今日の東京の夜はすずしい。今夜はゆっくりねむれそうですw

さて、前回の続き。再び女工のお話。今日は工場のお話ではなく野麦峠越のむぎとうげごえの悲劇について。

製糸工場は正月になると休みになります。女工さん達は故郷に帰れるとウキウキするのですが、しかし信州の冬の厳しさは相当なもの。特に飛騨ひだ出身の女工さん達は野麦峠というけわしいとうげえなくてはなりません。それはレミオロメンの「粉雪」に出てくるようなロマンチックな風景ではありません。

ぴゅーぴゅーとやいばの様なするどこおった風、そこを歩いた人間がたちまち雪だるまになるほどの激しい雪。あたりは猛吹雪もうふぶきで視界が悪い。壮絶そうぜつな風景です。

明治時代はパンツもなかったから、女工さん達の腰巻はらまきのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかったそうです。凍死とうしする女工さんも、雪の谷底に落ちる女工さんだっていました。また、妊娠にんしんしている女工さんは寒さのあまりに流産りゅうざんしてしまったとか・・・

一応運び屋と呼ばれる男性(体が弱い女工さんをおぶったりする男性)やお助け茶屋などの休息所や宿屋も峠にあったのですが、それでも女工さん達には冬の峠越えは厳しい。ましてや外灯も舗装道路ほそうどうろもなかった時代だからなおさら大変でした。

政井みねという女工さんは「ああ飛騨が見える」と言って、兄におんぶをされたまま、この峠で亡くなったそうです・・・

いま野麦峠には、「冬の野麦峠を歩いた女工達の事を忘れないでおくれ」と現代の私達に語りかけるように、政井(まさい)みねの像が建っています。

我々現代人は故郷に帰るなんて、さほど難しいことではありません。交通も便利になりましたし。事故さえ気をつければ、命がけの帰郷ききょうなんて無いと思います。しかし、本当に命がけで故郷に帰るような時代があったのです・・・

Nomugi_Pass_Masai_Mine_and_Masai_Tatsujiro_statue

(この画像の出典はウィキペディアです)


http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1520131.html
(次回の記事)


※ おまけ


野麦峠の動画をご紹介しょうかいします。今でこそ野麦峠はスキーの名所ではありますが、かつては女工さん達の悲劇の現場であった事をご理解いただければと思います。