※ 参考文献




1 『ヘチ』より昔の話 
今NHKで『ヘチ 王座への道』という韓国の歴史ドラマをやっているようですね。あいにく韓流ドラマには疎いのですが。僕の親戚も好きで良くて見るそうです。

今日のエントリーは、『ヘチ』より昔の話をします。時代は飛鳥時代。朝鮮半島ちょうせんはんとうから、日本にやってきた人物がおりました。その人の名前は 高麗 若光 コマノジャッコウ

高麗 若光は高句麗コウクリの人物で、王族だと言われております。彼は666年(天智テンチ5)に日本にやってきました。666と聞くと僕は映画「オーメン」を連想してしまいますw西洋では666は不吉な数字ですが、日本ではそうでもないみたい。ちなみに現在日本で流通している硬貨を一枚ずつ足し算すると666円になります。(500円+100円+50円+10円+5円+1円)

雑談はこれくらいにしてw、666年当時、高句麗は新羅シラギトウの連合軍に激しく攻せめられて、大変な思いをしていたようです。

それで高句麗は「日本から援軍エングンを送ってもらおう」と思ったのです。そうして日本に援軍を頼みに来日したのが若光ジャッコウと言うわけです。

しかし、大和朝廷ヤマトチョウテイは動きませんでした。なぜなら、当時の朝廷に高句麗に援軍を送る余裕ヨユウが無かったからです。

若光がやってきた年からさかのぼること3年前の663年(天智テンチ2)に「白村江ハクスキエの戦い」という大きな戦争がありました。日本が朝鮮半島にあった百済クダラという国の復興のために、新羅・唐の連合軍にケンカを売ったのですが、ボロ負けをしてしまったという事件です。

「新羅・唐の連合軍が日本に攻めてくる!」

当時の朝廷の人たちは、マジでそんな風に怖こわがったようです。今風に言えば中国の脅威が迫っていたのですね。新羅・唐の連合軍に侵略シンリャクに備えなきゃいけない時に、「高句麗に援軍を送るなんてとんでもない!」と朝廷の人たちは思ったのかもしれません。

若光が日本にやってきてから2年後の668年(天智7)、高句麗は滅ほろんでしまいます。高句麗の復興のために、わざわざ日本にやってきた若光の夢ははかなく消えてしまったのです・・・


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(五世紀終わり頃の朝鮮半島。のちに百済と高句麗が滅ぶ。なお、伽耶というのは小国家群で、互いに協力し、時には競い合いながらも栄えていた国々。大和朝廷とも関係が深かった)

2 若光、日本に定住した
 祖国を失った若光は日本に定住することにきめました。若光はさいわい統率力とカリスマ性があったそうです。そのため、若光は朝廷で認められ、703年(大宝タイホウ3)に 従五位下 ジュウゴイゲの官位を受けたそうです。それから若光は、(すでに)日本に移り住んでいた高句麗の仲間たちとともに、相模サガミ神奈川県カナガワケン)の大磯オオイソに住んでいたとも言い伝えられています。

716年に大規模な高句麗人こうくりじんの移住がありました。「続日本紀しょくにほんき」に以下の様な記述きじゅつがあるようです。



駿河するが甲斐かい相模さがみ上総かみうさ下総しもうさ日立ひたち下野こうずけの七国にいる高麗人こうらいじん1799人をって武蔵国むさしのくにうつし(移し)、始めて高麗郡こうらいぐんを置く。」


要するに東国のあちこちにいる高麗人を武蔵国に移しましょう、その武蔵国に高麗郡というものと置き、そこに高麗人を住まわせようというものです。朝廷ちょうていは新田開発を目的に各地にこおりを新設していたようです。武蔵国に高麗郡ができたのもの、そういう理由があったからです。「同じ国の仲間同士を集めたほうが新田開発もうまく進むんじゃないか」と当時の朝廷が思ったのかもしれません。

また、当時の朝廷には高麗系の渡来人とらいじんがけっこういて、出世しておエライさんになった人間も数人いたそうですし。


ちなみに、高麗郡という地名は今はもうありません。高麗郡は、埼玉県の日高市と鶴ヶ島つるがしま市の全域、それから川越市かわごえし狭山さやま市、入間いりま市、飯能はんのう市のそれぞれ一部の地域を含んでおりました。高麗郡はけっこう広かったんだなと思いました。

ただ、この高麗人移住は強制的に行ったようで、住みなれた地域をはなれることに不満ふまんをもつ人も少なくなかったようです。


3 高麗若光がリーダーになる

 そうした問題を解決するにはリーダーが必要です。それも人望がある人物が。そのリーダー役として白羽の矢が立ったのが相模国さがみのくに大磯おおいそに住んでいる高麗若光(こまのじゃっこう)と言うわけです。朝廷ちょうていは、若光を高麗郡の初代郡司ぐんじ(※1)に任命しました。

若光が日本に来たのは666年です。716年と言うと、すでに50年の年月がっています。しかし、若光は持ち前のリーダーシップを発揮し、高麗郡の発展に大きく貢献こうけんしたそうです。若光は亡くなるまで、この地で仲間たちとともにがんばってきたようです。

そうした若光の徳をしのび、立てられたのが高麗神社(こまじんじゃ)です。この神社の神主は、若光の子孫が代々つとめ、今日にいたっているようです。オドロキですね。

高麗神社は。歴代の首相も訪れているようです。また韓国のおエライさんもこの神社におとずれたそうですね。また、高麗神社のすぐ近くに聖天院(しょうでんいん)というお寺があります。このお寺には若光のお墓と伝えられる「高麗王廟こうらいおうびょう」があります。



※1 律令制りつりょうせい下において、中央から派遣はけんされた国司こくしの下で郡を治める地方官である。



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(高麗神社の入口にあった石像せきぞう

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(高麗神社の鳥居とりい

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(高麗神社の本殿)

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(高麗神社の説明文)

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(同じく高麗神社の説明文)

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(トライ君とミライちゃん。高麗神社境内けいだいで見つけました)

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(聖天院)

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(高麗王廟)


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(同じく高麗王廟)