history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

タグ:豊臣秀吉

1 秀吉の経済政策
1582年の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、信長の後を継いだのが豊臣秀吉。秀吉の経済センスはすごいものでした。有名なのは太閤検地。それまでばらばらだった測量方法を統一し、全国の領地を調べ上げました。コメの生産高を正確に把握し、効率よく年貢を集めることができたといいます。そうやって秀吉は財政基盤をつくりあげました。秀吉は日本を平定した後、さらなる経済発展のために途方もない計画を立てました。それが明国出兵。明は高価な陶磁器や絹織物があふれる巨大市場。しかし海禁政策のため、貿易は厳しく統制されておりました。秀吉は中国市場をこじあけようとしたのです。秀吉が明国出兵を思いついたのは、中国をわが領土にしたいという意思は初めはありませんでした。明と日本との貿易を再開し、アジア経済の活性化を目指したのです。しかし、明が日本の申し出を拒否。それで力づくで明をねじふせようとして、手始めに朝鮮半島に出兵したのです。

しかし、中国の地を狙っていたのは日本だけでなく、スペインも狙っておりました。スペインを束ねるのは征服王・フェリペ2世。フェリペ2世は世界征服をマジで狙っていて、世界で初めてアジアとヨーロッパを統一する壮大なビジョンを抱いておりました。世界の市場がひとつに統一されれば、より大きな利益を生むはずだと考えました。

フェリペ2世に先んじて、明を支配しておきたい。しかし、戦争をするにしても、ましてや海外進出となると、そのためにはお金がかかります。それで秀吉は日本中の銀山を開発していたのです。いわゆるシルバーラッシュ。日本の銀の産出量は世界の3分の1を占めており、世界でも「日本は銀山王国」だと広く知れ渡っていたほどです。

そして秀吉は明国出兵の足掛かりに朝鮮半島に出兵。さらに秀吉は明の遠征と同時にスペインのアジアにおける拠点、フィリピンへの侵攻も計画していたといいます。もし、秀吉がフィリピンにも進行していたらスペインと日本との激しい争いになり、それが世界を巻き込むような大戦争になる恐れがあったのです。アジアを発火点に「最初の世界大戦」が起きる可能性もあったのです。ところが、1598年にフェリペ2世と秀吉が死去したため、その危機は免れたのです。本当に危なかった。

2 家康の経済政策
 秀吉の死後から2年たって、関ケ原の合戦がおこりました。東軍率いるは徳川家康。西軍率いるは石田三成。総勢20万の人が入り乱れて戦う、すさまじい戦でした。この戦で勝利を収めた家康は、壮大な経済構想をたてました。家康は1603年に江戸に幕府を開きました。しかし、当時の江戸は湿地が広がる小さな田舎町。急ピッチで建物の建築を進めたものの、大都市とは程遠いものでした。当時、日本で最も栄えていたのが豊臣家の本拠地大坂でした。豊臣家は豊臣秀頼が後を継ぎ、秀吉が残した経済力と、秀吉に忠誠を誓った家臣団を抱えており、家康を脅かしておりました。

豊臣家に対抗するには経済力と軍事力が必要。それで家康が目を付けたのが貿易です。特に商人たちが興したオランダは家康に接近してきました。オランダは家康は武器を買うように提案してきました。これは家康にとっては渡りに船でした。オランダの後ろ盾を得た家康は、豊臣家に戦いを挑みます。大坂の陣です。徳川軍は大阪城に攻め込みますが、鉄壁の守りを持つ大坂城を落とせません。それで家康が頼みの綱としたのがオランダです。家康はオランダから最新式の大砲を買います。オランダの大砲を用いて、大坂城を攻撃。砲弾は天守の御殿を直撃。豊臣家をビビらせたといいます。そして、いったん休戦をして、大坂城の堀を埋めてしまいます。堀を埋められたら、さすがの難攻不落の大坂城もたまったものではありません。そして大坂城は落城。豊臣家はほろんだのです。

敵がいなくなった家康は貿易をすすめました。家康はキリスト教には厳しい態度でしたが、貿易には寛容な態度をとってきました。朱印船を送り東南アジアのほうにも貿易をしていたのです。その時の日本の輸出品が、火縄銃やヤリ、日本刀、それから日本人の傭兵など。

そして、家康は貿易を通して経済力を高め、300年近く続く幕府の基礎を築いたのです。
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(阿弥陀寺((あみだでら))の入口)

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(阿弥陀寺)

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(阿弥陀寺のいわれが書かれた立て札)



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(いづれも信長の墓)

今日は本能寺の変にまつわる話を。以前の「歴史秘話ヒストリア」で織田信長(おだのぶなが)の事をやっていました。見ていておどろいたのが、信長が本能寺の変で自害したとき、信長の死体が消えたと言うことです。どうも本能寺から信長の遺体(いたい)をかくした人物がいたようです。

それが京都の阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょくじょうにん)。清玉上人は織田家とはゆかりのある人物だそうです。

織田家が支配していた尾張(おわり)の国で清玉上人の母親は産気づいて倒れたのです。

それを助けたのが織田家の人間。しかし、清玉上人の母親は清玉上人を産んですぐに亡くなりました。それをかわいそうに思った織田家の人たちはまだ子どもの清玉上人を大切に育てました。そうして織田家の保護を受けて清玉上人はなんと19才の若さで阿弥陀寺(あみだでら)の住職じゅうしょくになることができました。

清玉上人は織田家に大変な恩義を感じていました。だから、信長の死体が明智光秀(あけちみつひで)の手にわたる前に、信長の死体を運び、阿弥陀寺にてひそかに葬儀そうぎを行ったといわれています。

しばらくして阿弥陀寺に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が現れます。秀吉は清玉上人に「この阿弥陀寺にて信長の葬儀をやりたい」と提案しました。しかし、清玉上人は「信長公の葬儀は自分達がささやかながらやりました。改めて信長公の葬儀を行う必要はありません」と秀吉の申し出をつっぱねたのです。


それはダメだと思ったのが清玉上人。仕方なく秀吉は大徳寺にて大々的に信長の葬儀を行いました。

清玉上人は本能寺の変から3年後に亡くなりました。「待ってました」といわんばかりに秀吉は清玉上人の阿弥陀寺を移転させ、しかも阿弥陀寺の敷地しきちを縮小させられました。まさに嫌がらせです。

そのため、阿弥陀寺にお参りする人も減ってしまい寺は困りました。その阿弥陀寺に助けたのがか森家。森家は、信長の小姓こしょうの森蘭丸(もりらんまる)の親族です。森家の援助(えんじょ)のおかげで阿弥陀寺はなんとか維持いじできました。阿弥陀寺には信長のお墓と森蘭丸および親族のお墓があるそうです。

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※ 阿弥陀寺のアクセス





京都府京都市上京区寺町通今出川上る二丁目鶴山町14

京都駅から地下鉄で出町柳駅下車or市営京都バスで京都河原町今出川下車。徒歩15分〜20分くらい






※ 今回の記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました

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