奈良〜平安中期まで、大和朝廷はたびたび軍を東北に派遣したりして、東北を支配しようとしてきました。それが、しだいに朝廷に従順な現地の豪族たちに現地の統治を任せ、微税の便を図るようになるのです。その豪族たちの中で頭角を現したのが、陸奥の安倍氏、出羽の清原氏です。





その一方で、朝廷に代わって、東北地方に食指を動かし始めたのが、清和源氏でした。清和源氏は清和天皇の子供の経基が臣籍降下しんせきこうかし、その経基が源姓を賜り、その経基を始祖とする源氏の系統です。源頼朝も清和源氏の末裔です。





東北には馬や黄金などの産物が多く、また広大な土地も魅力的でした。この東北の地を巡って、安倍氏や清原氏などの地元勢力、朝廷、そして源氏が東北の覇権をめぐって対立をするようになります。そして、前九年の役、後三年の役という戦争へとつながっていきます。この戦争で安倍氏は滅亡し、清原氏は衰退していきます。その中で台頭するのが奥州藤原氏なのです。



また、前九年の役・後三年の役のどちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆こうりゅうした原点ともいえる戦いでもありました。この戦いで源頼義が陸奥守および鎮守府将軍に任じられましたから。



しかし、前九年と後三年とどちらの戦いにも源氏がかかわったにも関わらず、源氏は東北の支配権を握ることができなかったのです。それが源頼朝の代で成し遂げられます。源頼朝に滅ぼされるまで奥州藤原氏は4代続きます。



なお、前九年・後三年の役に関しましては、こちらの動画の方がうまくまとまっていると思います。なにしろ、前九年と後三年の役は人間関係が難しく僕もうまく説明ができません。また別の機会に詳しく触れたいと思います。

















そして奥州藤原氏は、平泉を中心に東北をおさめました。前九年・後三年とむごたらしい戦いを続けてきた初代藤原清衡は平和な世を望みました。前九年と後三年の戦いで亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方区別することなく慰めるために中尊寺を建立しました。東北地方を仏の教えによる平和な理想郷にしようと清衡は考えたそうです。



金色堂は覆堂(※1)とよばれる建物の中にあります。金色堂自体はもちろん、金色堂の中の仏像たちが本当に金ぴかなんでびっくりしました。

金ぴかといいましてもギラギラとしたイヤらしい金色ではなく、本当に上品な感じがしまし



また金色堂には金だけでなく、銀やガラス、象牙ぞうげ(なんとアフリカゾウの象牙!)などが使われているとうからおどろきます。



それにしても、象牙まで使われていたとはおどろきます。象牙なんて今の日本ならともかく、平安の昔に象牙をたやすく手に入るわけがありません。何しろゾウなんて日本にはいないのですから。これは、奥州藤原家おうしゅうふじわらけが海外との貿易を行っていた事の証拠しょうこだと言えます。



金色堂をみて、「ああ、東北は黄金の産地だったんだな」と感心してしまいました。しかし、黄金の産地だったからこそ、時の権力者に東北がねらわれたのでしょう・・・









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(中尊寺の覆堂ふくどう。この覆堂ふくどうの中に金色堂があります。)



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(旧覆堂ふくどうの写真。以前はこの覆堂の中に金色堂があった。覆堂が作られたのは金色堂の黄金を雨や雪から守るためだそうです。)









※1貴重な文化財、史跡等を風雨から保護するために、それらをおおうように建設された簡易な建築物である



※ 参考文献



いま、「東北」の歴史を考える
高山宗東
総和社
2011-06-28





これならわかる東北の歴史Q&A
進, 榎森
大月書店
2008-06-01