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1 征夷大将軍をやめさせられる
護良は征夷大将軍の他に兵部卿ヒョウブキョウもかねました。また和泉国(大阪の和泉市あたり)や紀伊国(和歌山県あたり)の知行国主チギョウコクシュ(※1)となりました。いづれにしても京の都から近い国です。そこまではよかったのですが、だんだん護良は尊氏だけでなく、父の後醍醐とも確執が生じるのです。

護良は鎌倉幕府滅亡後も令旨レイシを出しました。令旨の内容は所領の充行アテオコナイ(※2)や安堵アンド (※3)、寄進(※4)がメインでした。護良も征夷大将軍になれたので張り切っていたのでしょう。しかし、護良のとは別に後醍醐天皇も土地関係のことで宣旨センジ(※4)を出していたのです。

護良が出した綸旨と後醍醐天皇が出した宣旨の競合が問題になったのです。護良と後醍醐の内容の食い違っていたのです。例えば、護良の令旨に名無しの権兵衛さんという武将に大阪のAという土地をあげるよと書いてあったとします。で、後醍醐が出した宣旨の内容だと、名無しの権兵衛さんが与えられた土地は大阪のAではなく兵庫のBという土地をあげるなんてこともあったのです。名無しの権兵衛さんからすればどっちが本当なのかわかりませんね

だから、後醍醐は護良の出した令旨は無効だと言い出したのですね。そして、護良はたった3ヶ月で征夷大将軍を辞めさせられてしまうのですね。後醍醐からしたら、護良のやったことは、混乱を招くだけでありがた迷惑な話だと思っていたのですね。もちろん征夷大将軍を辞めさせられても兵部卿の地位は残っていたし、知行国主も続けたのですが、それでも護良の勢いは急速に衰えたのです。

2 尊氏暗殺計画
一方で護良のライバルの尊氏は武蔵国や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。さらに尊氏は雑訴決断所(※5)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※6)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。後醍醐が尊氏をここまで優遇するのは、尊氏を気に入っていたからか、それとも後醍醐は尊氏を警戒してなんとかご機嫌をとるために優遇したのか、理由はわかりません。ただ、尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良の嫉妬もあるけれど、護良から見て尊氏は危険な存在に映ったのです。尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。


護良はついに実力行使に出たのです。なんと、護良は尊氏暗殺計画をクワダてたのです。護良の軍勢が尊氏の館を秋雨撃するウワサまで立ったのです。そこで尊氏は外出の時は、大勢の軍勢をお供にしていたし、館にも兵をおいて防御を固めていたのです。

また「太平記」には密かに諸国へ尊氏討伐タカウジトウバツを呼びかける令旨を発給していたとも。こうした尊氏暗殺計画は護良の単独行為とも、黒幕は後醍醐とも言われております。僕はおそらく単独行動だと思います。後醍醐としては尊氏は脅威だから、本当は死んでくれた方がありがたいかもしれないが、かといって足利を倒す力もまだないのに、尊氏をいま殺したら大変です。それに尊氏は、地位などのエサを与えれば勝手なことはしないというのが後醍醐の頭にありました。

3 護良逮捕
さらに、そんな護良に大ピンチがおきます。護良がやとっていた私兵がチンピラみたいな連中で、夜な夜な京の街を徘徊ハイカイしては、少年と少女たちを何人も殺害したのです。れはひどいですね。直接手を下していない、部下がやったとはいえ監督責任は護良にあります。少年と少女の親御さんたちの悲しみは深いものでしょう。

度重なる護良のスタンドプレーに後醍醐も流石の我慢の限界。後醍醐も今まで我が子だと思って大目に見てきたが、後醍醐は護良を護良を捕らえようとします。

後醍醐は天皇新政を施行し、摂関政治、院政、幕府政治を否定し、天皇が自ら政治に関わる、天皇独裁、悪くいえば、北朝鮮のような天皇中心の国家体制を作りたかったのです。その構想に、スタンドプレーが目立つ護良の存在は尊氏より厄介だったのです。尊氏は地位さえ与えれば変なことをしないというのが後醍醐の頭にあったのでしょう。

ちなみに『太平記』では後醍醐天皇の愛人の阿野廉子アノレンシ
が自分の子供を天皇にしたくてジャマ者の護良をなき者にすべく阿野廉子は後醍醐に護良の悪いウワサを吹き込んだという話が出て来ます。護良は味方も多かったようですが、敵も少なくなかった。しかもその敵というのが最大権力者である後醍醐のお気に入り。

いくら護良が優秀でも、後ろ盾を失えばただの人。実力者に可愛がられるか、逆らって敵に回るか。

護良を見ていると一昔前の長嶋茂雄監督を僕は思い出します。長嶋監督は巨人の監督を二期監督(一期目は1975から1980年まで。二期目は1993年から2001年まで)を務めましたが、一期目は不本意な形で退団したのですね。これは成績が悪かったというより、当時の巨人のお偉いさん、大物OBに疎まれたことが大きかったとか。


建武元年10月22日、清涼殿セイリョウデンで行われた詩会に護良は参加しました。その護良は後醍醐近臣の結城親光ユウキチカミツ名和長年ナワナガトシに逮捕され、武者所に拘禁されたのです。そして、最終的に護良は鎌倉の直義の所へ護送されたのです。護良はスタンドプレーばかりする上に、家来の仕業とはいえ子供まで殺しました。


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※1 古代、中世の日本において特定の国の知行権を得た皇族、有力貴族、寺社など。
※2 平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為を指して使用された語。
※3 社寺等に物品や金銭を寄付すること。
※4 昔、天皇のお言葉を下に伝えること。それを書いた文書。それを伝える役目の人。
※5 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※6 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



※ 参考文献



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