*この記事はNHK「英雄たちの選択」などを参考にして書きました。

今日は石田三成いしだみつなり豊臣秀吉とよとみひでよしのエピソードをご紹介します。

まずはの写真をごらんください。

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この写真は羽柴はしば秀吉(のちの豊臣秀吉)と佐吉さきち(のちの石田三成)少年の出会いのぞうです。


羽柴秀吉は、琵琶湖びわこほとりの長浜城ながはまじょうをつくり、長浜城の城主となりました。鷹狩(たかがり)に行くとちゅう、観音寺かんのんじ米原市朝日町まいばらしあさひちょうにある)に立ちよったところ、そこの小僧こぞうあせをかいた秀吉のために、ぬるいお茶を持ってきたそうです。その小僧こそ佐吉さきち少年だったのです。

秀吉は佐吉少年に「うまい、もう一杯いっぱい」とたのんだところ、佐吉少年は先ほど持ってきたお茶よりも少し熱いお茶を持ってきたのです(茶わん半分ほどのお茶)。

さらに秀吉は、佐吉少年にお茶をたのんだところ、今度は小さな茶わんに熱い茶を差し出したのです。

佐吉少年が一杯目でぬるいお茶を出したのは、鷹狩で汗をかいている秀吉をみて、「あ、この人はのどがかわいているだろうな」と思ったからでしょう。

二杯目に少し熱いお茶を出して、さらに秀吉のどをうるおしてもらい、三杯目の熱いお茶をじっくりとお茶の味を楽しんでもらおうと佐吉は思ったのでしょう。

秀吉は茶の入れ方ひとつにも、ここまで気を配る佐吉少年のことを気に入り、自分の家臣にスカウトしたのです。

出会いというのはわからないものですね。そして、三成がおさないころから才気あふれる人物だったことがうかがえるエピソードです。そして秀吉は三成のことを「治部少めは 天下にはばかる程の智慧を持たる奴なり」と評価し、その才能を認めていたのです。

そして三成は、太閤検地や刀狩などの政策を推進したのです。さらに朝鮮出兵の時には、16万もの兵を朝鮮半島に送るという渡航計画を三成が行ったのです。三成は船奉行を任じられ、全国各地から2000隻以上の船を調達したのです。物資の手配や積荷の測定という業務を取り仕切ったのです。

さらに船にどれだけ人を乗せるか、馬をどれだけ乗せるか、そして日本から朝鮮半島までの海路をどうするか、補給はどうするか。しかも海を渡る途中、嵐に合うかもしれない。何しろ日本ではなく、外国に攻め込むのですから。そんなことまで三成は計算したのです。いかに三成が優れた人物か伺えます。



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(説明版)

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(長浜城)