に役に立ったのです。スバル360には、かつての中島飛行機の技術者スピリットをよみがえらせたいという想いもこめられていたのかもしれません。

乗用車開発のチームリーダーになったのは百瀬晋六(ももせしんろく)さん。百瀬さんは技術開発のリーダーとして、とても尊敬されていたそうです。百瀬さんの部下に対する指導姿勢は、いたって民主的で、部下に強制する姿勢は全くなかったそうです。

何か問題点があると設計者の席にどかっと座り、担当者ととことん話し合う。そうやって出された案はヒラ社員であろうと部長であろうと全て平等に、良い物は良いと百瀬さんは採用します。そうした議論は時に深夜まで続くとか。その百瀬さんが乗用車開発の際にかかげた目標は3つ。

「大人四人が乗れること」

「悪い道でも時速60キロで飛ばす事が出来、どんな坂道も上がれる事」

「価格は35万円以下にすること」


しかし、これらはいづれも大変な事でした。1500ほどの大きなエンジンをもつ乗用車でさえ、坂道を登るとオーバーヒートしてしまうのです。にもかかわらず、小さなエンジンで大人四人も乗せられるような車をつくるなどムチャな話です。しかも、昭和30年代の日本の道路は、国道でさえ9割が舗装ほそうされていない状態で、ジャリ道だらけだったそうです。

また、昭和30年代当時の車はとても高く一般ピープルが買えるものではありませんでした。400万円以上もするような車なんてざらでした。400万円といいましても、今と物価がちがいまして、このころは大学の初任給が一万円くらいだった時代です。そう考えると、400万というのは大変な価格です。当然、プロジェクトの仲間達は弱気になります。

しかし、百瀬さんは「やる前から出来ねえと言うのは、ヤル気がない証拠しょうこだ」と一喝。この百瀬さんのセリフ、ブラック企業の社長が喜よろこびそうですがw、ブラック企業の社長の言う「無理とは言わせねえ」とはニュアンスが異なるとおもいます。

中島飛行機時代に、あれだけ優れた飛行機やエンジンを造ったノウハウがあるのだから出来ないはずはない、君達に欠けているのはヤル気だけだと百瀬さんは思ったのでしょう。


試作機しさくきを造っては失敗のくり返しでしたが、それにもエンジニア達めげずに努力して、低価格で性能の良い軽自動車を作り上げたのです。スバル360が登場してから、車が身近になりました。


※ オマケ
 百瀬さんの残業は、毎日のように続いたそうです。たまに早く帰ってきても、家族4人で川の字になってたそうです。そんなとき百瀬さんがいつも歌う歌がありました。「ユー・アー・サンシャイン」。アメリカの古いヒット曲です。

http://www.youtube.com/watch?v=QCBGtqCx9EA

※ 参考文献
 『 コミック版 プロジェクトX 日本初のマイカー てんとう虫 町をゆく』