1 上杉鷹山(うえすぎようざん)の生い立ちと米沢藩よねざわはんのたいへんさ

 今日は上杉鷹山うえすぎようざんのお話をします。上杉鷹山の本名を上杉治憲うえすぎ はるのりといい、もともとは九州の高鍋藩の出身であったが、上杉家の養子になりました。鷹山は、若くして藩主はんしゅになります。ちなみに上杉鷹山は「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の血が入っているのですね。

上杉家は、越後えちご(今の新潟県にいがたけん)から米沢(山形県やまがたけん)に領地を変えられ、石高こくだかも減らされ収入が減り、人件費、参勤交代など出費も重なり借金はドンドン増えました。
その辺のお話は前回の記事で触れました。

http://seimei1128.livedoor.blog/archives/9581090.html(前回の記事)

若い藩主を米沢藩は迎えたのですが、家臣のだれもが賛同したわけではなく、「小藩の末子ばっしを名門たる上杉家の跡取りに据えることは好ましくない」と思う長老連中は思っていたのですね。

そんなか米沢藩の江戸家老の竹俣当綱たけまたまさつなは、「御家おいえの立つも立たざるもお前様のお心ひとつ。十万人が苦しむも楽しむもお前様のお心ひとつである」と米沢藩の再興の覚悟を繰り返し鷹山にうったえたといいます。

2 鷹山の改革 
鷹山は、具体的にどんな改革をしたのでしょうか。鷹山の改革の柱は主に3つ。

  • 質素倹約

  • 農村の復興

  • 情報公開


まず質素倹約ですが、鷹山自ら質素倹約にはげみ、着るものは木綿、日ごろ食べるものも一汁一菜いちじゅういっさい、藩主にかかるもろもろの経費を8分の1にまで減らしたといいます。また、大名行列に参加する人数も減らし、来ているものもほこりまみれだったとか。ほかにも奥女中の数も50人から9人に減らしたといいます。

農業改革ですが、鷹山はまず代官の世襲制せしゅうせいを廃止しました。下級武士でも優秀なら登用したといいます。荒れた農地を再度農民に与え、農業指導も行ったといいます。さらに鷹山自ら農村の暮らしぶりを視察。「籍田せきでんの礼」(藩主自ら田畑をたがやすこと)も行い、農村の復興に心血をそそいだのですね。また、それまで林業や農業に一切かかわっていない家臣にも農業や土木作業を手伝うように命じました。荒地の開墾かいこんや、最上川もがみがわの堤防の建設、道の普請など、のべ1万3000人の家臣団が参加しました。土木作業にかかわったある家臣は「人々のたましいが洗われ、気力がふるい立つ初めての経験だった」と語ったそうです。鷹山も藩士たちの作業現場に訪れては、汗まみれに働いている家臣たちに酒をふるまったといいます。家臣団に土木作業や農作業をさせるということは、家臣団の意識を高めるのみならず、農村の現場や土地の状況などを実際にはだで感じてもらうためでした。農業の指導をするにしても、ただ本を読んだ知識で上から目線で農民たちに説教してもうまくいきません。その土地にあった作物、日当たりの状況などを仕事を通して知るためです。


情報公開ですが、藩の経営状況を明らかにするために1年ごとの収支明細書をつくらせました。ほかにも年中行事や法令集もつくりました。改革に先立つのは公文書の作成と公開です。問題を明らかにすることで、具体的にどの出費を減らすか明らかになります。米沢藩の収支明細書には女中が皿などの食器を割ることを想定して、皿(食器)の修繕費しゅうぜんひまで予算に組み込んでいるのです。それくらい細かいのです。



3 鷹山の抵抗勢力

 上杉鷹山は藩改革に当たって優秀ゆうしゅうな人材を活用しました。の行改革のために、鷹山は、それまで目立たなかった人でも、優秀ならば重用ちょうようしました。

鷹山が改革を進めると、それを面白く思わないのが重臣達。侍組さむらいぐみとよばれ、上杉謙信うえすぎけんしん上杉景勝うえすぎかげかつの時代から上杉家に仕える96家が名を連ね家老職などを独占していました。鷹山は何度も彼らからイヤがらせを受けました。たとえば、家臣団は土木作業などの普請に参加しましたが、重臣たちの息子たちには参加を禁止したり、鷹山自ら質素倹約をしているのに、あてつけのように贅沢な着物を着たり。

重臣たちは鷹山に対して改革をやめるように直談判じかだんぱんし、席を立とうとする鷹山のすそを握って引き留める重臣もいたといいます。

鷹山もそれにめげません。

鷹山は言うことを聞かなかった重臣達を切腹せっぷくにしたり、処罰しょばつしたり、また鷹山派の竹俣当綱でさえ、堕落だらくしたという理由で処罰したそうです・・・。厳しい処分ですが、改革のためには時にこうした強硬的なことも必要なのですね。もちろん民主的な政治を行うのが基本なのですが、時と場合によります。要するにリーダーシップ。かといって北朝鮮のように何十年も独裁政治どくさいせいじを続けるのは非常によくないのですが。

そして鷹山は文政5(1822)年3月12日に亡くなります。鷹山の死後、借金16万両は完済、さらに5千両のたくわえまでできたといいます。

上杉鷹山は重臣に切腹せっぷくを命じましたが、かといって彼が血も涙もない人間はありませんでした。彼は国のため、人民のためにあえて鬼になったのですね。鷹山は「国家というもは、過去から未来へと受け継いでいかなくてはならない共有財産であるから、殿様とのさまは無私の心で奉仕しなくてはならない。殿様は領民のために働かなくてはならない」と言ったのですね。

殿様といえば、『ドラえもん』で、わがままで気に食わないことがあるとすぐ人を手打ちを命じる殿様が登場したことがあります。そんな殿様はだめなのですよね。ちなみに手打ちというのはラーメンのことではありませんよw、首をちょん切ることです。最も『ドラえもん』に出てくるお殿様はタイムマシーンに誤って乗ってしまい現代の日本に来てしまうのですね。そして働いた後の食事のうまさに感動し、ドラえもん達が元の時代に殿様を送り返したときには、すっかり改心し、両民思いの殿様になったのですが。

上に立つものは私利私欲や目先の利益にとらわれてはいけないといましめているのですね。そんな彼だからこそ、多くの人に尊敬されているのですね。



※ 参考文献


小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫)

また、NHK『英雄たちの選択』も参考にしました。