前回の記事で、平三郎の話をしましたが、今日は同じく鳥島に流れ着いた野村長平のお話を。野村長平の方が漂流者としては有名かな?野村長平がこの島に流されたのは、前回の記事に出てきた平三郎より後の話。平三郎が流されたのは享保4年(1719)ですが、長平が流されたのは天明5年(1785)のこと。長平は土佐の出身で、船でお米を運び、帰る途中に嵐にあい鳥島に流されたのですね。長平の他に乗組員が三人いたのですが、鳥島に漂着してから2年以内に皆死んでしまい、長平は一人取り残されたのですね。しかし長平が流されてから3年後に、大阪からの漂流者、それから日向からの漂流者と合流し、総勢十八人が皆で助けあったのです。しかし四人も病気で亡くなったものの、5年かかって船を作って、鳥島を離れ、青ヶ島を経由し、八丈島に到着、そして長平たちは無事に帰路に着くことができたと言います。

ともあれ、僕がウダウダブログで語るよりも、こちらの動画で野村長平の功績を見ていた方が、はやいかと。↓



前回の記事で平三郎が洞窟に書き置きを残したと言いますが、長平ものちにくる漂流民のためにさまざまなものを残しました。火打ち石、鍋、ふいご、船の模型、それからやはり生き残るための書き置き、今で言うマニュアルまで洞窟に置いてきたと言います。

そればかりでなく長平たちは島で亡くなったものたちにも手を差し伸べたと言います。出航の際、長平たちは亡くなった四人の名前を呼んだと言います。まるで、お前たちも乗れと言わんばかりに。さらに、すでにこの島で亡くなった名も知らぬ漂流民たちの遺骨も持ち帰り、八丈島にあるお寺に葬ったと言います。生死の淵に追い詰められながも、人のことを思えるこの余裕。しかも亡くなった人たちのことまで心を寄せられるなんて。英雄と呼ばれる人たちはこういう人たちのことを言うんだなって。

野村長平は無事に土佐に帰ってきました。長平の死後、彼のことは語り継がれ、今も地元の人たちに愛されていると言います。長平の銅像が造られたり、長平を偲んだお祭りも開かれたり。


鳥島の漂流民たちはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際のような生活でしたが、それでも彼らは諦めずに、帰りたいという強い信念で頑張ったのですね。鳥島の漂流民たちが現在に教えてくれるものは何か?それはどんな絶望的な状況に置かれても光があるということでしょうか。