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(阿弥陀寺((あみだでら))の入口)

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(阿弥陀寺)

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(阿弥陀寺のいわれが書かれた立て札)



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(いづれも信長の墓)

以前の「歴史秘話ヒストリア」で織田信長(おだのぶなが)の事をやっていました。見ていておどろいたのが、信長が本能寺の変で自害したとき、信長の死体が消えたと言うことです。どうも本能寺から信長の遺体(いたい)をかくした人物がいたようです。

それが京都の阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょくじょうにん)。清玉上人は織田家とはゆかりのある人物だそうです。

織田家が支配していた尾張(おわり)の国で清玉上人の母親は産気づいて倒れたのです。

それを助けたのが織田家の人間。しかし、清玉上人の母親は清玉上人を産んですぐに亡くなりました。それをかわいそうに思った織田家の人たちはまだ子どもの清玉上人を大切に育てました。そうして織田家の保護を受けて清玉上人はなんと19才の若さで阿弥陀寺(あみだでら)の住職じゅうしょくになることができました。

清玉上人は織田家に大変な恩義を感じていました。だから、信長の死体が明智光秀(あけちみつひで)の手にわたる前に、信長の死体を運び、阿弥陀寺にてひそかに葬儀そうぎを行ったといわれています。

しばらくして阿弥陀寺に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が現れます。秀吉は清玉上人に「この阿弥陀寺にて信長の葬儀をやりたい」と提案しました。しかし、清玉上人は「信長公の葬儀は自分達がささやかながらやりました。改めて信長公の葬儀を行う必要はありません」と秀吉の申し出をつっぱねたのです。


それはダメだと思ったのが清玉上人。仕方なく秀吉は大徳寺にて大々的に信長の葬儀を行いました。

清玉上人は本能寺の変から3年後に亡くなりました。「待ってました」といわんばかりに秀吉は清玉上人の阿弥陀寺を移転させ、しかも阿弥陀寺の敷地しきちを縮小させられました。まさに嫌がらせです。

そのため、阿弥陀寺にお参りする人も減ってしまい寺は困りました。その阿弥陀寺に助けたのがか森家。森家は、信長の小姓こしょうの森蘭丸(もりらんまる)の親族です。森家の援助(えんじょ)のおかげで阿弥陀寺はなんとか維持いじできました。阿弥陀寺には信長のお墓と森蘭丸および親族のお墓があるそうです。

※ 関連記事

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※ 阿弥陀寺のアクセス





京都府京都市上京区寺町通今出川上る二丁目鶴山町14

京都駅から地下鉄で出町柳駅下車or市営京都バスで京都河原町今出川下車。徒歩15分〜20分くらい






※ 今回の記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました

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今日から沖縄おきなわの明治時代までの歴史を三回にわたってお話します。第一回は沖縄がまだ琉球王国りゅうきゅうおうこくと呼ばれていた時代。豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)と言った権力者に翻弄ほんろうされるところのお話を始めたいと思います。


1 秀吉VS琉球王国


 琉球王国は、日本と別の国でした。中国や東南アジアとの国と貿易をして大いに栄え、平和に暮らしていました。特に中国と仲が良かったみたいです。琉球が中国に貢物みつぎものを差し出し、その見返りとして琉球が中国と交易をさせてもらうという関係ではありましたが。

その琉球の平和に暗いかげが落ちます。天下を取った豊臣秀吉が琉球に圧力をかけてきたのです。秀吉は琉球の国王である尚寧(しょうねい)に貢物として米を送るようにせまります。当時秀吉は朝鮮ちょうせんと戦争をしていたから、大量の兵糧ひょうろう(※1)が必要でした。

※1 戦争時における軍隊の食糧しょくりょうのこと。 日本においては主食である米であることが多い

2 琉球侵攻しんこう口実こうじつをあたえてしまう・・・

当然、尚寧は秀吉の要求に反発しました。が、秀吉はその後も琉球に圧力をかけ続け、とうとう琉球は「もはや、これまで」と思い、秀吉から要求された米の半分を秀吉に差し出す事になりました・・・

さらに秀吉は、島津しまづ氏に琉球の軍事的指導権をあたえました。つまり、島津氏が「戦争に行け」と言えば、琉球の人たちは戦争にいくハメになるのです。

当然、琉球の人たちは島津氏の要求を「イヤだ」といいました。しかし、このことが江戸時代になって、島津氏による琉球侵攻りゅうきゅうしんこう口実こうじつを与えてしまいます。


3 家康VS琉球王国

 秀吉が亡くなったものの、今度は家康が琉球に圧力をかけてきました。家康は考えていたのでしょう。秀吉の時代に途絶とだえていた明との国交を回復し、交易も再開するには琉球の役割が重要になる。

また、琉球を意のままに動かしたい、そのためには島津氏の仲立なかだちが必要だと家康は考えました。

琉球王国もそういった動きにだまってはいません。尚寧は中国(明)の力を借りて家康に対抗たいこうしようとしました。さらに、中国に留学をしたことがある人物を国政の最高責任者に抜擢ばってきしました。そして、家康や島津氏の提案をことごとく「NO」と言いました。

それになのが家康と島津氏でした。

琉球王国は何度も島津家に和平の交渉をしたのだが、島津家はこれを受け入れず、とうとう1611年、島津軍は沖縄島おきなわとうみました。そして尚寧をらえてしまったそうな・・




4 ヒドイ内容の起請文きそうもん
尚寧たちは島津への起請文きしょうもん(※2)を書かされます。 起請文の内容は

「琉球は昔から薩摩・島津氏さつま・しまづしの属国でした。無礼のために琉球国は破却はきゃくされましたが、島津公のおかがで、島をたまわりました。このごおんわすれられません」というもの。

自分達が攻めておいて「ご恩は忘れられません」はヒドイ話です・・・・。むしろ「よくもオレ達の領土を攻めたな!この野郎!」って言いたいところでしょうか?こんな心にもないことを書かされた尚寧(しょうねい)たちの無念さが感じられます。

※2 今で言う契約書けいやくしょみたいなもの。自分の行動を神仏にちかって守るべきことを守らなかった場合はばつを受けるみたいなことが書かれた文書。




5 琉球りゅうきゅうのその後
この起請文にただ一人、反発する人物がいました。その人物はの名前は謝名親方利山(じやなうえかたりざん)。しかし、彼は処刑しょけいされてしまいましたが・・・

それ以降、琉球王国は表向きは独立国ではありましたが、島津家の役人が琉球に居つくなど、島津家には逆らえない感じでした。

それでも、琉球は島津に気をつかいながらも、中国とは相変あいかわらず仲良しだったそうな(悪く言えば板ばさみ)。そうした関係は明治代まで続きました。また、次回、明治維新以降の近代の歴史を取り上げます。

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1459517.html

※ おまけ
沖縄にリザンシーパークホテルという大きなホテルがあるそうですね。このホテルの名前は、謝名親方利山(じやなうえかたりざん)の名にちなんでいるそうです。沖縄では彼は英雄えいゆうなのですね。




※ 参考文献



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